菊池理夫『共通善の政治学』

例えば、アニメ「帰宅部活動記録」のなにがおもしろいかと考えるところから、そもそも「政治」とは何かを考え始めるというのも、いいんじゃないかと思うんですけどね。
第二話の一つ「女子力オーバードライブ」において、帰宅部の新入部員の一年の花梨(かりん)ちゃんを、どじっ子キャラだと思っていたら、意外に女子力が高いことを知った先輩部員たち、桜(さくら)先輩、牡丹(ぼたん)先輩、クレア先輩が、次々とそれをネタにボケをかまし続ける場面(一年の夏希(なつき)ちゃんがひたすらつっこむ)。
第三話の一つ「可愛い子に飴をあげよ」において、牡丹(ぼたん)先輩が、なぜか、階段の踊り場から、下の階にいる花梨(かりん)ちゃんに「登ってこい」と言ったら、「こんなの無理」と言う場面(一年の夏希(なつき)ちゃんがひたすらつっこむ)。
これらが、なにを示唆しているのかと言えば、つまりは、

  • 放課後という暇な「時間」を彼ら帰宅部員が「共有」している

ことなんですね。つまり、たしかに「暇」な時間なんだけど、そんな彼らが一同に会することについては、疑っていない。だから、その一緒にいる時間を「楽しいものにしよう」というマインドを共有している。つまり「楽しい」場にすることに「価値」を見出していることについては、全員が合意している、ということになるであろう。
しかし、こういったものが私にとっての「政治」なわけです。政治とは、日本国民「全員」でやるものだけではない。非常に身近なところで行っている「共同行動」全てが、一種の政治だと考えるわけです。
では、この場合、何が問題になるでしょうか? それは、上記の5人の部活動をやっている場面を、世界中の人は見ていない、ということです。つまり、彼女たちの行動を、誰も知らない、ということです。私は、こういったものを「政治」と呼ぶわけです。つまり、どういうことでしょうか。つまり、これが、

だということになります。つまり、自治は必然的に地方自治になります。また、だれも知らないのですから、

  • 不可知論

でもあります。ここで、「不可知論」であることの本質的な意味は、なんでしょうか?

  • 政治は、その政治を担う人、その人の「人生」そのもの、と考えてください。

では、その人そのものとは、どのように定義できるでしょうか。まず、その人の「すべて」のボキャブラリーを考えてみましょう。
その人のもっている言葉の「すべて」は、ある意味で、その人の全体像の一つを形成する、と考えられるでしょう。そうすると、奇妙なことが分かります。というのは、非常に「ローカル」な用語を、大量にもっている、ということです。
家の赤ちゃんが、たまたま、間違って発言した、なまった言葉を覚えていた、とします。それは、家族の皆が「笑った」ので、家族全員には、つーかーで通じます。ところが、家族の外では、だれも、なんのことだか知りません。
学校のクラスではやった言葉。仕事場ではやった言葉。こういったものは、たくさんあるでしょう。そして、そういったものは、たんに、数人が知っている、というだけでなく、その「土地」にある、その土地の人なら、毎日、通勤のとき見慣れているものあっても、その土地を離れた人には、まったくイメージもできないものって、たくさんあるわけです。つまり、基本的に「地域」性をもっているわけです。
あなたがもし、こういった世界中のほとんど全ての人に通じないようなものは「どうでもいい」と考えるのなら、そういう人は、政治を分かっていません。先ほど定義したように、政治とは、ある種の「決断」です。そして、その決断には「決断をする人」がいます。民主主義の場合は、いわば、その共同体の構成員の「全員」であり、その多数決となります。では、その「決断」する人の一人は、どうやって決断をするのでしょうか。言うまでもありません。

  • その人の人生の全てを使って決断をする

のです。だとするなら、その人の人生の全ての要素が、その決断に、なんらかの関係がある、と考えないわけにはいかないでしょう。つまり、そのどれも「どうでもいい」と言って無視するわけにはいかないのです。
もし、哲学に善悪がない、とするなら、私の定義においては、政治には善悪「しかない」となります。そういう意味で、哲学者とは政治から善悪を排除した、「権力者の支配の道具」に変え、権力者にとりこみ、他方で大衆を口先でだまくらかす、

  • 危険な存在

と定義することになります(大事なことは、なぜ哲学者がそうするのか、です。なぜ彼らが「御用哲学者」になるのかは、彼らも、資本主義を生きているからです。つまり、お金を儲けて、違う別のことをやるために、権力者の「御用学者」になるわけです。つまり、彼らは政治を「お金儲けの道具」として利用します。そういった人たちの特徴は、彼らが学会で論文を書かないことです。レフリーのジャッジを受ける仕事をしなくなります。彼らが「お金儲け」のために哲学を話しているのか、「政治」のために哲学を話しているのかを大衆は見分けなければいけません...)。
掲題の著者は、それを「共通善」という言葉であらわします。ここで、なぜ「共通」なのか、を考える必要があります。

この点で私の観点か興味深いのは、マリタンが「共通善」と「公共善(bien public)」を区別していることである。つまり、社会的生活を営むミツバチのような動物には「公共善」はあっても、「共通善、すなわち受け取られ、伝達れる善は存在しない」[Martitain 1990:199=1952:45]。

ここで言っている「共通」を、ヘーゲルのように、国家共同体が最初から備えている「機能」(つまり、国家という有機体の体の一部として、個人一人一人には「役割」がある)、といったものと考えてはなりません(それが、上記の「公共善」です)。
そうではなく、私たちが、チームのだれかが明日誕生日だからと、誕生日会をチームの全員で行おうと「合意」するようなものです。だれかが思い付いた「善」に、つぎつぎと同意する(同じ「善」を共振によって、共有するようになる)といったようなものだと考えると分かりやすいのではないでしょうか。つまり、それは必ず「伝達」という形をとります。
私がここで言っている「政治」は、国会でやっているものだけでもなければ、コミュニタリアンが例にだす、地域自治、PTA活動のようなものだけでもありません。その人の生活における

  • あらゆる

集団活動は一種の「政治」と考えるべきだと思います。例えば、仕事で企業に出勤した現場では、ある種の「共同作業」が行われます。では、この現場に「政治」はないでしょうか? 「全て」上司の命令通りに動いていますでしょうか? そんなことはないはずです。ということは、そういった場所にも、

  • 必ず

「政治」があるはずです。

あるコミュニティが維持されるためには、その成員に共通した伝統・意思・価値観が存在し、そのような前提から人々が熟議していくことによって、個々人の私的な利益でなく、共通の利益をめざす政策が作られていく。このような「共通のもの」すべてを「共通善」と呼ぶことができる。形式的にはコミュニティの成員がそのコミュニティを維持するために共通に持っている何かであり、そのようなものがなくなれば、そのコミュニティは解体する。「共通善」が具体的に何であるか、個々のコミュニティにおいて、その伝統的んものが何かによって異なる。ただ、西洋の伝統のなかで、まず注目したいのは、「共通善」はそのコミュニティの成員が平等に内在的に持つ「大衆の善」であり、支配者や政治的エリートだけが持つ善ではないことである。

こういった「政治」の定義をすることによって、私たちが毎日生活をしている「環境」というものが、どういった政治的性格のものなのかが分かってきます。

個人が所属するコミュニティの「善き環境」それ自体が「共通善」であり、それを維持していくためには、原則としてそのコミュニティの成員すべてが熟議して、協働していくことが必要である。この点で、善き環境を守っていくことは、コミュニティ全体のための義務でもある。つまり、環境権とは個人の権利であるとともに義務でもあり、またコミュニティの集団の権利であるとともに義務でもある。

この問題を深く考えてこなかったゆえに起きた事故こそ、福島第一であったと私は考えずにはいられません。そういう意味で、今だに、原発再稼働賛成派が、私には、人間的に恐いです。福島にあれだけの事故を起こした後も、彼ら東京人が暮らす、東京に電気を運ばせるために、地方にある原発を動かせと主張するわけですから、地域住民は、本当に強い意志で、

  • 東京人の「幸せ」のために地方が利用される

ことと闘っていかなければならないと思わないでしょうか。彼らは、東京さえよければ、あとはどうでもいいわけです。上記で示唆した、思想を「お金儲け」のために使う連中の、お金儲けのために、各地域の環境を「破壊」されては、ご先祖様にもうしわけないではないと思わないでしょうか。
さて。上記で、私が考える「政治」というのものが、どういうものであるのかを説明するのに、その人の「すべて」のボキャブラリーを一つのメルクマールとして提示しました。
この例を考えたとき、私は、もう一つ、非常に重要な観点として「過去」があると思いました。つまり、政治は「過去」に深く関係している、ということです。
なぜ、政治は「善」なのか。それは、政治が、「価値」と関係しているからです。
ある人が、おばあちゃん子だったとします。子供の頃は、毎日、おばあちゃんと一緒に行動していました。そして、さまざまな話を聞いたとします。いろいろな、一緒に過した体験をもっているとします。しかし、おばあちゃんは今はいません。年を重ね、死んで今はいません。
その人が行動するとき、いつも、おばあちゃんが言っていたこと、おばあちゃんが自分にしてくれたことを思い出します。その人は、ある日、おばあちゃんがいつも口癖にしていた、言葉をかたどった、石碑を作りたいと思ったとします。それは、おばあちゃんが、その人に残そうとしたなにかだったとして、その人は、その言葉は、ちゃんと後世にまで伝わらなければならない、それだけの「価値」のある言葉なんだ、と思ったとします。
私にとって、こういうことが「政治」です。
あとは、その人が所属するコミュニティが、同意してくれたとき、その行為は現実のものになるでしょう。
今期、放映されているアニメにおいて、「傾物語(カブキモノガタリ)」と「神様のいない日曜日」は、両方とも、

  • 死者

が、生きる世界、つまり、「ゾンビ」として、死者が「生きる」世界が描かれています。死者が生きるとは、どういうことでしょうか? それは、私たちに死者について考えることをうながします。死んだあの人は、本当は、なにが言いたかったのか。もし、その人が生きていたなら、なにをやっていただろうか。なにをやりたいと自分に語ってくれただろうか。
「神様のいない日曜日」において、なぜ、死者は生きているのか。それは、死者が「死にたくない」と思ったからです。だから、神様は、その願いを叶えたのです。なぜ、死者は死にたくないと思ったのでしょうか。それは、死者が、生きている間にやりたかった「未練」が、この世にあるからです。
傾物語(カブキモノガタリ)」において、八九寺真宵(はちくじまよい)という小学生の女の子の幽霊がでてきます。なぜ彼女は、成仏しないのか。ずっと、この世を、幽霊として、さまよっているのか。それは、彼女も深く強い「未練」を、この世に、残してしまっているからなんですね。
この作品を考えたとき、唯一、なんの救いもない、悲劇であったのが、八九寺真宵(はちくじまよい)だと思うんですね。そのように考えたとき、主人公の阿良々木暦(あららぎこよみ)が、「過去にタイムスリップして、彼女が交通事故で死なないように、助けて、歴史を変えたい」と思うようになることは、必然の、物語の流れだったように思います。
しかし、その結果、世界は滅びます。人間のいない、「ゾンビ」だけが存在する世界となります。いや。八九寺真宵(はちくじまよい)は生きていました。立派な、人情味のある、いい女性に成長していました。
しかし、です。現代の、幽霊である、八九寺真宵(はちくじまよい)は言うのです。

「やっぱりごめんこうむりますかねえ」
「どうして」
「なんとなくです。阿良々木さんだって、人間に戻れるって言われても、戻らないんでしょう?」
「ま、そうだな。そう思ってた。だったら僕とお前は同じってことだ」
「同じです」
「じゃあさ。お前、幽霊になって、幸せ?」
「幽霊になったことは不幸せです。でも、阿良々木さんに会えたことは幸せですね」
「.........」
「だからまあ、総合的には私は幸せですよ。生きている間にお母さんに会うことはできませんでしたけれど、悔いを残して死んだお陰で、わたしは阿良々木さんと会えたんですから」
「......そうだな。僕達は、会えたんだ」

傾物語 (講談社BOX)

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上記の引用で、「伝統」という言葉がでてきます。多くの人は、その

  • 意味

を深く考えません。なにか、歴史の授業で習う「暗記物」くらいにしか考えていないわけです。しかし、私がここで言っている「共通善」であり、「過去」とは、「伝統」の一種なのです。
そもそも、私たちが「なにかをしたい」と思うとき、それは本当に私たちの「快楽」なのでしょうか。私には、そういった話が、嘘くさく思えてしょうがありません。むしろ、私たちが「やりたい」と思うことのかなりが、そうやって、亡くなっていった人たちの未練であり、遺言が、私たちを動機づけ、強いているのではないですかね...。
(上記の引用はおもしろいですね。つまり、そうやって、死んで、幽霊となった「後」においても、その「価値」は、

  • 人との出会い

というわけですね。)

共通善の政治学―コミュニティをめぐる政治思想

共通善の政治学―コミュニティをめぐる政治思想