ダニエル・J・ソローヴ『プライバシーの新理論』

私にとって、プライバシー問題というのは、一時期、特に、フェイスブックが広がり始めた頃、一部の有識者の間で、

  • パブリック

であることの「必然」化が、吹聴されたことへの違和感から始まっている。
彼らの主張は、人々がフェイスブックを使い、自分のあらゆる「ライフログ」を

  • 公開

する時代を「予告」していたわけである。時代は、フェイスブックだ、と。
彼らの一貫した主張は、「ネットの実名化」論であった。なぜネット上には、人々の罵詈雑言がなくなることがないのか。それは、実名を明かさないで、ネットに書き込みをするからだ、と。自分の実名や住所や務めている会社、通っている学校などの

  • あらゆる個人情報

を「公開」していれば、そういったネット上での罵詈雑言をやらなくなるだろう。ネットは「良い」公共空間になる、というものであった。
そういったことを言っていた人たちに共通する特徴が以下である。

  • 自分が実名でネットを利用している。
  • ネット上で名前を広めて、例えば、新書のようなものを書いて、ネット上のユーザをターゲットにして「商売」をしている。

つまり、彼ら自身がネット実名化を行うことを「介して」、お金儲けをやっていたわけで、そういう意味では、ある種の「利益相反」の関係にあった、といえるであろう。
では、なぜ近年、こういった議論があまり活発でなくなったのだろう。
それは、一言で言えば、あの頃、考えられたほどには、フェイスブックは「革命」ではなかった、ということなのではないか。
たしかに、今でもフェイスブックの利用者は、世界的に増えているのであろう。しかし、どうだろう。その「潜在的」可能性として考えられたほど、人々はこのツールに

  • 熱狂的

であろうか? むしろ、実名で住所まで書いていたら、会社の上司に見られて、怒られるようなことは書かないであろう。いや、むしろ、人に誉めてもらえるような、

の「みえ」をはった「嘘」を書くのではないか。そして、思うであろう。

  • こんなことを書いて楽しいのだろうか?

と。逆に、あの頃考えられていた以上に、その後、2ちゃんねるの「再評価」があったんじゃないだろうか。それは、別に、ツイッターでもなんでもよくて、ようするに

  • 書いている人の「情熱」

が伝わってくる文章は、なんにせよ、「おもしろい」わけである。世間体を気にした「おせじ」まみれの「肩書」が書かせたような文章は、その人の「風評」を落とさないためには「必要」だったとしても、そもそも、

  • その人以外の誰の興味も引かない

誰にとっても「価値」のない文章だということである。
しかし、彼ら「実名主義者」たちが、このネット実名化運動を「あきらめた」のか、というと、そういうわけではないんじゃないか。
(例えば、キュレーションという言葉が、一時期、使われたこともあったが、奇妙なことに、この言葉自体が、

  • いかにして、ネット上の「有害情報」を、誰の目に触れないように、「良い情報」だけを、キュレーションで「選別」するか

といったように、ナチスによる選民思想も顔負けの、情報という「血筋」に対する「差別」推進運動に変わって行ったことにも、同様の動きを感じなくもない。)
その後、現れたのが「ビッグデータ」であった。大量のデータが、さまざまな有益な統計情報を生み出すというアイデアであったわけだが、しかし、そもそも、これらの「ビッグデータ」を「収集」するには、どうしても

  • 個人情報

の領域に侵入しないわけにはいかない。水野和夫さんの言う「蒐集」の問題が、「蕩尽」の問題がここにあったわけである。
しかし、ビッグデータを収集することは、今までの法的な感覚からは、どう考えても、「個人情報保護」の法益とぶつかる。つまり、プライバシーの問題に直面しないわけにはいかなかったわけである。
さて。プライバシーとはなにか。この問題は、どちらかというと「プライバシーは、むしろ、社会的に評判が悪かった」場合がある、ということに注目すると、少しは理解されるのではないか、と思うわけである。

サー・トーマス・モアの『ユートピア』(1516年)は、そこではなにものも隠されず、社会秩序が最優先されるコミュニティ生活の一つとして牧歌的な社会を描き出した。「みんなの目がどこでも見ているので、人びとはどうしても平生の労働に携わるか、または不名誉ではない閑暇を楽しむか、そのどちらかを選ばざるをえません」。
プライバシーは、非合法活動や覆い隠し、説明可能性を減じるので、社会的コントロールを妨げるとして批判されてきた。ジョゼフ・ピューリッツァーはこのように主張したことで有名である。「秘密によってその生命を保つことがない犯罪も、策略も、ごまかしも、詐欺も、悪徳も存在しない」。心理学者ブルーノ・ベッテルハイムは次のように観察した。「イスラエルの農業共同開拓地、キブツには犯罪や非行などの反社会的行動は存在しない。警察も存在しないが、これは警察の必要がないからである」。

数多くのフェミニスト学者が、家庭における女性の虐待と抑圧を覆い隠すので、プライバシーには議論の余地があると論じた。歴史的ん見て、公共圏は男性の領域であって、女性や家族、家政は私圏を構成してきたと、彼らは主張する。私圏に追いやられることで、女性は公共圏から締め出され、多くの女性問題がプライベートな問題だと考えられることで公共の議論から追放された。たとえば、19世紀の裁判所は、家族の「プライバシー」の名のもとに家庭内虐待問題に目をふさいだ。それゆえ、女性の政治的権力を妨害してきた陰の領域としてプライバシーを攻撃するフェミニスト学者もいる。法学者キャサリン・マッキノンによれば、「プライバシーの権利は、同時に男性が女性を抑圧するのを『放っておく』権利でもある」。

ようするに、共産主義でもなんでもいいのだが、理想の未来社会と言うと、世の中、どこもかしこも、「ビックブラザー」社会になるんだなあ、というのは、あらためて、考えさせられないだろうか。
なぜ、ユートピアディストピアになるのか。それは、「誰にとってのユートピアなのか」に関係しているのであろう。ある「平和」な社会が存在するとする。
ところが、この社会にも「格差」があったとする。学歴格差があり、一方に高収入の安定した職種もあれば、他方に、不安定な契約社員もいる。こうした場合、この社会の「平和」は、高収入安定職種の人には、天国のようなものかもしれないが、底辺で不安定な契約社員にとっては、

  • どこがいいのか分からない

くらいに、もがき苦しんで生きているかもしれない。つまり、こういう社会が「安定」しているということは、底辺不安定契約社員にとっては、

  • 望んだ社会

なのかは怪しいというわけである。彼にとっては、こんな苦しい社会は、一刻も早く「革命」して、自分が「生きやすい」社会に変えたいと思っているかもしれない。ところが、それをいざ「行動」に移そうとすると、上記の「ビッグブラザー」が邪魔をするわけである。そりゃそうである。社会の秩序を破壊しようとする彼のような「危険」な存在は、野放しにできない。つまり、こういった連中を「ちゃんと」監視しているから、この社会は「混乱」に陥らない

  • 良い社会

だから、というわけである。
結局のところ、「なぜ」プライバシーは、こういった問題をもちながらも、決して、なにものにも代えられない「崇高な権利」なのだろうか?

私たちヒトはゴシップが大好きだ。これは、先ほど述べたように、ことばを介して出来事の一部始終を他者に伝えることができるようになったおかげだ。実は、ヒトだけのこの特性が、ある問題をもたらす。
ヒトがことばをもち始め、「心の理論」をもち始めた太古の時代に、あなたがいるとしよう。あなたは、社会に反する行為をして、運悪くそれをだれかに目撃されてしまった。どうなるだろうか? おそらくそのだれかは別のだれかにそのことを伝えてしまうだろう。実はさまざまな研究から、ヒトはこうしたゴシック、とくに他人のマイナス面の出来事を伝えずにいられない(自制するのがきわめて難しい)ということがわかっている。あなたについてのそのゴシップは、口コミで社会のなかに広まってゆき、それはみなの知るところとなるだろう。その結果、あなたはその社会からつまはじき(場合によっては追放や処刑)の憂き目に会うことになるかもしれない。こういった状況は、ことばがなかった時代には考えられなかったことだ。

つまり、プライバシーは、私たち人間が、言葉を使うようになったことと、非常に深く関係している。まず、「私」という「固有名」が、簡単に社会に流通することで、簡単にそのゴシップ的な事実伝達が、頻繁に起こるようになる。そういった「評判」が、さまざまな自分にとっての、「(回りの評価という)環境の変化」を起こすことを絶えず繰り返すことで、自然と、他人の視線への「恥ずかしさ」や、そういった視線から「解放」される

  • 私圏

の確保の「欲求」が大きくなっていく、というわけである。
掲題の本は、まずもって、以下の三つの「プライバシー」を構成する要素を列挙する。

  • 住居
  • 通信

これらが、上記の引用にちょうど対応していることに気付くであろう。私たちは、だれかと性的な関係であること、または、性的な行為を行っている場面を、別のだれかに知られたり、見られることを、忌避する。それは、また、自分の「家」の中での行いを外のだれかに知られることを気持ち悪く思うわけであり、それは、たとえば、だれかに電話をしたときに、その内容を第三者に聞かれていた、ということを嫌だと思う、といったことに、

  • 基本的な感情

がある、と言えるのであろうと考えると、私にはこの「プライバシー」という権利が消滅する未来を、そう簡単には(ディストピアでないものとして)想像できないわけである...。

プライバシーの新理論―― 概念と法の再考

プライバシーの新理論―― 概念と法の再考