井上勝生『明治日本の植民地支配』

私には、日本と韓国の関係を考えるときに、非常におかしいと思うことは、ようするに、日本の知識人が、この二つの国の歴史について

  • 語らない

ことなんじゃないのか、と思うようになった。
特にひどいのが、自称ポストモダン相対主義者が歴史を「不可知論」と言って、真面目に向き合おうとしない姿勢をみて、こういう連中がいずれ、現代思想を「新しい歴史教科書を作る会」のようなものの「亜流」として合流して、「自虐史観」とか言い始めるんだろうな、という未来を予感させるものであった。
しかし、そういった政治の流れは、石原元都知事から猪瀬さんになり、彼らと大阪の橋下市長がくっつき、日本維新の会となり、ここに

が、ここを中心に結集してきたことで、日本の政治の流れは、一つの極点をきわめたと言えるのであろう(現代思想を、こういった連中の「御用哲学」へと変貌させようとした、こういった連中が、今後、どういった政治的運動を始めるか、恐しいが、注意していく必要があるだろう)。
以前、閔妃殺害を詳しく追った本を紹介したことがあるが、その内容は、かなりショッキングなもであったのを覚えている。

王后が殺害されるや女待医が前に近寄りハンカチで亡き王后の顔を覆った。そして亡骸は林の中で火葬にして、燃え残った灰の一部は土に埋め、残りはすぐかたわらの香遠池または近所の井戸に捨てられた。そして、その他の亡骸は宮闕の外に写されたという。
一方、浪人の輩は宮女と世子イチョクに強圧をかけ王后の亡骸を再確認させたが、この過程の直前に酒に酔った彼らが亡骸を陵辱するような蛮行をためらわなかったようだ。王宮侵入の前に酩酊した浪人の輩たちは自分たちの目的を成就したあと喜びで暴れ、このような天人共に許し得ない行動の一幕があったのではないかと考えられる。

閔妃(ミンビ)は誰に殺されたのか―見えざる日露戦争の序曲

閔妃(ミンビ)は誰に殺されたのか―見えざる日露戦争の序曲

当時から、国民は国にさまざまな不満をもっていたとしても、少なくともはっきりしていることは、日本のかなり政府とも近いと思われる民間人(=右翼でありヤクザ)が、韓国の女王を殺し遺体を陵辱し、その後、焼いた、というような、かなり

  • 残虐

な殺し方をしている、ということなんですね。そして、この後、朝鮮国民による、日帝支配に対する、強烈な

が、終戦まで続くわけですが、もしも、ですよ。あなたなら、考えてみてください。自分の国の女王様に、このような仕打ちをされて、黙って受け入れられるでしょうか。当然、抵抗をするんじゃないですかね。それも、相当の怒りをもって。それが人情というものじゃないでしょうか。
そして、その最初の抵抗運動として、残虐な殺戮が行われたのが、一般に東学農民戦争と呼ばれている事件です。

防衛研究所図書館にある仁川兵站監の「陣中日誌」から、大本営が東学農民軍を「ことごとく殺戮せよ」という皆殺しの命令を出していたことを発見したのは、在日の研究者、朴宗根(パクチョングン)さんである[朴宗根一九八二]。
この川上兵站総監の命令は、日本軍の農民軍討伐の様相を一変させた。
命令は、「陣中日誌」一〇月二七日条に、次のように記されている。

川上兵站総監より電報あり、東学党に対する処置は、厳烈なるを要す。向後、悉(ことごと)殺戮すべしと。

東学農民に厳しく烈しく対処せよ、向後、つまり今からは、ことごとく殺戮しなければならない、という大本営命令であった。

よく考えてください。いっぱしの軍隊が「皆殺しにしろ」と言っているわけです。つまり、東学農民を一人残らず殺せ、と言っているわけです。軍隊が、そう命令されているんですよ。

  • 一人残らず殺せ

と命令された軍隊というのは、どうなるでしょうか。本当に、一人残らず、いなくなるまで、「徹底」して殺すんですよ。大事なことは、軍隊というのは、

  • そういう能力のある集団

なんです。日本で理解されていないのは、東学農民って、蜂起した朝鮮国民ほとんどですからね。つまり、ほとんど、民間人なわけでしょう。東学って、ただの当時の朝鮮における、民間思想でしかない。ほとんどが、普通の農民だったわけでしょう。
こういった、ほぼ民間人の集団を相手に、日本の軍隊は、完全な

  • ジェノサイド

を実行した、ということなんですね(この「一人残らず」という点において、ナチスユダヤ人虐殺とも匹敵するような、「ジェノサイド(=集団浄化)」っぷり、なわけでしょう)。
しかし、ここで疑問がわいてくる。
日本の軍人の数など、たかがしれていたであろう。そんな人数で、なぜそこまでの虐殺が可能であったのか。

日本軍は、確立した用法を持っており、「四〇〇メートル」に引きつけて、東学農民軍に一斉射撃をするのを常にしていた。火縄銃やゲベール銃の球形弾の有効射程距離は一〇〇メートル以内。銃口から無回転で飛び出す球形弾は、どんなに威力を与えようとしても、野球のフォークボールで分かるように、自在に曲がってしまう。一方、ライフル銃の長円弾は、銃身内部のライフル(らせん)でジャイロ回転を与えられ、正確に直進し、激しく回転する弾丸が殺傷力を増した。こうして世界の歩兵戦に大変革が起きた。世界中の非欧米の民族は、こういう軍事力格差によって負けた。農民軍に内部の格別の弱さがあたのではないのである。

日本の東アジアにおける、終戦までの戦いは、まず、これである。欧米の軍事技術を、いちはやく、盗んで、まだ、その技術を吸収していない、技術のつりあわない人たちを、技術の差によって、次々と、戦局を有利に展開して進める。
しかし、である。
よく考えてみよう。いずれ、技術は追い付かれる。なぜなら、自分たち自身が他人のパクリだからだ。そして、そうやって追い付かれたとき、今度は、

  • 以前の「非人道的」な「虐殺」

が問題化してくるわけである。なぜ、日帝は、あそこまで、東学農民を皆殺しにしたのか。その、あまりにもの徹底ぶり、虐殺ぶりが、残虐であればあるほど、朝鮮の大衆の怨念となって、いつまでも、くすぶり続けるわけである。
ところが、である。他方における、日本では、そのことをどう受けとめているのか。なんにも受けとめてなんかいない。なぜか。知らないから。というか、歴史を改竄して、忘れさせているから。

この討伐作戦の犠牲者は、その後の植民地時代の義兵闘争や三・一独立運動の犠牲者をしのいでいた。概略が隠蔽した要因は、この最後の一ヶ月の掃討作戦の、徹底した凄惨さにある。作戦では、日本軍は直接大量殺戮に手を下した。作戦は、いかに弁解されようとも、不法、非道なものであった。そのために、『日清戦史』「日清戦暦」作成の際に、三路包囲討滅作戦の最終段階だけではなく、東学農民軍討滅作戦全体が削除されたのである。
「日清戦暦」から討滅作戦全体が削除され、その後も殲滅作戦は存在しなかったことにされた。そうすれば、東学農民軍討滅作戦も、連山の戦いの戦死者も、存在してはならないのである。こうして、その後一九三五年刊行の『靖国神社忠魂歴史 一巻』で、東学農民軍討滅作戦の戦死者杉野虎吉は、連山の戦いとは無関係な、成歓の戦いの戦死者に改竄されたのである。

まあ。実際に、「正史」から、無くされたら、学びようがないでしょうなあ。当然、一般庶民が、その事実を知りようがない。他国で、行われた、現地に軍人以外の日本人がいなかったとするなら、その情報が、庶民の民間伝承として、伝わりようもないですよね。実際、軍人は、外地での体験を戦後も語らなかったように、ほとんど、その後の歴史で、伝わっていない。
伝わらなければ、どんどん、日本国民は、歴史を知らずに、素朴、純朴になっていきますわねえ。そりゃあ、そうでしょうねえ。

とはいえ、あの戦争で世界が変わらなかったかといえば、そんなことは無い。というのは、あの戦争には二つの側面があったからである。その一つは、日本がアジアの盟主になろうとの野望を抱いて行った戦争であり、もう一つは、日本が西欧植民地主義の否定として行った戦争であった。あの戦争が、後者の側面を持っていたことを象徴しているのが、インドネシアにおいて、戦後、宗主国として戻ろうとしたオランダに対して行われた独立戦争に多くの元日本軍将兵が参加して戦死し、独立の英霊として祭られていることである。実は、中国大陸においても、戦後、毛沢東の紅軍に参加して中華人民共和国の建国に貢献した元日本軍兵士が相当数に上った。ちなみに、インドの独立も日本が西欧植民地主義の否定として行ったあの戦争が無ければ、あの時点では無かったといえよう。少なくとも、一般の国民はその感覚で、あの戦争を戦ったのであった。

なんというか。歴史が引き継がれないので、どんなに残虐な出来事があっても、その事実を反省して、次に進むという形をとらずに、その時代時代の、「かけ声」であり、スローガンで、純朴な大衆は動いていく。だから、エリートたちは、大衆を「建前」で扇動しているつもりだったんだけど、大衆一人一人は、「マジ」で、上記のように、

  • アジアの義憤

に突き動かされて、日本人は、世界中で「正義」のために戦った。
しかしね。
歴史は知った方がいいですよ。どんなに、その動機が純粋でも、「知る」ことなしに、他人に理解してもらえると思うことの方が、傲慢ですよね。

解放六五年が過ぎた韓国では、国をあげていわゆる「過去の負の遺産」を清算する作業を断行しました。
たとえば一九七〇年代、朴正煕大統領の軍事政権時代に起きた拷問事件や疑問死事件が再調査の対象になったり、一九六五年の日韓協定の文書が公開されたりして、当時の政府が何を誤ったかがはっきり分かっています。一八九四年の東学農民革命のことはもちろん、植民地時代の強制連行のことや慰安婦の問題も、真相糾明の対象になり、調査が行われ、その被害者に対して補償もしております。
また、この「過去の負の遺産」の清算の問題の一つとして、朝鮮戦争のさいの「民間人虐殺」の問題もあります。これは、「光州事件」のように自国の軍隊が一般市民を虐殺した、重大な戦争犯罪です。
今、韓国の人々は、自国の軍隊が犯した戦争犯罪の真相を解明し、真の意味の「過去の負の清算」を克服するためにたたかっています。研究者たちも、ジェノサイド学会をつくり、真相糾明に協力しています。私たち韓国人は、平和と共生への思いを持って自国の恥を明らかにし、不幸であった歴史を明らかにしようと努めております。しかしまだ課題は多く残っています。日本では、どうなっておりますか。
自国の恥、「過去の負の遺産」は、自国の人によって清算されるのが一番望ましいと思います。戦後六五年が過ぎた今日、日本の各地から、「過去の負の遺産」を清算しようとする運動がますます高まってゆくことを願っています。
(朴孟洙「東学農民革命と現代韓国」)

東学農民戦争と日本

東学農民戦争と日本

韓国における、「過去の負の遺産」の清算とは、日本では理解されていないけど、上記にあるように、別に、日本だけを問題にしているわけじゃないんですね。自国内の「悪」を含めて、全てをとりあげているわけなんですよね。
日本だって、北海道の植民地の歴史から、特高による、市民への仕打ちに始まり、大地主による、小作人への無理な仕打ちなどもあったのではないだろう。そういったこと、すべての「悪」の

  • 総括

をなぜ、日本人はやろうとしないのか。日本には、どこか「恩讐の彼方」になにもかも、もっていって、水に流したがる傾向があるように思われる。しかし、本当にそれでいいのか。そんなことで、未来志向の生き方が可能なのだろうか。隣国の人たちに、理解してもらえるのだろうか。
本来なら、この日本をひっぱっていくはずの、知識人自体が、こういった議論から逃げている現状において、日本の内向きの未来は、厳しい印象しか受けないわけですねえ...。

明治日本の植民地支配――北海道から朝鮮へ (岩波現代全書)

明治日本の植民地支配――北海道から朝鮮へ (岩波現代全書)