福島安全マッチョ

私は昔から、あのプロテインとベンチプレスで、筋肉隆々にして、日焼けサロンで黒々にした、ボディビルダーが見るだけで、気持ち悪くて、吐き気がする。私が彼らを気味悪がるのは、彼らの筋肉量が、常人より多いからではなく、あの

  • 人工的に作った(つまり、毎日ナルシスティックに「自分」に見とれ続けて)

「そういう形になるまで」作り続けた、彼らの、その視線が気持ち悪いのだ。そういう意味では、彼らの目は、

  • 子供のように純粋な目

をして自分の筋肉を眺めている。
しかし、ね。
私には、もっと、これ以上に何倍も、気持ち悪い連中がいる。それが、「脳味噌筋肉ビルダー」こと、高学歴連中ということになるだろう。
彼らがもっと「異常」なのは、幼い頃から、塾などに通い、夜遅くまで、教科書を暗記して、「脳味噌筋肉」の

  • 隆々っぷり

をナルシスティックに、眺め続けて、その

  • 純粋な子供っぽい目つき

のまま、体だけ大人になったのが、そういった学力優秀者だと思うと、私にはもう、そういう視点でしか、彼らを見れなくなる。
私たちは、「比喩」としての想像力が求められているわけである。想像してみてください。
彼らの「脳味噌」の自慢っぷりを、「そのまま」、その脳味噌を「筋肉」に変換するわけです。そうすると、どんなふうに見えてくるでしょうか。その脳味噌が、ボディビルダーの筋肉のあの黒々として、ピクピクと痙攣している、あの、いかにも「人工的な筋肉」に

  • 変換

されているところを想像するわけです。どうして、こういった作業が大切なのでしょうか。それは、彼らが無上の価値とする、「脳味噌」が、結局のとろ、

だからです。つまり、そんなものばかり「肥大化」した人間は、たんにグロテスクなだけでなく、存在そのものが、他人に吐き気をもよおさせる、ということです。
それは、橋下大阪市長が、「戦争」に従軍慰安婦は必要だと、

  • 子供のような純粋な目

で、嬉々として話し始める

で、女性に甘えたような声をだす、その「純情さ」が、裏返せば、「女を自分の自由にする」ことへの「欲望」を、まるで子供のように

  • 解放

した、「戦場ならレイプができる」と言っているのと変わらない、その「楽しさ」「喜び」を全身で表している

  • マッチョ男

たちへの、生理的な「嫌悪」が私には、どうしての抜けない、ということです。
どうも彼らは、「東大なんかに入ったら、どこか異常なんじゃないか、恥ずかしくて人前に出られないんじゃないか」と考える、世間一般の大衆の「常識」を共有しない、どこか「勘違い」しちゃった連中ということになるのでしょうか。ボディビルダーが、こぶのようにもりあがり、ぴくぴくさせている筋肉に「自己陶酔」しているように、歴史の年号をいくつ暗記しているのかを

  • ぴくぴく

して話し始めるこの連中の、プロテインの飲みすぎで、日焼けサロンで筋肉を黒こげにして、その

  • 姿

を自分で眺めて自分で見惚れている、その姿、くりくりした眼で、歴史の年号を答える、その「ベビーフェイス」な「純情」さが、戦争に慰安婦は「必要」と嬉々として答えているときの橋下市長の「ベビーフェイス」の

  • 生き生きさ

と重なって、どうしようもない、生理的な拒絶の感情、吐き気がこみあげてくる。
私は日本における学校優等生というものの「異常」さは、そもそも、教科書が「国定」教科書であるところにあると思っている。つまり、これは学問がどうのこうのではなく、国の役人が「こうしろ」と言った、監督された内容なのだ。つまり、国の役人に「お前ら、これを暗記しろ」と言われた内容だということである。そう考えるなら、それを嬉々として暗記している連中は、その内容が学問的に重要かどうかと関係なく、

  • 政府の言う通りに行動したい

という動機が隠れ見えてくる。どうでもいい歴史の年号を暗記して、ボディビルダーのように「ぴくぴく」させている連中の「自己陶酔」の気持ち悪さは、

  • なんでも国の言う通りに振る舞いたい

という、彼らの「飼い犬のように社会の強者を見極め、最強の存在だけに尻尾を振る」その「作法」の気持ち悪さ、だと言ってもいいであろう。
あるブログで、「グローバルマッチョ」という言葉を紹介していました。これは、その「グローバル版」ということになります。しかし、その「評価」は、相変わらず、国内「序列」を基本にしています。というのは、ようするに、国家が「これからはグローバルの時代だ」と言ってるのを、口パクしているだけだからです。彼らの脳内変換では、グローバルな序列は、そのまま、国内における「序列」となるわけですから、へたれな犬が、自分より序列の低い人たちの前で偉そうに振る舞いたいのと同じように、グローバルマッチョは国内での序列の上位に位置するために、グローバル「序列」を使う、ということを意味しているわけです。
福島安全マッチョたちの理屈も同様です。まず、国家が福島県民に、福島県で住むことを許しています。つまり、福島県で住んでいいと日本国家が言っているという事実自体が、

  • 福島県は安全でなければならない

というインプリケーションとなります。つまり、国家が、まるで、教科書に「答え」を決めて書けと「命令」したかのように、国家が「福島県に人々は住んでもいい」と命令したことで、

  • 福島県は安全でなければならない

と、「この問題の国家認定の答えが決定した」ということなわけである。国が住んでいいと言っているということは、どんな結果が起きようが、もう国はそれによってもたらされる一切の障害の「賠償」を受けつけない、と決定している、ということを意味します。安全だと国が決めたのだから、そこで何が起きようと、

  • 国家の責任じゃない

ということなのです。彼ら高学歴エリートは、多くの経産省の役人に友達をもち、東電の社員に友達をもち、彼らから「レクチャー」を受けた理屈を、死ぬまで「口パク」します。
もし福島が「安全」なら、まず、除染の必要がない、ということになります。これで多くのお金を使わずにすみます。次に、福島県民にどんな病気があらわれても、どんな症状がでても、それは

と「主張しなければならない」ということになります。だって、「福島は安全」だと、すでに答が決定しているのですから。こうなることで、どうなるかというと、

  • 国家や東電が福島県民に賠償しなければならない金額を最小化できる

というわけです。これが彼ら流の、

  • 国家へのご奉仕

です。国民への賠償を最小化することで、国家の損失を最小限に抑えた、ということで、「国家からの評価を喜ぶ」連中だということです。しまいに、この連中は、国家から叙勲されて、この世に生まれてきた意味に満足して死んでいくのでしょう。
しかし、国家の損失を最小化したということは、逆に、国民の損失を

  • 最大化

したことと同値ですからね。彼らこそ、恐しい、市民の「敵(てき)」だとうことなんですが orz。
普通の人間の感覚をもっているなら、福島県に住んでいない人間が、福島が安全なんて、絶対に口にしてはいけない。それは倫理に反している。福島に自分が居住可能かどうかを判断するのは

  • その人

でなければならない。もし他人が「福島は安全」と言った途端に、その人は福島県から他県に引っ越すということを言いづらくなる。

が強くなって、福島に住んでいる人たちにプレッシャーを与える。これは、別に福島県だけに限ったことじゃない。他の原発のある県に住んでいても、同じだ。
大事なことは、福島安全マッチョと原発再稼働派が一致することだ。つまり、彼らは「福島は安全」と言いつのることで、日本の原発を稼働し続けたいのだ。彼らの関心は、原発の「維持」だということである。
本当に「福島は安全」を言い続けたいのなら、家族と一緒に、福島県に移住して、何年もそこに住む覚悟をすべきだ。そういう覚悟のない連中の

  • 安全宣言

こそ、他人を同調圧力で自由に思ったことを発言しにくくする危険な運動なのであって、なんとかそういった連中を倫理的に追求していきたいのだが、そもそも彼らは、福島県民より自分の原発「愛」を優先している人たちですから、その福島の一人一人の人がどうなるかを押しのけて、放射能マッチョという

  • 筋肉のピクピク

を愛しちゃってるナルシストに、さて。どんな説得が通用するのか orz。