フィリップ・スコフィールド『ベンサム 功利主義入門』

正直なところ、「功利主義」とはなんなのか、という命題によってなにかを考えようという態度がうまくいかないのかもしれない、と思わなくはない。
というのは、むしろ「功利主義」を言うことによって、「なにかを言いたい」人の動機を考慮していないからである。
ともかくも、功利主義についての考察を始めてみよう。

自然は人類を苦痛と快楽という二人の主権者の支配下に置いた。彼らだけが、私たちに何をするべきかを指示し、私たちが何をするのかを決定する。彼らの玉座には、一方には正と不正の基準が、他方には原因と結果の連鎖が結わえられている。それらが、私たちが行うすべてのことについて、私たちが話すすべてのことについて、私たちが考えるすべてのことについて、私たちを支配している。この従属から逃れようとして私たちが行う一切の努力は、それを証明し強固なものにするだけである。口先ではこの帝国から逃れた風を装っていても、実際にはずっと相変わらずそれに従属し続けたままである。功利性の原理はこの従属を認識し、これをその体系の基礎とみなしており、その体系は理性と法律の力によって幸福という建造物を打ち建てることを目的としている。このことに疑問をもとうとする体系は、意味のかわりに空言を、理性のかわりに決まぐれを、光明のかわりに暗黒を取り扱っているのである。

これが有名なベンサムの最初の警句であるが、この文言を文字通りに(大衆と同じ目線で)見るなら、相当に変なことを言っているように私には聞こえる。
まず、快楽とは「結果」なわけであろう。つまり、その事態が起きた「後」の世界のことなわけで、それと、その事態が起きる「前」における世界とを、どうして「過去にさかのぼって」結びつけなければならないのか。
そもそも、快楽って、なんらかの「化学物質」が人体内に生成されて、それが、神経に与える影響だとするなら、それで、

  • 私たちが「満足した」と思っている

ことを、なぜ「説明できる」と思えるのだろうか? むしろ、「逆」ではないのか? 私たちが、論理的帰結として「満足した」と

  • 考えた

「から」、そういった快楽という、なんらかの「化学物質」が人体内に生成されて、それが、神経に影響を与え「た」のではないのか。
だとするなら、目的が快楽なのではなく、目的を「達成する」ことが「快楽」なのではないのか。だとするなら、目的を「達成する」ことを実現しながら、不快な事態が続くなら、私たちは、目的を「達成する」という行為自体に快楽しなくなる、ということさえありえるということになるであろう。
もしそれを「生きることが嫌になる」というふうに言うとするなら、そこからまた「生きよう」と思うようになる、ということは、体力が回復してきて、また、目的を「達成する」ことが「快楽」と思えるようになるくらいには、自分に自信が戻ってきた、と考えられるのかもしれない。
(このように考えるなら、人生のほとんどは、「初体験」なわけで、そういう中で、「暗闇の中の跳躍」をしていくことだとも考えられるわけであろう...。)
人間が快楽と苦痛の「奴隷」であると、ひらき直るということが何を意味しているのかを別の角度から考えるなら、最近はやりの、「環境監視型社会」とか「動物」とかといった話になるのであろう。
たとえば、義務教育をやめたとする。そうすると、人々は、「知」が「ある」ことを知らなくなる。だから、勉強とか教育というものが価値があるかもしれない、ということを「知る手段がなくなる」。へたな「知恵」が人間につかなくなることで、知能犯罪をやらなくなる。まさに、

  • 愚者教育(=動物教育)

である。これによって、支配者に反抗してくる人々を生まれなくする。人々には知識がない。だから、「もっと良いことが世の中にはある、ということを知らない」わけである。だから、「現状」に「満足」をするわけである。現状の不遇な環境に対して、「異様」な満足感が「無知」ゆえに生まれる、というわけである。これが人間支配の「動物」戦略である。。
この、もっと「洗練」された手段が、「家畜人ヤプー」である。子供が、思春期になる前に、子供の脳を「手術」する。知能が発達しないように、脳を改造するわけである。これによって、人間は、自分が「奴隷」であることの方が、余計な才能を求められないことで、自分に「足る」生き方であることを認識させられ、「満足」させられる。
さらに、もっと「洗練」させた方法が、「麻薬漬け」である。ドラックは強烈な「快楽」がもたらされる。抵抗できないように腕を押えている間に、注射をしてしまえば、そいつは、もう麻薬の「虜(とりこ)」なわけで、麻薬さえ打ってもらえれば、

  • あらゆることをやる

ようになるであろう。ここでのポイントは、国家が強制的に若者を麻薬漬けにすることである。まさに人間は「快楽の奴隷」であったことが、このことによって証明される、と。つまり、最大幸福は、国民全員の麻薬漬け化であった、というわけである。
もちろん、こんな非人道的なことが許されるはずがない、と思うかもしれない。ところが、ここで話していることは、「功利主義」だということである。私がここで話しているのは、ある人が間違って、世界中の人をシャブ漬けにしてしまった「後の世界」のことを言っているわけである。そこから、人間という「快楽&苦痛の奴隷」が、自力で、シャブ漬けの毎日から更正するための「動機」を、「人間とは快楽&苦痛の奴隷である」と定義している連中がどこから獲得するのかな、と皮肉を言っているわけである。
ただし、上記の引用を好意的に解釈するなら、それが、「唯物論的」である部分ではないか、と思わなくはない。つまり、快楽という、ある種の

  • 物質性

に注目したことで、物質科学的に「計測」できる可能性を開いた、と。
つまり、冷静に私たちは、上記の文言を「どういう人」が主張しているのかを考える必要があるわけである。

私たちの用いているすりの例に戻ると、立法者はすりの行為によって生みだされる快楽と苦痛の価値を見積もって、その行為は最大幸福にとって有害であり、それゆえにその行為には単なる手当たり次第の刑罰あるいはサンクションではなく、刑罰に関して可能な限り少ない費用で----功利主義的観点から見て刑罰が軽すぎると効果がないし、厳しすぎると不必要で自己破滅的である----すりを行う可能性のある人の動機を変えるように正確に計算された刑罰あるいはサンクションが与えられるということを認識する。このような手法が合理的な刑法典の基礎となっている。幸福にとって有害な行為は犯罪という性質を帯びているべきであり、誰にも危害を与えない行為は放任されるべきである。このような原則は、たとえば、ベンサムの時代のける一連の非常に多くの宗教犯罪や性犯罪を非犯罪化することになっただろう。

つまり、ベンサムがここで言っているのは、「結果」論でいいわけである。むしろ、「結果」論という「経験論」が、

  • 科学

として、実際に「計量」的に「政策決定」の質を向上する、と言っているわけである。
多くのベンサムらが主張する功利主義を批判している人たちは、彼らの主張が「演繹的」であると思っているから、その「トンデモ」を批判しているわけだが、その批判を受けている彼らにとっては、それらは、なにほどの痛手にも思っていないのは、

  • 自分の「意図(=真意)」はそれでない

というのを「確信」しているから、というわけである。つまり、彼らは、そもそも、「論理的」に話をすることに興味がないのだ。彼らは、大衆を「説得」できる論理かどうかなど、たいしたことではないと思っている。それ以上に、とにもかくにも、「自分の言っていることは正しい」という、内的な確信を重要視しているわけである。

ここでの問題は、どのようにある個人の行為が、より詳細に言えば、立法者に課されるサンクションによってどのような行為を行うように強いられることが正しく適切なのかということである。どのような行為を行うかを決定するために個人によってなされる計算と同種のものが、ここで立法者によってもなされているが、この場合には範囲という要素が加わっており、それゆえにその行為によって影響を受けるすべての人の苦痛と快楽が考慮されている。[個人内比較におけるのと]同じように順序づけがなされるだろう。個人が自分自身のことだけを考えている場合よりも問題は複雑である。しかし、どちらの場合でも計算は人間によってなされるのだから、これ以外の方法はないのである。したがって、批判に対するベンサムの回答は次のように再構成できるだろう。現に決定がなされているとすれば、それはこのような仕方でなされているに違いないのである。個人間比較が不可能であると述べることは、比較が不可能であると述べることである。現代のベンサム主義者はさらに、費用便益分析に依拠している現代の経済学の理論が、根本的には、ある種の幸福計算が実現可能なだけでなく必要不可欠であるということの実際上の証拠となっていると付け加えるかもしれない。

上記の引用はより理解しやすいのではないか。つまり、最初の引用において、「快楽一元論」主義者を自らに宣言したベンサムにとって、実際に「快楽一元論」が何を意味しているのかなど「どうでもいい」(つまり、「快楽一元論」とは「ポエム」なのだ)。そんなことよりもなによりも、彼は「政治の場における、公共政策が、具体的にどのようにすべきなのか」の有効性さえ示せればいい、と思っているわけである。
なぜ現在の経済学は費用便益分析を行うのか。それは、功利主義が「有効」だからである、と。だから、功利主義で「いい」、というわけである。
そして、このことを、さらによく示しているのが、以下である。

ケリーは、ベンサム功利主義論の分配的性格を読み解く鍵は、ベンサムの「民法」に関する一連のテクスト、とりわけ「民法典の原理」という論考にあるという。そのなかでベンサムは、立法者が権利義務の分配にあたって考慮すべき事情を以下のように述べていた。「権利と義務の分配に際して、立法者は......政治体の幸福を目的とするべきである。この幸福を更正するものについてより詳細に探究するならば、それは四つの副次的目的からなることが分かる。すなわち、生存、豊富、平等、安全である。......これらすべての項目が[個々人によって]完璧の享受されるほど、社会的幸福の総量は、とりわけ法に基づく幸福の総量は大きなものとなる」。

(小畑俊太郎「訳者解説」)

上記の主張で、ベンサムが「生存、豊富、平等、安全」を主張していたと受け取れば、このことは確かに、ジョン・ロールズの正義論と、大きな違いはないように思われるかもしれない。しかし、大事なことは、ここで言っている、「生存、豊富、平等、安全」が、最初から問題にしている、「快楽一元論」から、

  • 直接に導かれる性質のものでない

ことなのである。つまり、「生存、豊富、平等、安全」は、「快楽一元論」とは、また別の動機から考察した結果として導かれた対象と考えざるをえないし、そもそも、ベンサムはそのことを気にしているない、ということなのだ。
もちろん、「生存、豊富、平等、安全」というポイントが悪いと言っているわけではないし、むしろ、いいと思っているわけだが、それはそれとして、そのことが、「功利主義」と直接の関係がないなんじゃないか、という点を非難しているわけである(=つまり、その主張の動機の整合性の問題として)。

ケリーの言葉にしたがえば、「安全」とは、立法者が有害な行為に法的規制を課すことによって確保される「個人の不可侵の領域」である。個々人は、他者からの不当な危害の懸念がない状態ではじめて、自らの幸福追求に千年することができるであろう。しかしケリーによれば、ベンサムの「安全」の観念には単に偶発的な危害からの保護を提供するというだけで重要なのではない。それはまた、将来に関する「期待」を確立し、個々人が自らの中長期的な人生計画を構想することを可能にするという点で決定的に重要なのである。ベンサム自身の言葉を引用しよう。「私たちが行動の一般的計画を作ることができるのは、期待による。人生を構成する継続する瞬間が、孤立した独立の点のようなものではなく、全体の連続する部分となるのは、期待による。期待は、私たちの現在と将来をつなぐ鎖であり、私たちを超えて、私たちを継ぐ世代にまで届く鎖である。個人の感受性は、この鎖のすべての環に及んでいる。安全の原理は、これらすべての期待の維持を含んでいる」。こうしてベンサムにおいて、「安全」の観念は「期待」の観念と密接に結びつくことになる。ケリーが、ベンサム功利主義論の「自由主義的」な性格を析出する際に注意を促すのは、まさにこの側面である。

(小畑俊太郎「訳者解説」)

公共政策が、「将来の世代にまで続く、子孫の鎖を「考慮」して、その保全であり「安全」を求めるべき、というのは、まったくそのとおりだと思うわけだが、しかし、このことが、

から導かれる、と本気で思っているなら、どうかしてる、と言っているわけである。
掲題の本において、そもそも、功利主義者たちは、ロールズの正義論で批判された功利主義の何に反論しようとしているのか。なにが「彼らが本当に言いたいこと」なのか。どうも、そのポイントがうまく、かみあわないわけである。

論点を先取りしてしまっている示唆的な例はウィル・キムリッカによって『現代政治理論』のなか提示されている。彼は、道徳のどのような基準にとっても適切な目的は個々人を同等なものとして扱うことであるということを当然のようにみなしている。このことは一様に扱うということを意味しているわけではない。というのも、本人には何の落ち度がなくともある人が必要とすることは別の人が必要とすることよりも多いので、それ[個々人を同等なものとして扱うこと]は意味のある不平等をもたらすことがありうるからである。彼が支持している考え方は、リベラル平等主義のものである。こうして、彼はどの道徳理論が最もリベラル平等主義を推進するかという問題をめぎって議論を組み立てていく。彼が検討している道徳理論のうちの一つが功利主義であり、彼は、それがいくつかの点で平等について魅力的な説明を提示していることを認めはするけれども、平等を促進するという目的をはっきりと打ち出しているジョン・ロールズやロナルド・ドゥオーキンに結びつけられる理論を支持して功利主義を退けている。

ようするに、功利主義とは「科学」なわけである。あらゆる主張は「実験」によって、証明されなければならない。そういう意味で、たとえ、

  • 平等

についてさえ、「功利主義」的な幸福計算によって、

  • 人々が本気で平等を求めているのかどうかを「計算」しなければ、それを「正しい」とは認められない

と言っているわけである。つまり、功利主義者は、大変に「真面目」な科学者だ、ということになるであろう。
しかし、さっきから言っているように、政治は「哲学」なのか? つまり、政治は「真実」なのか? そうではなく、政治とは「決断」のことではなかったのか。まだ、だれも人類が体験していない未来に向けて、一人一人が決断するなにかを言っているのではなかったのか。

さらにロールズによれば、功利主義において社会全体の欲求の総量を最大化する過程で重要な役割を果たすのが、「理想的な立法者」あるいは「荒廃な観察者」の想定であるという。「公平な観察者」とは、卓越した「共感」の能力を備えた架空の理想的人物である。功利主義においては、「すべての人びとの欲求を組織化して欲求の整合的なシステムをつくりだすことが求められており、この観察者こそがその要求を実行すると見なされている」。「公平な観察者」は、その卓越した「共感」の能力を通じて、あたかも計算能力に長けた合理的個人が自分自身の欲求の最大化のために欲求を整序し、効率的に取捨選択していくのと同様に、社会全体の欲求の最大化のために個々人の欲求を整序し、効率的に取捨選択していく。個々人は本来異なる価値観を持った別個独立の存在であるにもかかわらず、観察者が社会全体の欲求を実現するこの過程において、「溶かし込まれてひとりの人間へと融合されてしまう」。すなわち、個々人の異なる欲求の体系は一人の卓越した共感能力を備えた合理的人間の欲求の体系へと一体化されることになる。したがってロールズによれば、「功利主義は諸個人の間の差異を真剣に受け止めていない」のである。

(小畑俊太郎「訳者解説」)

「計算できる」ということは、その事象についての「情報」が集まっていることを示しているであろう。だから、「計算」という作業が適合する。ところが、そういった情報が手元にないとき、功利主義者(=自称エリート)は、

  • 自らの「共感」能力

によって、「最大多数の最大幸福」を計算する、と言うわけだ。そして、こういうやつに限って、一方において、原発を田舎に置いて、

  • 田舎に人なんか住まないで、みんな、東京に住めばいいのに

みたいなことを言っておいて(「最大多数の最大幸福」のためなら、田舎を人の住めないところにしてでも、東京さえ助かればいい、と)、他方において、

  • 福島を助けたい

とか言うわけである。しまいには、エリートの「共感能力」によって、国民全員が「動物」であることが、「低能」であることが、国民全員にとっての「幸せ」なんだと「証明」したとか言い始めて、国民全員をドラック漬けにすることが、「最大多数の最大幸福」とか言い始めかねない。ロールズが言っているのは、そういう意味での、

  • エリートたちの「非共感能力」への「人間的」恐怖

なのではないか(むしろ、共感能力が「やっかい」だと権力者たちが理解しているからこそ、その共感能力を「乗り越えて」でも、政治的行動を遂行できるエリートが厚遇される、というわけである orz)。それは、広島・長崎に原爆を落としておきながら、そのことを、平気で「正義」と語るアメリカ政府への不信感であったのであろうし、今の日本で平気で、原発再稼働賛成を語る連中の

  • 非人間的な怖さ

ということになるのかもしれない...。

ベンサム―功利主義入門

ベンサム―功利主義入門