鈴木光太郎『ヒトの心はどう進化したのか』

一つ前で紹介した、小説である、西尾維新の『悲惨伝』は、私にとっては、少し考えさせられるものを感じた。
というのは、この第三巻において、主人公の空々空(そらからくう)が「死ぬ」場面が描かれたからである。なぜ、そのことが重要なのか。それは、この作品における、空々空(そらからくう)の「行動原理」が、

  • 自分が死なないための行動

を「選択」し続けることが、その基本にあったからである。だから、主人公の空々空(そらからくう)は、場合によっては、回りの人を、「手段」に使ってでも、

  • 生き延びた

わけである。そういう意味では、典型的な「功利主義」的な小説だった、と言っていいのではないか。
しかし、今回、その主人公の空々空(そらからくう)が「死ぬ」場面が描かれたことは、たとえ、そのすぐ後に、生き返ったとしても、大きな意味があるように思えてならないわけである。
なんにせよ、一度は、「死んだ」人間が、それ以降も生きるとして、果して、それまでのような、「功利主義」的な人生を選ぶだろうか? 逆に言えば、そこまで、「功利主義」的であることは、私たちの人生にとって、

  • 恭順を捧げるに「ふさわしい」

なにかなのだろうか?
例えば、3・11において、同じ東北の海岸線沿いに暮らしていたある人は、溺れて帰らぬ人となったのに、彼らと毎日一緒に暮らしていた、ある人は、たまたま、そこから離れていて、

  • 生き延びた

とき、果して、その生き延びた人たちにとって、生きることの意味は、3・11以前と同じなのだろうか?
このことは、結局のところ、善も悪も、人が生きていく中で巡り合うことになる

  • 縁(えにし)

でしかない、ということにもなるのではないか。

しかし実際には、腰痛になることが多いのは、ふだんあまり歩いていない人たちだ。狩猟採集で日常的に歩き奔り回っている人たちやマラソンランナーなどには、腰痛はほとんど見られない。
したがって、いま紹介したのとは逆の説明も成り立つ。それは、日常的に相当の距離を歩くことがふつうであった慈愛には、腰痛はおそらくまれだったが、ヒトが定住して、日常的にあまり歩くことのない生活をするようになって、腰痛が多く発生するようになったという説明だ。事実、椎間板は骨と骨のクッションの役目をはたしているが、この役目を支えるコラーゲンなどの物質が生成されるためには、たえず椎間板が刺激され、付加がかかっていなくてはならない。

私たち人類は、「ほとんど」の時代、歩き走っていた。それは、獲物を狩るためであり、また、獣から逃げるためでもあった。いずれにしろ、人間は、ほとんどの時間を歩き、走っていた。ということは、どういうことか。
人間は、歩いたり走ったりすることに「快楽」を覚える、ということである。もっと言えば、人間が歩いたり走ったりすることを「やらない」ことは、「容易」であるが、そうなることは、今度は、私たちの体に「別のひずみ」をもたらすことになる。本来、歩いたり走ったりすることが人間だったのに、それをやらなくなったということが、

  • 人間の本来性に反する

というわけである。
私たちは、ある種の「倒錯」の中を生きている。それは、「文字」文化の遡行性に関係していると言っていいであろう。
つい最近も、NHKで特集がされていたが、アイスマンという5000年前に、氷河で、死体が凍っていたことによって、着ていたものからないからが、

  • そのまま

の状態で残っていた人間のミイラの復元写真が、この本でも載っているが(以下のページに載っているのだが)、

screenshot

これを見るとまず、彼らが「服」を着ていることに驚かされる。靴のような、紐で抜い合わされたようなものまで履いている。もちろん、こんなに寒いところなのだから、当たり前なのだが。また、弓や斧や槍のようなものまで、持っている。
ということは、どういうことか?
これは、「つい最近」の、私たちの文字文化が、確立する「前」の人類だということである。そして、彼らは、

  • かなり現代に近い

見た目をしているわけである。ここで重要なことは、彼らの姿が、例えば、日本の「古事記」や「日本書紀」の記述といったような、

  • 文字伝承による「伝記」

と「繋がらない」わけである。むしろ、卑弥呼やそれ「以前」との連続性を感じさせる。しかし、「間違いなく」彼らには、高い「知性」や「文化」があった。そして、おそらく、

  • 高度なオーラル言語

を駆使していたはずなのである(現代の私たちが、そうであるのと「同じ」ように)。彼らは、おそらく、文字を本格的には使っていなかったかもしれない。しかし、「会話」はしていた。もしかしたら、今とも、そう違わない言語を話していたのかもしれない。
掲題の本でも紹介されているが、私たち人間が子供の頃、あれほど熱心に「遊び」をやったことも、上記にあるような、狩猟採集の「過去」の蓄積と関係がある。
例えば、どうして、私たちは子供の頃、あれほど熱心に「だるまさんが転んだ」や「かくれんぼ」をやったのか。しかし、よく考えてみると、この二つの遊びは、狩猟採集において、非常に重要な「能力」に関係していることが分かる。「だるまさんが転んだ」において、鬼が振り向いたとき、動きを止めるのは、獣と遭遇したとき、なんとかやりすごすための「能力」として「非常に重要」であることが分かるであろう。もちろん、「かくれんぼ」もそうで、鬼の役でも、逃げる役でも、両方を、「十全」にこなせることが、狩猟採集の世界で、生き延びる「必須」の能力であることは、言うまでもないであろう。
人間はなぜ、生き延びることができたのか。
火を使いこなすようになった。それによって、食糧の消化を革命的に発達させた、また、火の使用が、鉄などの金属の使用にもつながり、馬のような、家畜動物の駆使にも繋がり、飛躍的な人類のモビリティの発達が大きかったことは間違いないであろう。
しかし、それ以上に、人間をここまで生き延びさせたものとして、人間と共に暮らす「動物」、特に、「犬」の存在が大きかったのではないか。

イヌはなぜ人間の相棒になれたのだろうか? それは第一には彼らの習性にある。イヌは群れで行動し、その群れのリーダーを信頼し、その要素に忠実に応えるという性質をもつ。ヒトとイヌが絆を結べるのは、こうした社会性があるからだ。イヌは、ヒトの社会や家族のなかに入ることによって、自分もその一員として、飼い主をリーダーとみなすのである。
もうひとつは、ヒトとの感情の交換が可能だということがある。ほかの動物に比べ、イヌは感情が豊かで、それは鳴き方やしぐさなどに現われる。これによって、私たちはイヌの心の状態を的確に把握できる。

こういった人間と「共に暮らす」動物が、非常に興味深いのは、お互いが一緒にいることが、結局は、お互いが

  • 生き延びる

ことに、大きな「貢献」をしていることは、間違いないわけである。
なぜ、人間は多くの場合、「功利主義的でない」のか? それは、私には「なぜ犬は、人間の飼い主をリーダーとして扱うのか」と問うているのと変わないように聞こえる。つまり、人間は犬と共同生活を行うようになるにつれて、

  • 犬の「まね」を始めた

のではないか? 人間は犬以上に犬を「上手に演じた」のである。犬以上に、ご主人をリーダーとして扱った」。
私は、なににこだわっているのか。空々空(そらからくう)という空虚な主人公が、まったく無慈悲に、まるで、人の感情を持たないかのように、

  • 生き延びる

その姿が、「クール・ジャパン」として描かれてたわけだが、そもそも、彼は「死んだ」わけである。作品の都合で、それ以降も、生きて物語をつむいでいくことになっているが、いずれにしろ、彼が死んだことは変わらない。
つまり、どんなに「クール・ジャパン」を気どっていたとしても、死んでしまえば、

  • 過去の人類の「範例」

にすぎなくなる、ということである。彼が第一の「目標」にしていた、「生き残る」、「生き残るためならなんでもする」を、

  • 目指せなくなる

わけである。つまり、彼があそこまでこだわっていた「生」が、終わったということは、それだけ、大きなことだった、というわけである。
私が言いたいのは、「功利主義的」に生きることであったり、「利己的」に生きることが、「クール・ジャパン」として、称揚されてきて、そういった「無慈悲」な、他者を裏切ってでも、自分さえ生き延びれば、あとは知らないといった「生存戦略」が、果して、どこまで、過去の人類にとって「合理的」だったのかは怪しい、というわけである。
そのことは、なぜ、人間は今に至るまで、犬と共に生きているのか、ということと関係する。むしろ、人間は

  • 犬のようになりたかった

し、そういった生き方を選んだ、人間集団の方が、ねばり強く、生き残って、今に至るまで、継承されてきたのではないのか。

サリーとアンという2人の女の子が部屋のなかにいる(実物で示されることもあるし、映像で示されることもある)。サリーがボールをかごに入れ、部屋から出てゆく。次に、アンがそのボールをかごから取り出して箱に移し替え、部屋から出てゆく。そこにサリーが戻ってくる。ここで質問----サリーはどこにボールを探しにゆくだろう?
正解はかごだ。なぜなら、ボールは実際には箱のなかにあるが、サリーは、それが箱に移されたのを見ておらず、そこに移されたことを知らないのだから、まだかごのなかにあると思っている(「誤った信念」をもっている)はずである。
この課題で試されているのは、サリーの心のなかのこと(サリーが知っていること)を正しく推論できるかどうかである。この課題をさまざまな年齢の子どもで試してみると、3歳児はほとんど正解できず(「箱のなかを探す」と答える)、5歳から6歳にならないと、正答しない。これらの結果は、「心の理論」が発達的には4〜5歳頃に獲得されるということを示している。
実は話はここで終わらない。さらにわかった重要なことがある。このテストを自閉症の子で行なうと、その多くが(5歳や6歳を過ぎても)このテストに正答できないのだ。これは、相手の心の状態が推論できていないということを示唆する。実際、自閉症の人は、共感能力に乏しく、ほかの人との「注意の共有」がうまくできず、コミュニケーションに大きな困難を抱えている。それゆえ、相手の心の状態を推論することができないことが、すなわち「心の理論」を十分にもてないことが自閉症の本質なのではないかと考えられるようになった。

サイコパスは、どこか「自閉症」に似ている。そして、ある意味で、空々空(そらからくう)の空虚さは、「自閉症」に近いのではないか、と思われる。
空々空(そらからくう)は確かに、成績も優秀であろうし、人との会話を「普通」にこなす。しかし、彼の行動は、「どこか」サイコパスとしか呼べないような「異常」さがある。
しかし、そういった「スタイル」は、ある意味で、「現代病」だと言いたくもなる。つまり、自閉症は、オタク文化と非常に関係しているように思われる。
しかし、たとえそうだとして、そのことが、どこまで、「未来の人間」だと言えるであろうか?
私が気にいらないのは、ようするに、サイコパスにしても「オタク文化」にしても、その

  • 純粋主義

なのだ。純粋に「功利主義」的になろうとしたり、「利己主義」的になろうとする。しかし、私たち人間は、そもそも、過去からの慣習的な「規範」を蓄積してきた、

  • 重層的かつ規範的な存在

であるわけで、つまりは、私たちに蓄積され、私たちを「決定」し、形作っているものの中には、上記で書いたような、毎日、走ったり歩き続けた「慣習」的快楽もあるし、犬の「真似」をし続けて、主人というリーダーに「従う」ことに快楽する部分もあるし、そういった

  • 多くの私たち

の「なにか一つ」を「自ら」とアイデンティファイさせて、自らを

  • 純粋化

させる、その「純潔主義」が気持ち悪いし、本来的でないんじゃないのか、と言っているわけである...。