小出裕章『放射能はどこまで安全か?』

311以降の、福島第一の事故以降、京大の小出裕章先生が注目された。私が興味深いのは、なぜ、安全厨たちは、小出先生を

  • 論破

しないのだろう? という疑問であった。彼ら、原発を安全側で主張したい、なんらかの形で、原発推進利益相反にある(または、あろうとしている)人たちは、最も彼らの主張の最大の「障害」である、小出先生を

  • 説得

できれば、その影響力は絶大なものがあるわけだから、それを目指されればいいのに、なぜか、そうしない。
私は別に、安全厨の人たちが、原発推進を語ることは、この自由主義の日本において、各自の権利であると思っているわけで、好きにされたらいいと思う。しかし不思議なのは、なぜ彼らが、小出さんを論破しようとしないのか、それだけである。

私は、京都大学原子炉実験所というところで働いています。被曝しくはありませんので、普段は自分の研究室という、放射性物質を扱わない場所で仕事をしています。ただ、仕事柄どうしても、放射性物質を取り扱うことがありますので、そういうときには「放射性物質が存在していてもいい」という場所で仕事をします。
そこは、放射線管理区域と呼ばれています。放射線管理区域には、一般の人は入ることさえ許されません。私のような特殊な役回りの人間でも、そこに入ったら、水も飲むことは許されなくなります。食べ物を食べることも許されません。そこで眠ることも許されません。仕事をしたら、なるべく早く出てこい、というのが放射線管理区域です。
しかし、放射線管理区域からは簡単には出られません。出口のゲートは閉まっています。どうすれば、そのゲートが開くかといえば、全身と着ている服が放射性物質でどれくらい汚れているか、きちっと検査をしないとゲートは開きません。そういうシステムになっています。
では、どの程度であれば、ゲートが開くのでしょうか。1平方メートルたり4万ベクレル以下です。もし、私の実験着が1平方メートルあたり4万ベクレルを超えて汚れれば、私は放射線管理区域の中で、放射能にまみれたゴミとして、実験着を脱ぎ捨てて来なければなりません。
私の手が1平方メートルあたり4万ベクレルを超えて汚れていれば、もう一度、放射線管理区域の中で洗って、汚染を落とさなければなりません。水で洗って落ちなければ、お湯で洗います。それでも落ちなければ、石けんをつけて洗います。
石けんでもダメなら、仕方ないので薬品をつけて、手の皮膚が少しくらい傷んでも落とさなければなりません。そうしなければ出られないのです。そういう管理の仕組みで今日までやってきました。
しかし、4万ベクレルどころか、1平方メートルあたり6万ベクレルを超える地域が存在するのです。しかも、私の実験着が汚れているとか、私の手が汚れているとか、そういう部分的なものではなく、大地のすべてが汚れているのです。
想像できるでしょうか。柏市では、道路も街もすべてが汚れています。林も田んぼも畑もみんな汚れているという状態です。もし、政府が日本の法律を守るのであれば、福島県の東半分、宮城県の南部と北部の一部、茨城県の北部と南部の一部、栃木県と群馬県の北半分、そして千葉県の北部の一部、東京都や埼玉県、新潟県、あるいは岩手県の一部も放射線管理区域にしなければいけないというほど汚染されています。

ほとんどすべての安全厨の特徴は、上記の小出さんのように、毎日のように、仕事で放射性物質を扱う仕事をしていない、というところにあるのではないか、と思っている。
だから、どうしても、安全厨の話していることは、「抽象」的に聞こえる。逆に言えば、彼らは、こうやって毎日、放射性物質を扱う仕事をされている小出さんを

  • リスペクト

しないではいられない。そもそも、毎日、放射線防護を「実践」されている方なのだから、そもそも、安全厨にしたところで、こういった人々の

  • 情報

に「依存」しなければ、そもそも、

  • 何も言えない

のだから。

日本は法治国家といわれてきました。もし、国民が法律を破れば、国家が処罰するという国です。この日本では悪い奴はちゃんと処罰されるから、安全な国であると、日本の国家は言っています。それなら、法律を守るのは国家の最低限の義務であると、私は思います。
そして、日本という国には、被曝や放射線ということに関して、さまざまな法律があります。たとえば、一般の人々は、1年間に1ミリシーベルト以上の被曝をしてはいけない、させてはいけない、という法律がありました。
前述のように放射線管理区域からモノを持ち出すときには、どんなものであっても、1平方メートルあたり4万ベクレルを超えている場合は、持ち出してはいけないという法律もあったのです。
私は40年にわたり、これらの法律を守りながら、何とかやってきたのです。もし、私が放射線管理区域の中から放射性物質を持ち出して、誰か一人でも被曝させるようなことをすれば、私は法律に則って処罰されたはずです。

私は、もしも安全厨が「もしも、今の法律を守ったなら、どういった政策が必要か」について、その

  • 可能性

について、考えられているのであれば、私は彼らをリスペクトするだろう。
しかし、多くの安全厨は「そんなことできるわけがない」から、思考を始めている。
もしも、福島県を始めとして、上記で指摘されている地域の住民を、

  • 全員、引っ越させた

場合に、どういった事態になったと考えられるだろうか? 私は、この問題を、まず、「そのことを実行できた可能性がどれだけあったか」という視点から考える。
というのは、どういうことか。
まず、「未来」の日本において、もっと悲惨な原発事故が起きた場合を考えてみよう。その時代に、私たち日本人が、放射能の怖さを忘れて、東京に原発を作った。ところが、関東大地震が、今回の東日本大震災に匹敵するような津波と共に襲って来て、東京全域が今回以上に、

  • 汚染

した。ところが、東京は、あまりにも人口が多い。そのため、避難させようにも、そのための場所が確保できない。
じゃあ、どうするのだろうか?

  • また

今回のように、「法律違反」にするのだろうか?
私はむしろ、反対に考える。未来の日本人は、もしも、その時代にも原発があるなら、

  • それくらいの「住民避難」を余裕でやってのけるのではないか?

と。つまり、それくらいの「スキル」を発達させているのではないか。このことを実現させるためには、どれくらいのハードルがあるだろうか。
私がこだわっているのは、今回のことで、どうして安全厨は、まるで、奥歯に物がはさまったように、歯切れが悪いのかといえば、

  • 法律違反をやってもいい

と言っているから、であろう。だから、そういった法律違反を「正当化」できるかのような、

  • より「大きな」悪

である「差別問題」を、「わざわざ」主題にしないでいられない。
しかし、それが差別であろうがなかろうが、少なくとも言えることは、

  • 法律違反

だということであろう。つまり、彼らはパブリックな場で、

  • 法律違反を正当化させる

議論をしている。しかし、もしも世の中に一つでも「法律違反をしてもいい」ことが「ある」ことを認めた人がいたとするなら、私たちは、どうやって、その人が、それから語ることを、まともに聞くことができるであろうか。
もしも、あの人が、ある法を守ることに興味がないと言っている場合に、どうして、他のすべての法に対しても同様に「そのように考えていない」と考えられるであろうか。
一つだけはっきりしていることは、その人は、「自分の都合」で、法を尊重したり、軽視したりすることを、宣言した、ということである。だから、これからも、その人は「法律違反」をして「いい」と言うことを、繰り返すと、ということである...。