西尾維新『悲惨伝』

そもそも、チェルノブイリと福島第一の違いはなんだろう? それは、一言で言えば、津波であり、地震だと言えるのではないか。
つまり、福島第一の放射能の事故は、津波であり地震に「よって」、起きた現象であったことと、その津波であり地震に「よって」、

  • 2万人近くの死者

がいることである。ここで大事なことは、福島第一の事故は、

ことであり、その同じ「原因」によって、

  • 2万人近くの死者

が、存在することである。だとするなら、そもそも、そういった「死者」をどのように考えるのかなしに、そういった「死者」を

  • 道具

とすること、「手段」とすることは、不謹慎だと思われるのではないか。
しかし、吉本隆明が「世界に先がけて」高度に資本主義化したと論じた、この日本においては、そういった、津波地震による死者も、福島第一も、

  • 商売の道具

となる。つまり、これらを「手段」として、客商売が始められる。つまり、死は

  • 売れる

というわけだ。例えば、次のような「思考実験」をしてみよう。3・11の直後、多くの死体が、東北沿岸の水没した都市の隙間に浮遊している「現場」を、

  • ダーク・ツーリズム

と称して、東北以外の日本全国の各地から、

  • 観光客

を集め、「物見遊山」をさせたとしたら、あなたはどう思うだろうか?
世界中の「サディスト」が、「お金ならいくらでも出すから、そういった光景を見たい」と集まってきたら、どう思うだろうか?
ある意味、これが「リベラリズム」である。つまり、そういった「鬼畜」が、「鬼畜」として生きる「権利」を、

  • 私たちが彼らを理解できないからといって彼らの「権利」を侵害しないために

「寛容」の心で、もてなすわけである。
そういった「サイコパス」にも、彼らの主義主張があるのだから、彼らにも一定の「リベラリズム的「言論の自由」権」を認めるべき、というわけである。(さて、

  • いずれ彼らを「共感」できるようになる

とでも言うんですかね orz。)
つまり、こういったサイコパスが、もしも、現地福島に、そこに、旅行に行くということによって、そこで、

  • 大量のお金を散財

するかもしれない。それによって、現地の産業は潤うかもしれない。どんな「鬼畜」のお金だろうと、お金はお金なのだから、そういった奴から、一円でも絞りとれれば、地元は生きて行ける、というわけだ。
しかし、だとするなら、福島第一の周辺に、大阪の橋下市長が言っているように、巨大のカジノ産業を誘致すればいいと提案したらどうだろう? また、橋下市長が好きな、風俗産業を大量に誘致したらいいと提案したらどうだろう? そうすることが、発言の

  • バランス

がとれるというものではないだろうか。福島県の多くの避難住民を、朝から晩まで、お酒を飲む飲食店で、酒びたりにして、

にさせれば、彼らに、地震の恐怖、津波の恐怖を忘れさせて、国家の政策に対しての「不満」も忘れさせて、まったく、国に反論してこない、

にさせることができる、というわけであろう(しかし、ある意味、彼らの、かなりの人たちは、その苦しみに今も戦っているわけであろう。PTSDといって、今も、地震津波に対しての精神的な「傷」から、どうしても、アルコールに依存してしまう。アルコールに逃げてしまう。しかし、逆に言えば、そういった人は、国家に歯向かってこない。御しやすい、というわけである)。
掲題の、西尾維新の、<伝説>シリーズも、間違いなく、3・11を意識した作品だったと言えるであろう。
それは、あの津波によって、多くの東北の海岸線に沿って生きていた人たちが、溺死したその

  • 死者

を、いつもの、ゼロ年代的なノリで

  • パロディ

として描く、いわば、「悪ふざけ」の小説として始まった。言わば、

  • 不謹慎小説

である。つまり、彼のいつもの、「こういうものを書けば売れる」的なノリで、3・11も、パロディの対象でしかない。何万人が死のうと、吉本隆明が言った、日本の「先進的な資本主義」性は、それらの死者でさえも、

  • 商売の道具

にする。小説のネタにする。そして、売れさえすれば、回りは「先生」とチヤホヤしてくれる、というわけだ。
しかし、そうであるだけに、彼が、ある意味、始めて、この日本社会と本気で「対決」しているとも考えられるだけに、興味深い作品とも、言えるのかもしれない。
この、<伝説>シリーズは、何が問題なのか?
それは、一言で言えば、「敵」がなんなのかが、いくら読み進めても、さっぱり、はっきりしないことである。
主人公の、11歳の空々空(そらからくう)は、地球撲滅軍という公的組織に所属する。自分の家族全員を惨殺した組織に、「保護」されたら、という意味不明の意味によって、である。
ここには、空々空(そらからくう)という、少年と大人の間の年齢にある存在の「曖昧」さを突いた、作者の作品の意図があるわけである。
空々空(そらからくう)の「非人間性」は、ある意味、彼が「子供」であることと関係している。
西尾維新戯言シリーズにおける、特異な登場人物である、零崎人識(ぜろざきひとしき)は、高校生か大学生くらいの年齢でありながら、その作品の登場シーンにおいて、なんの関係もない、たまたま、街で見かけた人たちを、次々と惨殺する。「なんの感情も伴わず」殺して殺して殺しまくる姿を描くところから、始まる。
つまり、ここには、サイコパス的存在を「ヒーロー」として描こうとしてきた、一連のSF的「鬼畜」の「善悪の彼岸」として描こうという意図を見ることができるであろう。
日本の高度経済成長以降のバブル崩壊からの、犯罪史において、酒鬼薔薇事件と、オウム真理教による大規模なサリン工場の二つが、決定的だったと考えられる。
零崎人識(ぜろざきひとしき)は、間違いなく、酒鬼薔薇事件の少年をイメージしているだろう。しかし、作品の、それ以降の描き方は、どこか、アンビバレントであった。
零崎一族は、いわば、日本の過去に存在した「忍者」に似ている。暗殺集団であって、零崎人識(ぜろざきひとしき)が、彼らの「家族」となった、その幼少において、彼ら「家族」のメンバーはみんな、平気で人を殺すし、殺すことを「なりわい」としている人たちであった。つまり、そういった「大人」に育てられることによって、

  • 彼も「自然」と人を殺すことに抵抗を感じない

鬼畜になった、というわけである。しかし、他方において、作品のその後の展開においては、むしろ、その零崎一族の、「家族」としての、

  • 人間的

な性格が描かれていくことになる。つまり、彼らだって、兄弟であり「家族」として育ってきた、零崎一族が、次々と死んでいくことで、

  • 滅亡

していく姿を描かれることに、一抹の「後悔」のようなものを感じる、というわけである。
オウム真理教の事件は、むしろ、彼らが大量のサリンを、自分たちの工場で「生産」し続けていたことに、私たち日本の社会秩序を、もっと、大規模に破壊していた「可能性」を与えることに、大きな恐怖があった。しかし、もっと大きな恐怖は、そもそも、ずっと前から、どうも警察は、オウムが工場でサリンを大量に生産していたことを「知っていた」ということが分かっていることである。
つまり、警察は、オウム真理教が長年に渡って、サリンという毒ガスを製造していることを知っていながら、「なにもしなかった」ということが、むしろ、日本社会にとっての、大きな「恐怖」だったわけである。
なぜ、警察は、そういった「犯罪」を、とりしまらないのか。とりしまらず、ああいった「大きな犯罪」が起きるまで、

  • 泳がせておく

のか?
ここに、日本の「公的機関」の特徴は現れている、と言えるであろう。
零崎人識(ぜろざきひとしき)の非人間性は、育てられた回りの「大人」の、非人間性に、基本的には、関係していた、とも言える。そうであるかこそ、逆説的ではあるが、零崎人識(ぜろざきひとしき)は、零崎一族という「家族」的関係という「限定」された範囲においては、「人間的」と呼ばざるをえないような性質をもつ、という形において、

  • 二つの「側面」をもつキメラのような存在

として、作品は最後まで描かれざるをえなかった。
空々空(そらからくう)の場合も、似たような形で描かれる。彼が所属することになった、地球撲滅軍は、地球と戦っている、と言っている。そして、実際に彼らから支給される「道具」によって、彼の目の前に、「地球」という「敵」が現れる。
ところが、である。
本当に彼らは「敵」なのか? 大事なことは、この疑問に答えるためには、彼が地球撲滅軍と

の関係において生きている限り、絶対に答えられることはない、というわけである。この地球撲滅軍という謎の組織は、そもそも、この組織の頂点に誰がいるのかが分からない。いつまでたっても、尊師の麻原が、彼の前には、あらわれないわけである。

「......それにしても」
と、空々は『実検鏡』越しに双眼鏡越しに、幼稚園の園内で行われている、ここまで血のにおいが届いてきそうな、酸鼻極まる虐殺劇を見ながら、特に何も感じず。

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

悲鳴伝 (講談社ノベルス)

「酷いことをするよな、まったく。人を守るために人を殺す。そんな発想だから僕は人間を滅ぼすことに決めたんだよ」
「!!」
いきなり後ろから話しかけられ、空々は衝撃と共に振り向いた。
悲鳴伝 (講談社ノベルス)

幼稚園の園児の中に、何人か「怪人」と呼ばれる、人間の「敵」がいる。それは、地球撲滅軍から「与えられた」ツールによって、空々には、確認できる。
だから
その幼稚園児全員を「虐殺」する場面がこれである。空々は、その「怪人」が、「人類の敵」だと、地球撲滅軍から「教えられた」から、彼らに従い、

  • 敵を撲滅

する。それが、幼稚園児だったとしても。
しかし、ここでの問題は、「どうして、地球撲滅軍が、人類の敵だと言ったから、人類の敵なのか」である。つまり、ここで問われているのは、

  • 空々が、地球撲滅軍のメンバーが言うことを「信じている」こと、そして、信じるがゆえに、「人間を虐殺することさえ、ためらわない」

ことの「異常さ」だと言えるであろう。
上記のように、作品は「幼稚園児を虐殺する」姿を描くことから、このシリーズは始まる。それを、

  • 正義の味方

と呼ぶことから、この作品は始まる。まるで、酒鬼薔薇事件の少年が、なにかの「神」をあがめていた、と報道されていたことに対応するかのように、オウムのサリン工場を、「なぜか」はるか以前から、日本の警察は知っていたのに、なにもしなかったことを「不思議」に対応するかのように、この

  • 空々空(そらからくう)の空虚さ

は、私たちの3・11に対する、「非人間的」な空虚さに対応する、と西尾維新は描くわけである。
作品は、掲題の本で、三冊目になる。今回の特徴は、より空々空(そらからくう)に対して、作品は、「批判的」になっている、ということは言えるのではないだろうか。
彼の空虚さは、言わば、彼の「国語力」に関係している。つまり、元オウムの上祐が「ああいえば上祐」と言われたように、大阪の橋下市長が、たとえ下品であったとしても、口達者と思われたように、

  • 国語的能力

が、「論理性を越える」「パンピーをだまして商品を買わせられる」という発想に対して、果して、どのような批評性がありうるであろうか。
それは、そういった「国語」的「才能」に対して「のみ」、対抗しうるような「強敵」が、その人の「日常」として、「パートナー」として存在することだと言えるであろう。
それが、今回の登場人物の一人である、地濃鑿(ちのうのみ)である。

「追われていたって、誰に?」
「あー、これ、空々さんに言ってもわかるかなあ。あ、違うんです、空々さんの理解能力を疑っているわけじゃないんです。ただ、空々さんって基本的に余所者じゃないですか」
余所者......。
その通りだが、いちいち言葉のチョイスが絶妙だ、この子は。
「余所者にこんなことを言ってもなあって気はするんです。わからなかったとき、私のせいにされても困るなって思うんです。こういうことを言うと意外に思われるかもしれませんけれど、私、人に責められることが大嫌いなんです」
「大丈夫、意外じゃないから」

「わかりました!」
「!」
いきなり大きな声で地濃が、叫ぶように言ったので、びっくりしてしまった。受け入れられようと断らせようと、冷静に対処しようと思っていたところに、予想外なアクションだった。
「空々さんを仲間にしてあげます!」
「.......」
「なんだか今となっては、こちらから仲間になろうと申し出ていたような気分になってきました! どうでしょう、ここは私のほうから仲間になろうと空々さんを誘ったことにしてもらってもいいでしょうか!」
「......元気だね」

地濃鑿(ちのうのみ)の特徴は、この徹底した、人をいらつかせる、

  • グロテスク

な「屁理屈」である。しかし、こと空々にとって、その「相手」をしないという選択肢がない。なぜなら、彼自身が、そういった「屁理屈」によって、今まで生きてきたと言っても過言ではないから。
言わば、地濃鑿(ちのうのみ)は、空々の「劣化コピー」と言ってもいいであろう。彼は、自分自身を拒否できない。それは、自らの「スタイル」を否定することになるから。
作品は、後半になり、川の洪水によって、空々が溺れて死ぬ場面が描かれることによって、再度、3・11を暗示する。ここにおいて、空々空(そらからくう)は、溺死する。つまり、主人公が死を迎えることで、ある意味、作品の終焉を暗示する。
特に、主人公が、水によって、溺死し、体が土気色に変わる姿を描くことで 、その主人公の「運命」と、3・11の死者をオーバーラップさせる。
しかし、作品は続く。
それは、魔法少女の地濃鑿(ちのうのみ)の「能力」に関係する。つまり、主人公は「死体」となりながら、なぜか、

  • その後

も生きる。それは、「蘇生」とも違うことが強調される。つまり、その魔法少女の「能力」が、「死」を「生」に変える、という、かなり「特殊」なものであることが説明されるわけだが、一つだけはっきりしていることは、主人公の空々空(そらからくう)が、

  • 生きている

その「命の恩人」として、彼が面倒くさいと思い、けむたがっていた、地濃鑿(ちのうのみ)が、彼と「チーム」を組むパートナーだったから、としか言いようがない、ということである。

「ですね。って、あれ? 空々さん。忘れてますよ」
「忘れてる? 何を?」
「ほら」
と、地濃は、両手を揃えて、空々に突き出す。
言うんらそれは『お縄頂戴』のポーズだった。
「私を縛るのを忘れています。腰縄も」
「............」
空々は少し黙って。
表情に乏しい彼が珍しく嫌そうな顔をして、
「もういいよ、あれは」
と言った。
それはひょっとすると、空々なりの地濃に対する感謝の意の表れであり、そして普段口癖で言っているだけのそれとは、まったく違うものだったのかもしれなかった。

先ほどの、零崎人識(ぜろざきひとしき)にしても、西尾作品の登場人物は、単純に、非人間的としては、描かれない。それは、

  • 純粋でない

というより、人間の論理性が、さまざまな「縁」に依存している、という形で描かれているからであろう。たしかに、零崎人識(ぜろざきひとしき)は非人間的と言っていい、鬼畜の人殺し犯であるが、他方において、そういった、昔でいうところの、忍者のような殺人集団の中で育てられた、その集団の中では「有能」な存在として、丁重に扱われる存在として描く。しかし、他方において、彼は、同じ零崎一族の兄弟たちが、次々と死んでいき、零崎一族の「滅亡」が、現実のもととなる中で、さまざまな

  • 家族愛

を発露させる。つまり、非人間性も、人の世の縁(えにし)なら、人間性もそういったものだ、と言いたいわけであろう...(この前の、ドゥルーズでいうなら、人間の人間性の「生成」の瞬間の人間性を問うことのアンビバレントな意味を示唆している、といったところだろうか)。
(どうでもいいが、今回の、四国を舞台にして、さまざまな四国の「名所」を巡る、この作品の「聖地巡礼」的な臭いが、どうも、わざとらしくて、なんとかならないのかと思ったものだが、これが、ゼロ年代なりの、3・11以降に「物語」がそうでありうる、「言い訳」的なスタイルということなんですかねえ...。)

悲惨伝 (講談社ノベルス)

悲惨伝 (講談社ノベルス)