保坂正康「政治家が軽々に歴史を語るな」

この前、ジョセフ・ヒースの『ルールに従う』を読んで私が、特に思ったのは、

  • 道徳
  • エチケット
  • ルール
  • ゲーム

こういったものを、そもそも、「区別」するなにかってあるのか? という、素朴な疑問であった。

先の議論を通して明らかなように、私は道徳的規範とより一般的な社会規範との間に明確な区別が存在するとは思わない。こうした明確な区別が存在すると考える人々は、表面上は道徳的ルールとその他の社会規範がきわめて類似してるように見える事実にもかかわらず、フィリッパ・フットが言うように、道徳的ルールにはそれを他の社会規範から異なるものにしている「特別な尊厳と必然性」が付加されているという直観に基づいて、そのように考えがちなのである。

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

ルールに従う―社会科学の規範理論序説 (叢書《制度を考える》)

一般に、道徳は「善悪」の話として嫌われる。特に、これを「宗教」の話として、無神論的な人が嫌う。こういった人にとって、「善悪」とは、「人間的」ということの「説教」の文脈で、理解される。つまり、説教は「哲学」じゃないから、嫌い、というわけだ。
しかし、じゃあ、そういった人たちが、社会にある、さまざまなルールを「なければいい」と思っているかというと、そういうわけではない。というかむしろ、

  • 国家

が制定する「ルール」には、だれでもが従わなければならない、と思っているし、従わなかった人がいれば、牢屋に入れられるべきだ、と考えていることは変わらない。
つまり、彼らは、まともな人間関係を、身近な人と作れる自信はないが、「国家に守ってほしい」ということにおいては、過剰なまでに、国家に従順であり、かつ、「ルールの厳守」を国家に要求するわけである。
しかし、である。
上記で示唆したように、世の中にある、さまざまな「ルール」、つまり、

  • ゲーム

の、どれが「優位」で、どれが「劣位」であるという設定に、はたして、なにか「意味」があるのだろうか?
どれも、一つだけはっきりしていることは、

  • 人々が「ルールに従っている」

ということである。だとするなら、どうして、それらを区別することに意味があるであろう? もしも、それらが「指示」していることに「意味」がないとしたとしても、

  • それによって

作られている「秩序」は、間違いなく存在するのであるのだから。だとするなら、なぜ、それらを区別しなければならない?
未来の人間を考えたとき、彼らが間違いなく向かう方向が、「幼児化」であろう。つまり、今以上に長い「養育期間」であり、「学習期間」となる。
しかし、それだけ長い期間において、果して、何が行われるのであろう?
つまり、それと比例して、私は、人間の「道徳化」が進む、と考えるわけである。ただし、ここで言う「道徳」とは、上記の、エチケットやルールと区別されない、より、多様かつ洗練された、

  • 道徳の正規化(カノライズ)

といったものであって、つまりは、今の道徳は、「荒っぽい」ものであり、細かな人々の事情にマッチしない「簡単」なものであるのを、より、

  • 人々の事情を考慮した「丁寧なエチケット」

になっていく、と考えている、ということである。
この問題を考えるに、最近、大変興味深い議論が行われている。

タツヤ・カワゴエ』のオーナー・川越達也シェフ(40才)が、『サイゾー』のインタビューで、『食べログ』などのような飲食店の評価サイトについて「くだらない」と回答したことで、賛否両論巻き起こっている。
川越シェフは、さらに「人を年収で判断してはいけないと思いますが、年収300万円、400万円の人が高級店に行って批判を書き込むこともあると思うんです」と発言。
また、川越シェフのレストランの客に「水だけで800円も取られた」と批判されたことを明かし、「でも、当たり前だよ! いい水出してるんだもん。1000円や1500円取るお店だってありますよ。そういうお店に行ったことがないから“800円取られた”という感覚になるんですよ」とも反論した。自腹覆面レストラン評論家の友里征耶(ともさとゆうや)氏はこう説明する。
「川越さんの主張はある意味正論。基本的に海外では水は有料だし、高級店で水道水を出すところはまずないですから水代800円というのは日本では珍しくない。高いところでは1000円くらい取られます。そういうことをご存じないかたがそういうところに行ってしまったら、郷に入っては郷に従わなければいけないと思います」
しかし、友里氏は「正論とはいえ、川越さんが言ってはいけないことだった」と言う。川越シェフがブレークしたきっかけは2009年から出演している『お願い!ランキング』(テレビ朝日系)。イケメンなのに庶民感覚があり、その後は彼がプロデュースしたキムチなどがスーパーに並んだ。つまり彼を支持してきたのは、それこそ年収300万円、400万円の人たちが多く、その中には、「川越シェフに会いたい」と、彼のレストランを訪れた人もいる。
「川越さんはそのことを忘れてしまったんじゃないかと思います」(前出・友里氏)
6月17日、川越シェフはテレビ番組に出演し「ぼくが生意気でした」と、いつもの笑顔のまま謝罪。続けてブログでは今回の騒動はあくまで「活字問題」と断言。「活字が独り歩き」していくネット社会のシステムを「残念だ」と綴った。しかし、このブログも大炎上し、すぐに削除されている。
screenshot

ようするに、この川越とかいう人は「セレブ」なのだ。彼の今までの人生では、彼の回りは、みんな「成功者」であって、お金持ちばかりだった。そういった連中と「だけ」毎日話していると、

  • 年収300万円、400万円の人たち

が、いかに、自分とは「違う世界」の、

  • どうでもいい

下層階級に思えてくる。彼は自分の店が、こういった連中が来ることさえ、かなわないような、「リッチ」な店であることを、「誇り」に思っているのであろう。だから、こういった連中に「評価」されることが我慢できないのであろう。
ところが、この人が「なぜ」、大衆に支持されたのかは、

  • 表面上の(おぼっちゃん的な)「庶民感覚」

であったわけである。テレビの何分間であれば、それで、お茶の間を騙せたわけであるが、文章を書かせてみれば、その庶民から、あまりにもかけ離れたセレブっぷりが、見えてくる。しかも、そうやって、庶民をだまくらかしたイメージで、彼がプロデュースしたキムチなどを、

  • 年収300万円、400万円の人たち

を「相手」にスーパーで売ってたわけですから、そのイメージに騙されたと思った人々が炎上するのは、むしろ、必然と言いたくなるわけであろう。
この川越という人が、「セレブ」であるというのは、

  • 年収300万円、400万円の人たち

を相手に商売をしたくない、つまり、彼は人間が嫌いなのではなく、

  • 年収300万円、400万円の人たち

が「嫌い」なわけだ。それを、「人間嫌い」と言ってみせる。これが、「セレブ」種族の「作法」なわけである。
上記の問題がなぜ、問題になったのか。ある意味、上記の川越とかいう人は、自分の回りにいる、セレブな友達とのおしゃべりの上で、上記のようなことを言ったのであれば、なんの問題もなかった。また、この人が、庶民向けの商品をプロデュースしなければ、なんの問題もなかった。ところが、庶民に向けて、商品を売っていておきながら、陰では、こういった(庶民からは)「下品」に聞こえることを平気で言って、庶民に商品を買ってもらおうという姿勢が、

  • 庶民のモラル

に反した、ということである。
そもそも、私たちは、「誰」に向けて、「何」を話しているのか。そして、なぜ、そのことを「その人」に向けて、語らなければならないのか。
自分が話しかけている相手の、生活の事情を考えたら、それを話すことは、穏当な話じゃないんじゃないのか、というのは、当然、「常識」があれば、気付けるように思われるが、そうならない。
それは、そもそもその人自身が、「その自分が話しかけている人が嫌い」だから、どうしても、「嫌味」を言わないではいられない。つまり、嫌いな人に、「オブラートに包んで」相手が、「侮辱」に気付きにくいように、

  • 侮辱発言

をすることに「快楽」を覚える。つまり、これが、彼らの「本音」だということである。彼らは「侮辱」発言を「したい」から、発言する。

  • 年収300万円、400万円の人たち

を馬鹿にしたいから、そういう「モチベーション」があるから、発言している。だから、発言をやめられない。そういった「愚痴」を言うことが、彼らの「ストレス発散」だから。どうしても、やめられない。しかし、やればやるほど、相手は、陰で侮辱されているように聞こえる。つまり、

  • まともなコミュニケーションができない

人格的に「障害」があるような存在として、回りが扱わなければならない、というわけである。
このことは、今回の都議選で、ぼろ敗けした日本維新の会の間違いない、「戦犯」である、大阪市の橋下市長の、「下品」さに、よくあらわれている。

しかし、はっきりしたのは、橋下はいつでも日本国民の敵にまわる人物であるということです。
「日本をグレート・リセットする」
「国は暴力団以上にえげつない」
「日本の人口は六〇〇〇万人ぐらいでいい」
「今の日本の政治で一番重要なのは独裁」
「能や狂言が好きな人は変質者」
こうした過去の発言からもわかるように、橋下は日本および日本の伝統文化、日本人を憎んでいます。
私は文楽に関する一連の発言でそれを確信しました。
二〇一二年七月二六日、文楽協会への補助金凍結を表明していた橋下は、近松門左衛門原作の『曽根崎心中』を観賞後、「ラストシーンでグッとくるものがなかった」「演出不足だ。昔の脚本をかたくなに守らないといけないのか」「演出を現代風にアレンジしろ」「人形遣いの顔が見えると、作品世界に入っていけない」などと騒ぎ立てました。さらには、ツイッターで「自称インテリや役所は文楽やクラシックだけを最上のものとする。これは価値観の違いだけ。ストリップも芸術ですよ」と発言。
最初に悲しくなり、次に恥ずかしくなり、最後に怒りがこみ上げてきました。橋下は日本人が大切にしてきた「ある場所」に攻撃を仕掛けたのです。
橋下には、生まれ育った大阪に対する愛情もない。
「こんな猥雑な街、いやらしい街はない。ここにカジノを持ってきてどんどんバクチ打ちを集めたらいい。風俗街やホテル街、全部引き受ける」
「小さい頃からギャンブルをしっかり積み重ね、全国民を勝負師にするためにも、カジノ法案を通してください」
全国の未来ある少年少女をギャンブル漬けにしてどうするつもりなのか?
「日本を下品のどう底に突き落とす」という悪意しか感じることができに。橋下は右寄りだ左寄りだと論評されていますが、どちらでもなく下なんです。下品、下劣、下種......。とにかく品性のかけらもない。
政治家の条件は上品であることです。政策や学歴は二の次の話。下品な人間だけは絶対に政治家にしてはいけない。国が下品になるからです。
私は意見や立場が違うから橋下を批判しているのではありません。私は共産党社民党の議員とは考え方が異なりますが、だからといって彼らを排除したほうがいいとは思わない。議会は多様な意見を戦わせる場であるからです。
ただし、自由社会が絶対に認めてはならないものがある。
それは、独裁を唱え密告を奨励するような政治家です。あらゆる発言に責任をとらず平気な顔で嘘をつくデマゴーグ、議会そのものを解体に導こうとする邪悪な組織は、政治の場から早急に排除しなければならない。これは文明社会の住人の責任です。
(適菜収「下品な人間」)

上記の指摘は、しごく、もっともだと私も思います。そういう意味で、橋下市長に「好意的」

  • だった

多くの「インテリ」たちが、そもそも、「どういう発想の人間だったのか」を、これから、徹底的に考えていく必要があると思っています。
しかし、だとしても、そういった人間が、世の中からなくなることはありません。つまり、「サイコパス」といって、平気で嘘をついて、なんとも思わない人間は、どうしても生まれてしまう。だとしても、

  • 社会

は、そういった存在でさえ「包摂」して、前に進まなければなりません。
上記の例で言えば、

  • 年収300万円、400万円の人たち

が「嫌い」な人たち、つまり、

  • 人間嫌い

な人たち(なぜなら、そういった人たちが、日本中の「ほとんど」だから)を、社会は、

していかなければなりません。そういった意味で、社会の「幼児化」の進行と共に、

  • 高度に道徳化

された社会を進めていくことが必要なように私には、思われるわけです。
さて。
その「高度に道徳化」された社会とは、どういったものになるのでしょうか?
その、いい例が「情報」です。今回の橋下発言の一番の特徴は、彼が「歴史」やアメリカの事情を

  • 知らない

のに、まるで「有識者」であるかのように、話しているところにあります。

その二、これは橋下発言の「命を賭けて戦っている兵士たちが、その合い間に女性と関係を持つことはあたりまえ、そんなことは誰でもわかる」との内容である。この発言を聞いて私は、正直なところ驚いた。この人は、戦場と性についてほとんど無知の状態で話しているな、とわかったからである。これでは戦う兵士の一団は、その種の女性を連れて前線に赴いているかのようだ。いやそういう光景を連想させる言い方である。
ありていにいえば、これは兵士に対して侮辱、ないし非礼である。兵士は戦場にあっては、相手側の兵士たちと命のやりとりをしている。「生存欲」がその心理のすべてを占めていて、性欲など無に等しい。戦場で戦うとは、「非日常空間」に身を置くということだ。性欲とは「日常空間」の欲望であり、非日常空間にあってはもっとも最初に消えていく欲望と兵士たちは一様に証言している。
性欲があるのは----つまり慰安所が置かれるのは----、「日常空間」においてである。この点について橋下発言には錯誤がある。

上記の引用を見れば、橋下の奇妙な「空想」が、いかに、甚大な国益を損ねる事態になったのかが分かるのではないか。橋下を始め、今の30代から40代の、いわば、私くらいの同世代の連中は、

  • 徹底して前の戦争を知らない世代

なわけで、その中の、「頭の良い」連中が、仲間うちの「乗り」で、まるで、戦争を自分が体験していた「かのよう」に、

  • イメージを語り始める

人たちが、でてくる。いわば、思考実験(=SF)として、自分の「立場」に都合のいいように、過去の歴史を「解釈」するのだが、その、「実証的データ」はない。というか、そもそも、戦後と共に、焼かれたのだが、それをいいことに、

  • どうせ誰も知らないんだから

と、突飛な空想を話し始める。
しかし、こういった歴史の無知、というか、「常識」的に考えればだれでも分かりそうな、まっとうに理屈を考えられない人たちの「悪ふざけ」が、どれだけ、

  • 過去の日本軍人の人たちを「侮辱」していることになっているのか

の「想像力」もないわけである。

米国において慰安婦問題は、右派にとっては売春を禁止するキリスト教に反することになるし、左派にとっては女性の搾取や権利の蹂躙になる。
萱野稔人慰安婦問題という蹉跌」)

おそらく、橋下市長は、アメリカのキリスト教徒が、「売春を禁止」していることを知らないのではないか? または、こういった人でも「裏ではやってるんだろ」と思ってるんじゃないのか。
つまり、彼らはまったく、アメリカで自分がこれを主張するということをイメージしていないで話しているわけなんですね。世界中の各地域の、生活文化の違いを分かっていれば、相手の文化を「侮辱」するような発言が、いかに、

  • パブリック

な場所で行うことが、ふさわしくないかを分かっていない。まったくもって、国際水準のポリティカル・コネクトネスのない野蛮な連中だということなのである。

政治家が歴史を語るときは、まずはその史実がどこまで明らかになっているのか、どういう見解が定着しているのか、さらに言えば、自らが史実を調査するほどの気構えをもって発言すべきである。それが批判されたなら、自らの立論をもとに反論すればいい。そういう気構えがなく発言すること自体、「そんな発言をする政治家は、歴史を政治のツールに使っている」と見られて、その種の技術に長けている国々に恰好のターゲットになる。そのくり返しは国益上も大きなマイナスではないか、と私には思えるのだ。
しかも政治家は歴史をツールに用いて批判を浴びると、とたんに「歴史の解釈は歴史家に任せるべき」と逃げる。安倍首相にもこういうケースが多いのだが、ならば初めから軽々に口にしないほうが賢明である。

ここには、一つの「エチケット」が示唆されている。つまり、こういった「ルール」によって、なんとかして、

  • 危険な政治家や知識人

を、社会的にコントロールしていくことが求められている、というわけである。こういった人間嫌いのサイコパス的な連中が、社会の主要な地位についていくことは避けられない。しかし、私たちは、だからといって、この社会を崩壊させるわけにはいかない。
「たとえ」こういった連中が、社会の主要なポストにいたとしても、社会を「秩序」づけていく方法はないのか。なかなか、社会の秩序を維持することは、どんな時代も「大変」だということである...。
(彼らにしても、こういった「ルール」が明示的にされているなら、そういったものに、正面きって逆らえないだろう、という意味で、ルールの精緻化が重要なんじゃないか、ということなんだけど...。しかし、そうだったらそうだったらで、その隙間を突いてくるような、ルールの裏を探してくるわけで、いたちごっこという面は避けられないんでしょうけどね...。)

新潮45 2013年 07月号 [雑誌]

新潮45 2013年 07月号 [雑誌]