ウェンディ・ブラウン『寛容の帝国』

私は、リベラリズムという言葉に、ある種の、「不快」な感情をもっている。それは、ありていに言って、自分の中の「保守的」な部分がそうさせていると言ってもいい。いずれにしろ、リベラリズムという言葉を使った途端に、なにか、私たちにとって最も「重要」なものを踏みにじられているように思うわけである。
それは、一言で言えば、リベラリズムの「条件」が、私たちには、まだ、見通せていないという「課題」がありながら、それを、そのままの「形」で流通させているという

  • 文明人の野蛮さ

が、いちいち、人々を「不快」にさせるのであろう。

この二一世紀の転換期に、いかにして寛容は多文化的正義や市民的平和の標識となったのか。ほんの一世代前、アメリカ合衆国では、寛容は気どった人種差別の婉曲的な言い回しとして広く認められていた。

そういう意味では、もともと、「寛容であることが重要だ」などと、わざわざ、人前で言わなかったわけである。つまり、こういうことを言うことは「恥ずかしい」ことであった。そういった恥ずかしさを忘れ、なにかの普遍的な原理であるかのように、この「寛容」という言葉が「リベラリズム」と平行して語られるようになったのが最近の動向なのであろう。
なぜ(こと政治の場面において)「寛容」という言葉を使うことが、人々から「侮蔑」の感情をもたれるのか。
それは、そもそも、歴史的に「寛容」(英語で言えば、torerance)とは、どういうものだったのかを私たちに問いかけるわけである。

たとえば、排他的な社交クラブ、軍隊の学校、スポーツチームないしはそのロッカールームといった、ことさら男らしさが強調される女人禁制の領分に、女性が立ち入ろうとするときはそうである。しかし、ジェンダー間の差別撤廃やジェンダー間の公正が語られる場合は、たいてい寛容ではなく平等が問題とされる。また、女性の「差異」は、それが性的なもの、生殖的なもの、情緒的なもののいずれに同定されようとも、職場、宇宙計画、戦闘地域での寛容の対象となるかもしれないが、それらの事例で許容されるといわれるのは、女性そのものではない。むしろ、女性の差異は、性別に仕切られ移設とか妊娠にかかわる特別な配慮や出産直後の要求といった便宜的な問題とされている。なぜか。今日、マイノリティの宗教、エスニシティ、人種、セクシュアリティが、すべて寛容の対象として扱われているのに、どうして女性はそうではないのか。その鍵は「マイノリティ」ということばにあるのか。いいかえれば、寛容は自らのなかの周辺的な、つまり取るに足らない要素にたいするマジョリティの対応をつねに表わしているのか。そうだとすれば、マジョリティはけっして寛容の対象にはなりえないのか。それでは、植民者=先住者の関係やポスト植民地的なエートスにみられる寛容の倍は、どうなのか。寛容の領域を切り開いているのは、比例的な人口統計学というよりも、文化的あるいは政治的なヘゲモニーではないのか。
本章で、これらの問いを比較論的な問題設定のもとで考察することにしたい。一八世紀、一九世紀のヨーロッパにおいて「ユダヤ人問題(ジューイッシュ・クエスチョン)」はしばしば寛容の問題としてとらえられていたのに、なぜ「女性問題」は最初から従属と平等という言葉をつうじて現れたのか

「寛容」の問題を考えるとき、どうしても、フランス革命において「ユダヤ人」が、どういった扱いとされたのかに、さかのぼらないわけにはいかない。そのことが、フランス革命といったものが、そもそも、どういった性質のものだったのかを、私たちに考察させるであろう。

一七八九年一二月の議会の会期中、ユダヤ人解放の主唱者であったスラニスラウ・ド・クレルモン=トネル伯爵は、つぎのように陳述した。「民族としてのユダヤ人はすべてを否定されなければならない。個人としての彼らはすべてを付与されなければならない。彼らによる裁きはもはや認められない。彼らの訴えは、もっぱらわれわれ自身に向けられなければならない。ユダヤ人の団体的な存在が維持されている、その疑わしい戒律の法的保護は打ち切られなければならない。彼らは、国家のなかに政治体あるいは独立した秩序をつくるのを許されない。彼らは個人的な市民であることがもとめられるのだ」。ホッブズフーコーをひとつの文章のなかで組み合わせるようにして、クレルモン=トネルは古い団体組織から新しい市民=主体を析出するめの必要条件を説明している。それは個人化、一般規則および単一の法と社会規範の尊守、そして不可分の国家の権威である。伝統的な寛容の議論は議会によって一蹴されたが、クレルモン=トネルの論理は、解放を支える寛容の暗黙の取り決めを明らかにしている。すなわち、許容された主体は、解放され、公民権を付与されたなら、ただちに国家の統治に従わなければならないという取り決めである。彼の公式は、新しい普遍的な国家への帰属にともなって、下位国家的なユダヤ人のプロテスタント化と呼びうるものを必要としていた。フランス共和国の成員資格の両立するために、ユダヤ人は個人化され、ユダヤ人としての民族性および集団性を除去されなければならなかった。フランス人と共存するために、ユダヤ人は宗教上の戒律、儀礼的慣習、世代の連続性によって結びつけられた独自のコミュニティへの帰属に自分らしさをみいだしてはならなかった。ユダヤ人らしさは、せいぜい私的に保持され、実践される信仰にもとめられたのである。

フランス革命において、そこに住んでいたユダヤ人が、フランスの市民なのかは、当然、問題となった。彼らを、どのように扱えばいいのか。それに対して、フランス革命を最も代表したクレルモン=トネルの主張は、彼らユダヤ人の

  • 民族性の否定

である。つまり、もともとユダヤ人は民族「ではなかった」と主張したのである。じゃあ、彼らはなんなのか? そこでもちだされたのが「人種」である。
つまり、なんでこんなことを言わなければならなかったのか。そのことは、例えば、ルソーの「社会契約論」を思い出してもらえば、わかるのではないか。

ルソーは、先の一般意志の基本定義に続くテキストで、一般意志の成立には自由な「討議」と「意見交換」が不可欠であることを次のように説明している。

人民が十分な情報をもって討議するとき、もし、市民相互があらかじめなんらかの打ち合わせもしていなければ、小さな差異がたくさん集まり、結果として常に一般意志が生み出される。だから、《討議 deliberation 》は常に良いものとなるだろう。ところが、市民が《徒党》を組み、大結社を犠牲にして部分的結社が作られると、これらの結社のそれぞれの意志は、その構成員にとっては一般的であるが、国家に対しては特殊的となる。その場合にはもはや、人々と同数の投票者があるのではなく、結社と同数の投票者があるにすぎなくなる。そうすると、差異の数が減少し、結果的に一般性の程度も減少する。ついには、これらの結社の一つが非常に大きくなり他のすべてを圧するようになると、結果はもはや小さな差異の総和があるのではなく、ただ一つの差異があるだけとなる。そうなれ、もはや一般意志は存在せず、勝利する意見は特殊な《意見》であるにすぎない。

(川合清隆「ルソー 人民主権と討議デモクラシー」)

自由論の討議空間―フランス・リベラリズムの系譜

自由論の討議空間―フランス・リベラリズムの系譜

このルソーの議論と、クレルモン=トネルの主張が、著しく平行性があることが分かるであろう。確かに、ここでルソーが言っていることは、あくまで、政治の場面での「党派」性のことだと受け取られるかもしれない。つまり、政治の技術として、「そうであるかのように」考えることで、民主主義は成立しうる、と。議論を活性化し、各自の意見を自由にさせるには、彼らが所属する共同体への「遠慮」を乗り越えなければならない、と。
しかし、この主張は簡単に「本質的」な問題と受け取られる。ルソー主義者はこのことを、簡単に、

  • 一切の(国家以外の)徒党への「憎悪」

へと繋がるわけである。

フランスのユダヤ人にとって、市民になることはなにを意味していたのか。共和制フランスのシティズンシップは、権利をもつ個人に拡張される形式的なカテゴリーではなく、共和国の成員でること、国家と同一化すること、フランスの国民文化を共有することを含んでいた。そのかぎりでいえば、ユダヤ人を市民とするプロセスは、彼らをフランス人にすること、すなわち、きわだってユダヤ的な人目につく実践や習慣だけでなく、きわだってユダヤ的な一体感や忠誠心を抑えることを意味していた。

フランス革命は、ユダヤ人に、彼らの民族的誇りを捨てさせる。しかし、ここで重要なポイントは、ルソーの上記のレトリックがそうであるように、

  • 個人

は「フランス市民」として、徹底的に権利を保護するわけである。つまり、ユダヤ民族の構成員である、一人一人のユダヤ人を、

  • 個々バラバラに分解

して、その一人一人には「市民としての権利がある」とするわけである。つまり、ルソーの社会契約は、ある意味において、

  • 集会結社の自由を認めない

社会だと言えるであろう。だから、ユダヤ人も「その人個人であれば」ユダヤ教を信じることは、当然、認められるわけである。あくまで、

  • 一人

であるならば。しかし、多くの人は、こういった議論が、いかに「異常」であるのかに気付くのではないか。このことは、何を言っているのか。例えば、東アジア共同体ということが、さかんに言われたことがある。もし、そういうものができたとして、そしてそれを

  • 国家

と人々が言うようになったとして、果して、何が起きるか。言うまでもない、

  • 日本人の否定

である。日本民族という「民族」意識を持ってはならない、となるのである。日本人として当たり前のようにやっている、慣習や儀礼は、その「集団的意味」において否定される。徹底して、「個人の趣味」としてのみ、存続を許される。
こんな社会に住みたいだろうか? ということは、どういうことか。同じように、フランス革命時のユダヤ人たちも、そう思った、ということである。

だが、一九世紀全体をつうじて同化が進んだにもかかわらず、なぜユダヤ人は消えなかったのか。この問いは信仰を捨てたユダヤ人だけでなく、宗教改革が広めた寛容の公式に従って、私的な活動の装いのもとで戒律を守りつづけたユダヤ人にもかかわる。ユダヤの法と儀礼的慣習、ラビの権威、信条、ユダヤ民族への愛着は、どうすれば弱められ、完全に消され、ユダヤ人か取り去ることができるのか。「ユダヤ教は.........宗教ではない。それは人種である」と、トゥラスは一八九五年に宣言した。

つまり、ここで、あらためて、「寛容」とはなんなのかを考えなければならないのである。
なぜ、ルソーの策略やフランス革命でのユダヤ同化政策によっても、現代までユダヤ民族が続いているのか。それは、彼らが、

したからに決まっているのである。国家は、ようするに「建前」として、自分たちが「許す」という形によって、彼らを「包摂」しないわけにはいかなかった。だから、自分たち自身を説得するために、こういったロジックを生み出したわけである。
ところが、当時のユダヤ人たちにしてみれば、そんなことは「どうでもいい」わけである。彼らにとって大事なのは、いかにして、自分たちユダヤ民族が生き延びるかであって、そのためなら、日本の隠れキリシタンのように、いくらでも、

  • 世間体のあるところでは「個人的信仰であるかのように」振る舞う

わけである。
これが「政治」である。
政治の場は、こういった、さまざまな権利や利権の主張のぶつかり合う世界であって、そういったものを、一方の視点からだけで、整理する限り、絶対に理解できない。つまり、政治の場面は、必ず「矛盾」があるわけである。
じゃあ、なぜ「矛盾」は、そのままにされるのか。
その政治的決定が、そのようにあるのは、さまざまな意見が衝突する過程において、さまざまな勢力の側それぞれが、なんとか「納得」できた地平だからである。政治は「意志」ではなく、「無関心の結果」であるというのは、そういう意味で、

  • 別に、そうあることを求めているわけではないけど(そうあるかどうかはどうでもいいけど)、どうしても困るというわけでもないので、そうあることに反対はしない

といった「無関心の集積」、つまり、

  • 一般無関心(たんなる、特殊無関心でも全体無関心でもなく)

によって、政治は決定される。
ところが、(カントの言う意味で)形而上学者であり、ルソー主義者は、このことを、どうしても「積極的」に考えずにはいられない。

ここで異議を申し立てられるのは、寛容の言説が依拠し、普及していう政治の文化還元であり、またリベラリズムの超文化的とみなされる性質である。こうした異議申し立ては、つぎのような規範的前提によって活気づけられている。つまり、より民主的なグローバルな未来は、リベラリズムの文化的な断面や、その特定の文化による刷り込みを否定しり、否認するのではなく、むしろ、それらを肯定することにかかっている。そのように肯定することで、リベラリズムの普遍主義の要求や、その文化的に中立的な、したがって許容しうるものを仲介するとみなされた地位は、しだいに崩れ去るであろう。そして、それらが衰退していくなかで、絶対かつ唯一寛容だとみなされたリベラルな民主主義体制の名声は、異議を申し立てられ、ほかの多くの体制と同じくらい、自己主張的で、<他者>を却下していることが明らかにされるだろう。また、リベラリズム原理主義と近接しており、何度もじかに交わっていることも明らかにされるだろう。

どうしても、政治を「本質的」に考えざるをえない人たちは、その政治を「分かりやすく」しようとする。つまり、政治を「意志」の問題にする。つまり、その政治から吐き出されるメッセージを

  • 自分たちにとって分かりやすい

ものにしようとする。ところが、である。そういった「純潔運動」は、結果として、今まで、さまざまに「不純」で曖昧で、雑種的に存在したメッセージによって、さまざまにこの社会においても、自分たちの居場所を確保できていた人たちを

  • 排除

し、

  • ただの「脱色」された個人

へと還元しようとする「欲望」で、社会を覆う。
彼らルソー主義者は、一切の「集団」を「嫌悪」する。つまり、興味深いことに、上記で掲題の著者も指摘しているが、リベラリズムはそういう意味では、

であり、一種の原理主義だということである。つまり、集団への嫌悪をもつことには、少しの「恥かしさ」をもたない連中であり、そのことが、「他者の尊重」に反しないと本気で思っているわけである。
しかし、「だとするなら」、どういった答えがある、ということになるのであろうか。
私たちは、一見、リベラリズムを標榜する人たちが、市民運動新左翼の人たちを口汚くののしる場面を何度も見てきた。そして、実際にそういった人たちは、国からもらった審議委員などの仕事で、お金を稼いでいたりする。
おそらく、こういった有識者が、あらゆる組織を、ボロクソに言うことを変えさせることはできないであろう。しかし、だとするなら、私たちには、どういう答えがある、ということになるのであろうか。

リベラリズムを文化的なものとして認識することの目的は、たんに、その傲慢さをあばいたり、その尊大さをあざけったりすることではない。むしろ、このような認識をつうじて、あらゆる事例のリベラリズムの生来的な混交性や不純性を明らかにされることで、いかなるものも「唯一のリベラリズム」とはなりえず、それぞれの形式と内容はなにほど鉢植えされた、歴史的で、ローカルで、生活感のあるものだということがはっきりと示される。また、そのような認識によって、リベラリズムはつねにすでに原理主義的な<他者>との雑婚をめぐる問題であり、その内部にこうした<他者>を抱えており、それゆえ、この内なる<他者>を承認し、それと関係をもつなんらかの潜在力をもっているということも明らかにされる。リベラリズムの再生、さらには救済、あるいは少なくとも、より穏やかで平和的な実践への展望は、そうした可能性のなかにあるのかもしれない。

おそらく、このことは、リベラリズム脱構築ではないが、いわゆる

  • 文明人の野蛮さ

をどのように考えるのか、コントロールしていくのか、といった、自己言及的な態度から始めなければならないという意味で、なかなか難しいものになりそうである...。

寛容の帝国―現代リベラリズム批判 (サピエンティア)

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