川合清隆「ルソー 人民主権と討議デモクラシー」

そもそも、ルソーの『社会契約論』を読んだことがある人というのは、どれくらいいるのであろうか?
私は、そこにある「特殊意志」「全体意志」「一般意志」というのが、今だに、何を言っているのか、分からない。
というのは、ジョン・ロックにおいても、「社会契約」というのは、いわば、「自然法」の話であったはずであろう。だから、なぜここで、わざわざ、「意志」というものが強調されるのかが、よく分からないし、その必要性も理解できない。とにかく、この用語が、あまりに今の文脈と違うように思うわけである。
ところが、最近、ライプニッツの「形而上学叙説」を読んでいると、それらしき用語がでてくるので、その「関係」を有識者に教えてほしいものだ、と思ったのだが。

ところで、秩序にかなわないようなことは何一つ起こりえないから、奇跡もまた自然的な作用----ここで自然的な作用と言われるわけは、それが、われれが事物(もの)の本性(自然)と呼ぶある下位の準則に適合しているからである----と同様、秩序にかなっていると言うことができる。というのも、この自然なるものは神の習慣にすぎず、神を動かしてこの準則を用いるようにさせた理由よりももっと有力な理由があれば、身はこの習慣を守らなくてもすむと言えるからである。
見方によって、一般的とも特殊的ともとれる意志について言えば、神の行ないはすべてもっとも一般的な意志、すなわち、神の選んだもっとも完全な秩序にかなった意志に従っていると言うこともできるし、また、神には特殊的意志がはたらしていて、それは前に述べた下位の準則からはずれていると言うこともできる。要するに、神の法則のうちでも、宇宙の過程全体を支配するもっとも一般的な法則には、例外がないわけである。
また、神はその特殊的意志の対象であるすべてのものを欲する、と言うことができる。しかし、一般的意志の対象である、他の被造物の行ない、ことに神が手をさしのべようと望んでいる理性をもった被造物の行ないについては、区別が必要である。すなわち、行為がそれ自身善いものであれば、神はそれを欲するし、ときにはその行為が起こってこない場合でもそれを命ずることがあると言える。しかし、行為がそれ自身では悪いものであって、たまたま善くなることがあるというにすぎない場合、言いかえれば、事のなりゆき、とくに懲罰と贖罪によってその悪意を正し、悪を十二分に償う結果、ついには悪がまったく起こらなかったとするよりも、過程全体においてはかえって多くの完全性が見いだされるような場合には、神は悪を許すと言うべきである。とはいえ、神が自然法則を定めたために、また、悪からより大きな善をひきだすことできるという理由で、悪に協力することになるからといって、神が悪を欲すると言ってはならない。
ライプニッツ(「形而上学叙説」)

モナドロジー・形而上学叙説 (中公クラシックス)

モナドロジー・形而上学叙説 (中公クラシックス)

ここで、ライプニッツが言っているのは、「神の意志」が、どういったものであるのか、ということである。なぜ、今のこの世の中が、このようにあるのかは、「神の意志」が、そのようにしているから、と考えられる。
その場合、「一般的意志」は分かりやすい。多くの場合に、そのようにあるような、まさに神の意志と考えていいように思われる現象、ということになるであろう。他方、この場合の「特殊的意志」は、いわば、一見すると、そういったものから外れていると思われる事例を指示しているわけである。
ある、どう考えても神が望んでいると思われない「悪」が、行われていたとき、なぜ神はこのような「悪」を許すのか、といった議論になる。それに対して、ライプニッツは、「神の意志」においては、その現象は、より「大きな視点」において、判断されている、と考える。もう一回上記から、引用してみると、

  • とくに懲罰と贖罪によってその悪意を正し、悪を十二分に償う結果、ついには悪がまったく起こらなかったとするよりも、過程全体においてはかえって多くの完全性が見いだされる

どこかで聞いたことがないだろうか?

全員の意志と一般意志との間には、しばしばかなりの相違がある。後者は共同の利益しか考慮しないが、前者は私的な利益に関わり、個別意志の合計にすぎない。しかし、これらの個別意志から、相殺し合う過不足を引き去ると、差異の合計として一般意志が残る。

まったく同じではないか!
というか、どうして、多くの有識者はこのことを指摘しないのだろう?
言わば、ルソーがやっていることは、このライプニッツの「神の意志」の

  • パロディ

なんでしょ? ルソーこそ、コミケ的な二次創作(=パクリ)の創始者でもあった、ということなんですかね orz
むしろ、ここがポイントのように思われる。つまり、ルソーは、ライプニッツが神が、この人間社会にどのように干渉しているのか、というレベルで、

  • 特殊的意志
  • 一般的意志

と言っていたのを、「反転」させて、「社会契約」の話にさせた。つまり、リバイアサンの「意志」と、国民一人一人の意志にオーバーラップさせた。
ところが、ルソーの読者は、そこを「まじめ」に読んでしまう。だから、結局、何を言っているのか分かんないような議論になってしまう。
ルソーにとって、「一般意志」が成立するのは、上記のライプニッツが「神の意志」がそういうものとしてあると考えるように「当たり前」であった。もちろん、そのことは「キリスト教徒」にとって、神の意志と「国民の意志」を区別する理由はない、ということと関係しているのかもしれない。
私が、民主主義を、人々の「意志」というものと関係して語られることに違和感をもつのは、それがバーリンの言う「積極的自由」を指しているからであろう。

それに対し、積極的自由は、それ自体がただちに危険であるわけではないにせよ、歴史的にみてバーリンにとって許しがたい方向へと進む論理的可能性を内包する。すなわち、自己支配の論理が人格を二分化し、より理性的な高次の自己が非理性的な低次の自己を支配すべきであるという方向へと向かうとき、いわば自由を強制するとでもいえるような帰結を生み出しかねないのである。未熟な個人に代わって、国家や階級や国民や歴史といった集合的表徴が高次の自己を僭称し、積極的自由の名の下で、個人の消極的自由を圧殺するという帰結がそれである。
川出良枝「自由とは何であって、何でないのか」)

他方、バーリンが定義したような積極的自由の概念は、ジャン=ジャック・ルソー以降(とりわけフランス革命以降)の議論の分析には有効かもしれないが、古典的自由主義が成立した一七〜一八世紀の思想の分析に適用するに限界がある。
川出良枝「自由とは何であって、何でないのか」)

ここのところは、重要な指摘で、つまり、ルソーに始まるとされている「積極的自由」は、歴史の文脈では、ナチスヒットラーや、ソ連スターリンのように、

の文脈で使われてきた、ということなんですね。そして、もっと言えば、そもそも、「自由」のこういった使い方は、それ以前の歴史にはなかった、と考えることができる。つまり、ルソーは近代以降の「ファシズム」の「起源」でもある、ということである。
だとするなら、そもそも、なぜ、ルソーには、そういったファシズムの萌芽があった、ということになるのか、ということになります。

先の引用文で、ルソーは「人民は主権を譲渡できない」、なぜなら「力は譲渡できるかもしないが、意志はできない」という。この言葉の背後には、ルソーが採用するデカルト哲学の二元論がある。ルソーは、力は物理的な活動であり主体から切り離して誰かに代行させることができるが、意志は精神の活動であり、意志する主体から切り離せないと考えている。したがって、人民全体の集合的な意志である一般意志を人民自身から切り離し、君主や議会などが代理機関として代行することはできない。ルソーの主意主義的学説は、議会が人民を代表して立法主権を行使する代議制を認めない。一般意志は人民全体が創出するのである。ただし、力の行使である「行政権」は、人民に代わって「政府」が代行することができるし、またその方が望ましい。全人民が日常的に行政に関わる民主政は事実上不可能であるだけではない。行政には専門的な能力が必要であるから、優れた為政者(行政官)に委ねるのが望ましいのである。

ルソーはデカルトの二元論に準拠している。だから、「国家の身体」である行政機構は、国民と独立した官僚組織が行わなければならないと言う一方で、「国家の魂」である立法機構は、人民「そのもの」の魂から、離れて存在することはできない。むしろ、人民の魂「そのもの」でなければならない、と。
しかし、どう思われるだろうか?
確かに、ルソーは、それ以前のホッブズやロックの社会契約論を、「いい」ところを、全部含んでいるように見えるため、一つの「進化」形と考えられている。しかし、そうであるだけに、むしろ、

  • それ以前に存在した、さまざまな秩序

と、どう考えても両立しえないような、「新しい哲学」が導入されているため、どうもその「革命」性が評価できないわけである。
事実、その後の歴史は「ファシズム」の歴史であり、また、それは実際において、さまざまな意味で、「ルソーの哲学を体現したもの」であったと、その多くの戦争体験者の人々に受けとられてきたことは間違いないわけであろう。

アーレントは、ルソーを恐怖政治の革命家ロベスピエールに結びつけ、次のように解釈している。

全員の意志に当たると見られる古代の同意の観念にルソーの一般意志が取って代わったのはほとんど自明でる。......最も重要な点は、慎重な選択や意見に対する配慮に重点を置く《同意》という言葉自体が、意見交換のあらゆる過程と最終的な意見の一致を本質的に排除する《意志》という言葉に置き換えられたということである。意志は、もしそれが機能するとすれば、実際一つでなければならないし、不可分でなけばならない。......一般意志というこの人民の意志の顕著な特質はその「完全一致」にあった。ロベスピエールが絶えず世論について語ったとき、その意味は一般意志のこの完全一致であった。彼は多くの人が公に同意する意見というものを考えていなかった。

一読して明らかなように、このような解釈は『社会契約論』のテキストに合致しない。まず、一般意志は「完全一致」である必要はないとルソーは明言している。さらに、アーレントは、ルソーが「意見」とか「同意」の代わりに「意志」という概念によって立法論を組み立てているために、「意見交換のあらゆる過程と最終的な意見の一致を本質的に排除する」と解釈している。ところが、プラス・マイナスが相殺されて形成される意志という基本定義から理解されるように、一般意志は意見交換の過程や最終的合意なしには成立しえない。

この反論が正しかろうと、間違っていようと、多くの戦争体験者が、ルソーの哲学を戦争における、ファシズムとオーバーラップさせて考えたことは否定できないわけであろう。それを、

  • 間違っている

とか、

  • ルソーはそんなことを考えていない

とか言って、果して、なんになるのだろう、と思うわけである。
つまり、なんでルソーが「自由」概念の文脈で使い始めた「意志」が、評判が悪いのか。なぜ、アーレントはそれを「合意」という言葉で、指弾するのか、そのことをちゃんと考えたら、どうであろうか。

また、現代の通信技術の発達が投票所へ足を運ぶことを不要にする投票方式を実現すれば、重要法案の人民自身による批准も不可能ではなくなる。ルソーのいう徒党を組まない自立した個人、無党派層が益々増え、同時に人々の政治的意識と教養が高まれば、市民の直接民主制への傾向は促進されるだろう。

私も、近年のIT技術の発展が、間違いなく「直接民主制」(住民投票)の可能性を示唆しているはずなのに、なぜ、そのことを多くの人は議論しないのか、それが不思議なのである。
非常におかしなことになっているのは、もしもルソーの言うことに賛成するのであれば、「直接民主制」の可能性を探らなければならないはずなのに、なぜか、そういうことを言っている人は、あまりいない。そうせずに、なにをやっているかというと、なんとかして、国民に

  • 直接に政治に介入させない

ことをやろうとしている。それは、まるで、現代のIT社会が、あっという間に、「ルソーの理想」である「直接民主制」を実現してしまうことに

  • 恐怖

しているかのように見えるわけである。
ここで、もう一度、とどまって、なにが問題だったのか、を考えてみないだろうか。
ルソーは、ライプニッツの「神の意志」を、社会契約論における「原始国家」における契約においても見出す。その場合に、デカルトの二元論を受け入れているため、国家の「意志」である、立法機構(=国家の魂)と、行政機構である官僚集団(=国家の身体)とを、あくまで、前者に対して適用されるものと考えることになった。
ところが、よく考えてもらいたい。自分の「意志」とはなんだろうか? ライプニッツが上記で言ったように、自分の意志には、「さまざま」あるかもしれない。それは、上記の引用から書かせてもらうなら、

  • 自己支配の論理が人格を二分化し、より理性的な高次の自己が非理性的な低次の自己を支配すべきである
  • 未熟な個人に代わって、国家や階級や国民や歴史といった集合的表徴が高次の自己を僭称し、積極的自由の名の下で、個人の消極的自由を圧殺する

つまり、自分の「意志」は、無意識において「国家の意志」と融合している、と。
いわば、これが、近代のファシズムであったわけであるし、まさに、ルソーが構想した「積極的自由」とは、ルソーから始まっているし、それ以前にはなかった、「自由とは異なる自由」だというわけである。
しかし、なぜこんなことになってしまうのか。それは、上記でいえば、ルソーが立法機構に、「独立」して「行政機構」を考えたから、であろう。つまり、官僚機構は官僚機構として「独立」して、利益相反に生きる。つまり、立法機構を

  • 骨抜き

にできさえすれば、官僚機構は自らの「利益の極大化」を実現できる。軍隊が国民の「意志」を代弁して、勝手に戦争を始めるのは、むしろ、ルソーのフレームワークが、

  • 立法機構の「あいまいさ」
  • 行政機構の「独立」

の二つを包含していることを意味しているにすぎず、その事実においては、ルソーが実際に何を考えていたのかなど、どうでもいい、ということである。
上記のアーレントが、なににこだわっているのかを、もう少し真剣に考えるべきなんですね。
そもそも、なんでこういった「間違い」が起きているのか。
それは、「法の支配」を「個人(=神)の意志」の問題であるかのように、論点がすりかえられたから、でしょう。
ルソー以前において、そもそも、「自由」とは、なんのことだと考えられていたのか。

ロックにとっても、モンテスキューにとっても、法の権威に進んで従うことにより、自らこうした欲求に一定の制限を設けることのできる者のみが自由な市民の名に値した。というのも、自由を単に理念の上ではなく他人との間にさまざまな利害対立を抱える現実の生活の中で安定的に保障するには、市民が法的枠組みの重みを自覚し、それに対し責任を負わなければならないからである。個人の自由は法なくしては実現しえないと考えていたのは、何も共和主義的自由の論者に限られるわけではない。原型としての自由主義における自由の理論もまた、決して無拘束な自由を是認したわけではなく、それを担保する法共同体に対する責任という規範的要求を内にひめていたとみるべきであろう。
川出良枝「自由とは何であって、何でないのか」)

アーレントが言うように、政治の場において、「意志」を議論することは、ふさわしくない。というのは、そもそも、法律は「意志」ではないから。法律は、

  • 無関心

の結果である。つまり、その法案を「意志」するから法律になるのではなく、「その法案は、どうでもいいけど、反対ではないから、合意する」から、法律になるのである。つまり、どういうことか。私たちが「自分の意志」で行動しているときに、それを法が妨げる場合とは、どういった場合なのかを考えてみるといい。

  • 他人との間にさまざまな利害対立を抱える現実の生活の中で安定的に保障する

それは、「他人との利害対立が必然的に起きる場所」だから、法による規制が存在し、だから、私たちは、そのルールに従うことを、それほどの抵抗なく受け入れるわけであろう。

「法のないところには自由もない」。この一見謎めいた命題は、国民国家という枠組みさえ易々と越えるような無法状態の自由という可能性があらわになった二一世紀において、改めて真剣に吟味すべき内容を含むのである。
川出良枝「自由とは何であって、何でないのか」)

法(=ルール)を「意志」と呼ぶルソー主義者たちは、その法が自分に都合の悪いものだったとき、どうやって自分を説得するのであろうか。自分の「上位の意志」では、「国家の意志が自分の意志」だと、自分に納得させるとでもいうのであろうか。
それを、共同体レベルで叫んでいたのが、近代のファシズムであろう。言うまでもなく、国家に意志なんてあるわけがないわけで、だって、国家は人間じゃないのだから。国家にあるのは、「法の支配」であって、モンテスキューではないが、法は「だれの意志」でもないから、逆説的であるが、人々は(そのルールに)「従う」わけであろう(もし、ある法が、だれかの意志に対応しているなら、その人の考えが変われば、法の「意味」まで変わる、ということであろう)。いわば、「法の支配」は、だれの意志であるかに関係なく、その「ルール」に人々が合意した、ということでしかなく、だから、その「ルールに従う」わけであって、つまり、最初から、法に「意志」は関係ないわけである...。

自由論の討議空間―フランス・リベラリズムの系譜

自由論の討議空間―フランス・リベラリズムの系譜