田崎晴明『やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識』

私たちが、3・11以降、さまざまに聞かされていた「原子力」なるものが、具体的になんなのか、というのは、ある意味、高校の物理のおさらいでもあるわけだが、一つだけはっきりしていることは、

  • 非常に大きな違和感

を、どうしても残す、ということである。それは、ここで言っている「原子力」なるものが、ほぼ、私たちの身の回りにある「現象」と「異質」だからであろう。つまり、そういった異質のものであり、よく分からないものであるにもかかわらず、日常の「安心」で「計測」しようとするから、どうも何を言っているのか分からない、奇妙な「すれ違い」が浮んでくる。ところが、そもそも、私たちは日常の多くの「常識」をそれとして意識して生きているわけではない。体が勝手に反応していた、というように、多くの場合は、過去から生きてきた私たちの「慣習」によって、無意識に判断して、行動している。ところが「やっかい」なことに「原子力」は、そういった

  • 常識

では測れない、むしろ、常識で測ったら、必ず「間違う」ような性質であるところが、その特徴だというのである。
こういった性質を表す、私たちが昔から使ってきたような「概念」として、なにがあるのだろうか、と考えてみると、例えば、「絶対善」や「絶対悪」というものが似ているのかもしれない。
なぜなら、「絶対善」や「絶対悪」とは、「私たち人間の日常の慣習的な作法」と

  • なんの関係もなく(=交わりもせず)

「善」であったり「悪」であったり、という対象だからだ。つまり、人間を「超えている」存在だということである。また、こういった感覚の原初的なものとしては、

  • 異文化の民族

への感覚があるだろう。異文化の特徴は、私たちとはまったく違った「慣習」を生きている人たち、ということで、私たちには、彼らの慣習を、自らの価値尺度で測れない。つまり、

  • 絶対的

なまでの「彼ら」との遠さを意味している。私たちは、彼らの慣習を共有していない、彼らを「血肉化」していないのだ。

炎が燃え上がっても「ビクともしない」原子核にも、実は「中身」がある。原子核は、陽子、中性子と呼ばれる粒子が、核力という強い力で結びつけらてできた塊なのだ(図2.3)。
原子核を作っている陽子と中性子の個数がわかれば、その原子核の種類がわかる。陽子と中性子の個数の合計を質量数と呼ぶ。陽子の個数が(その原子核を含む原子の)原子番号である。

好き勝手な個数の陽子と中性子を集めてやれば、それで原子核ができるというわけではない。陽子と中性子のあいだに働く力がうまくつり合って、ちゃんと原子核ができるためには、陽子と中性子の個数が上手にバランスしていなくてはならないのだ。
たとえば、陽子 55 個と中性子 78 個からできているセシウム133とそういう原子核では、陽子と中性子の個数がちょうどバランスしている。そのため、セシウム133はしっかりとした安定な原子核である。
同じセシウム原子核でも、安定なセシウム133に比べると中性子の個数がずれてしまった原子核もある。すぐ上に登場したセシウム137の原子核は、陽子55個と中性子82個からできている。セシウムだから陽子は55個と決まっているのだが、セシウム133に比べて中性子が4個多い。実は、この原子核原子力発電の副産物として作られる。
このように(バランスした状態に比べて)中性子が多すぎる原子核は「不安定」である。どういうことかと言うと、セシウム137も、しばらくは自分の姿を保っていられるのだが、ある程度の時間が経つと、やはり自分はバランスが崩れていることを自覚してしまう。けっきょくは「だめだぁ~」という感じであきらめて、バリウム137という安定な原子核に姿を変えてしまうのだ(図2.4)。
こうやって不安定な原子核が別の原子核に変わってしまうことを崩壊と言う。不安定な原子核が崩壊すると、最終的には、安定な原子核へと変化する。すぐ後で説明するが、原子核の崩壊の後には放射線が外に飛び出てくる。つまり、原子の中心でずっしりと構えていた「ビクともしない」原子核も、実は、変化することがあるということだ。これは、20世紀前半の実に驚くべき発見の一つだった。

私たちが日常、慣れ親しんでいる「常識」の自然の反応は、この本では、

  • 化学反応

と呼ばれている。この反応の場合、そもそも、原子核には、なんの「変化」も起きない。つまり、私たちが生きてきて、常識的に知識を身につけてきた「自然」とは、原子核が変わらないもののことだった、ということである。
では、この二つの物理現象には、どのような違いがあるのか、見ていこう。

たとえば、ガンマ線外部被曝に話を限ると、1 Sv の被曝で体が受けるエネルギーは、体重1kg あたり約 1 J(1ジュール)に過ぎない。これは、なんと、たった 10 cm の高さから飛び降りたときに体全体が受けるエネルギーと同程度なのだ。ぼくらは 10 cm の高さから飛び降りた程度で具合が悪くなったりはしない。それなのに、放射線を 1 Sv 被曝すると嘔吐してしまうのだ。
これも、放射線には普通の常識が通用しない典型的な例だ。こんな妙なことがおきるのは、エネルギーの大小を比べるときに、どのレベルで考えるかによって話が大きく変わるからなのだ。大きな視点に立って放射線の全体のエネルギーを見てやれば、上に書いたように、1 Sv の被曝のエネルギーはとても小さい。一方、小さな視点に立って、原子・分子・素粒子のエネルギーを見てやると、ガンマ線のもとになっている光子のエネルギーは、化学反応に関わるエネルギーに比べて、桁違いに大きい。これが、放射線がぼくたちの体に「非常識」な影響を与える根本の原因なのだ。

一見すると、なんだ、放射線って、たいして、大きなエネルギーじゃないじゃないか、と思う。10センチの高さから飛び降りた程度のエネルギーだったら、なんとでもなる、と思いがちだ。ところが、そのエネルギーは

  • どこ

の話をしているのか、と考えると、むしろ、この話は「桁違いに大きい」ということが分かってくる。むしろ、

  • 大きすぎて異常すぎて「普通の感覚ではおかしくなってしまう」

というくらいに「大きすぎる」というわけである。

2.1節で、水素分子2個と酸素分子1個が反応すると約 5 eV(電子ボルト)の熱が出てくることを見た。これは数多くの化学反応の一例に過ぎないが、一般の化学反応でも、もちろん熱(正確にはエネルギー)の出入りがある。さらに、出入りするエネルギーの大小は反応によってまちまちだが、どれとっても、だいたい、数十 eV とか、数分の1 eV(電子ボルト)の単位で測って「まともな値」になる大きさなのだ。
一方、放射性のセシウム 137 が1個だけ崩壊するとき、約60万 eV のエネルギーの光子(ガンマ線)と約20万 eV のエネルギーの電子(ベータ線)が飛び出してくることを見た。つまり、セシウム 137 の崩壊の際には数十万 eV 程度のエネルギーが放射線として放出される。
他の不安定な原子核の崩壊の場合も事情はほとんど同じで、やはり、数十万から百万 eV くらいのエネルギーが外に出てくる。あるいは、大きな原子核が分裂する核分裂反応では何億 eV ものエネルギーが出る(3.1節を見よ)。
一般に、原子核が変化するときには、百万 eV あるいはそれ異常のエネルギーが出入りするということだ。化学反応に伴うエネルギーの出入りに比べると、桁違いに大きなエネルギーが関わっているのである。
2.1 節でも書いたように、ぼくたちの身のまわりでは様々な化学反応がおきている。ぼくら生き物も化学反応で生きている。
人類の場合、歴史のある段階から火を使いこなして暮らしを役立てるようになった。それ以来、人類は多くの化学反応を「てなづけて」利用してきた。そういう意味で、人類と化学反応の付き合いの歴史はとても長く、人類は化学反応についてはかなりしっかりした常識を持っている。裏返して言えば、ぼくたち人類の物質世界についての常識は、ほとんど化学反応から学んだものなのだ。
しかし、このような常識は原子核が変化する現象にはまったく通用しない。化学反応に伴うエネルギーと比べて、原子核の変化に伴うエネルギーが何百万倍、何千万倍と桁違いに大きいからだ。関与しているエネルギーの大きさは、現象の「生じやすさ」を決めるもっとも大事な鍵になる。化学反応と原子核の変化では、生じ方が根本的に違うというのは、疑う余地のない事実なのだ。
化学反応での常識が通用しない例は、放射性物質の崩壊だ。2.3節で、放射性物質の量が半減期の法則に従って徐々に減っていくということを説明した。この説明にさらに付け加えるべきなのは、このような放射性物質の減り方を人工的にコントロールするのはほとんど不可能ということだ。
直感的に考えて、たとえば、放射性物質をガンガン冷やしてやれば崩壊が止まるのではないかとか、温度をものすごく高くすれば崩壊が早まって素早く分解できるのではないかといった疑問を感じた人は少なくないだろう。あるいは、うまい薬品や微生物を使うことで、放射性物質を無害にできないかというアイディアもあっただろう。しかし、このような方法では決してうまくいかない。なぜなら、「温度を変えれば反応の速さが変わる」、「適切な薬品(触媒)で反応が制御できることがある」、「微生物が反応を促進することがある」といった「常識」、いずれも化学反応についての膨大な経験から学んだものだからだ。化学反応についてならこれらは正しい。しかし、何百万倍のエネルギーが関与する原子核の変化には、まったく当てはまらないのだ。
だから、煮沸消毒しても、焼却炉で燃やしても、微生物に食べさせても、放射性物質を分解して無害な物質に変えることはできない。放射性物質が自分で勝手に崩壊してくれるのを待つしかない。それだからこそ、放射性物質は「やっかい」なのだ。

上記の指摘は、あらためて考えると「驚くべき」話である。煮沸消毒も焼却炉も微生物も「通用」しない。子供同士のケンカで相手のパンチを「効かない」とか言って、強がっている、その強がりが

  • マジ

の世界だというわけである(こういう意味で、私が上記で「絶対善」とか「絶対悪」の一種と言ったわけである)。
この原子核の変化の「物理学」において、

  • 大量のエネルギー

が放出される。そして、そのエネルギーの放出の過程は、その物質によって決まっている。それが「半減期」というもので、「驚くべき」ことに、私たち人間には、この崩壊過程に「一切の抵抗は無効」なのだ。30年周期のセシウムの崩壊を、半月を終わらせたい、と言っても、そんな方法はない。きっちり、統計的に30年の半減期をかけて、エネルギーを放出していきながら、崩壊過程を完遂するわけである。
もちろん、周辺環境に、なんの影響も与えないで、勝手に崩壊してくれるのなら、だれも文句を言わないだろう。いつの間にか、勝手に違うものに変わってくれればいい、ってものだ。ところが、困ったことに、この変化の間、

  • 大量のエネルギー

が、少しずつ少しずつ吐き出しながら、崩壊する。問題は、このエネルギーが、さまざまに周辺の物質に「変化」を与える。

放射線が物質に入ると次のようにして電離作用をおこす。放射線は、物質中をしばらく進んだところで、物質をつくっている原子に衝突する(どれくらいの距離を進むかは、放射線の種類と物質の種類の密度でだいたい決まる)。放射線はきわめて高いエネルギーを持っているので、衝突された原子からは、(それまで原子核のまわりをまわっていた)電子が勢いよく飛び出す。このため、衝突された原子を含む分子は(それまで電気的に中性だったとすると)電荷を帯びる。これが電離作用だ。
電荷を帯びると分子の化学的性質が変わるので、多くの場合、その分子はまりの物質と激しく反応する。一本の放射線(つまり一つの高エネルギーの粒子)が物質に入ったとき、放射線が通った道に沿って、多くの分子が電離される。

これが、崩壊のエネルギーが「大きすぎる」という時の意味である。上記で水素と酸素の反応で生まれるエネルギーといっても、たがだか限られた大きさでしかなかった。ところが、放射性物質では、この何百倍のエネルギーを、

  • この大きさのレベル

で、発生させる。つまり、この物質の単位のレベルとしては、「桁違い」に大きなエネルギーだということである。こんな大きなエネルギーを、この単位のミクロの世界での「関係」で受けてしまうということは、そのミクロの先々にある、その単位の物質になんらかの「影響」を与えてしまう。
私たちは、ここで「なぜミクロの話がそれほど重要なのか」と思うかもしれない。それは、上記の10センチの高さから飛び降りることを考えれば、なんだこの程度と言いたくなるかもしれない。
しかし、そういうことではないのである。例えば、放射性同位体セシウムが体内に入るということは、その無数のセシウムが体内のそこかしこに入るということである。ある意味、「あらゆる」細胞の各所に量の大小があるとしてさえ、入るとさえ、言えないこともない。
つまり、放射性セシウムと人体の戦いは、

  • 人体内の「あらゆる」場所

で行われている、とも言えるわけである。

細胞の中の生体分子で、壊れることが特に問題になるのはDNA(デオキシリボ核酸)だ。DNAとは、ぼくら生き物の「設計図」の役割を果たしている大きな分子である(図4.5を見よ)。ぼくらが祖先から受け継いだ「遺伝情報」がDNAにたくわえられていることを知っている人は多いだろう。けれど、DNAは親からの遺伝を受け継ぐためだけに使うのではない。体の中で、様々な役割を果たすタンパク質を合成したり、新しく細胞をつくったりするときには、いつでもDNAに書き込まれた情報を使うのだ。DNAは、ぼくらが生き続けていくかぎりつねに必要な「設計図」と言うことができる。そのDNAが放射線によって切断されること、特に、DNAの二本の鎖がまとめて切断されてしまうことが、癌の一つの要因になると考えられている。
DNAが切断されるといっても、それほど怖がる必要はない。実は、ぼくたちの体の中でDNAが切断されるというのは日常茶飯事なのだ。ぼくたちは生きていくために体の中で酸素を使うわけだけれど、そのときに、副産物として活性酸素というものができてします。この活性酸素は困りもので、DNAに出会うと反応して切断してしまうのだ。
そこで、生物は、傷ついたDNAを治すためのしかけをちゃんと持っている。DNAは設計図だから、単にちぎれたDNAをくっつけるだけでは修理したことにならない。書き込まれていた情報も正しく元通りに戻さなくてはいけないのだ。DNAの修復メカニズムはものすごく発達していて、生物は驚くほど巧妙な方法をいろいろと組み合わせて、DNAについた傷をどんどん治しているのだ。
さらには、DNAがどうしても修復できないくらい壊れてしまったときには、その細胞を「廃棄処分」にしようと決めて殺してしまう仕掛け(アポトーシス)もある(ぼくらの体の中でおきていることは、知れば知るほど、ものすごく面白い)。ちなみに短時間に大量被曝したときすぐに健康影響が出るのは、被曝によって多くの細胞がアポトーシスをおこすからだ。「10 cmの高さから飛び降りた程度のエネルギー」で人が嘔吐してしまうのは、こういう仕組みだったのだ。
しかし、そうやって巧みに修理していっても、ごくごくまれに、DNAがちゃんと修理されていないままの細胞が「廃棄処分」されずにあとに残ってしまうことがある。そういう細胞は微妙にまちがった「設計図」を持っていることになる。
長い時間が経ったあとで、まちがった「設計図」を持った細胞が「暴走」を始めることがある。普通の細胞は必要になった時にだけ細胞分裂して増えるのだが、「暴走」を始めた細胞は無節操にひたすら細胞分裂して増えていく。これが、癌だ。

人間など、地球上の生物においては、上記の反応の最も大きく影響を受ける場所がDNAということである。なぜなら、DNAは人間の体内においても、非常に大きな分子であるからだ。
上記で、人間における、「修復」と「廃棄」の、メカニズムが記述されている。そして、そういったメカニズムの「エラー」として、

  • 暴走

つまり、「癌」という生物における現象を説明している。
しかし、私には、この「説明」に直面して、大きな「違和感」を感じる。つまり、これ以降のこの本が、一体、何が言いたいのかが、よく分からなくなる印象を受けた。
というのは、ここまでの間は、あくまでも、

  • 物理学

の話が書かれていた。原子崩壊も「電離現象」も、物理学であり、化学の話だった。ところが、急に、ここにきて、

  • 生物学

の話に変わる。つまり、掲題の著者は、ここで一つの「態度変更」をしているはずなのである。物理学から、生物学への。
私が上記の引用が何を言っているのかが分からないというのも、そういう意味なわけである。
例えば、癌細胞というものがある。では、本当に癌は「異常」なのだろうか。その「ものさし」は、どこにあるのか。むしろ、癌とは、

  • 昔の生物

なのではないか。現在の人間の細胞は、体内において、さまざまな臓器となり、役割分担が起きている。つまり、各細胞は、自分の周辺の環境の影響を受けて、ある「形」であることを現象している。つまり、私たちの体内にある細胞は、なぜか、そういった性質をもつように、受け継いで、今まで、進化してきた。
しかし、である。私たちの細胞がそういった性質をもつように変わってきたからといって、

  • 最初からそうであったわけではない

のであろう。つまり、むしろ、癌細胞とは「昔は普通であった」先祖返りの細胞だとも考えられるであろう。こういった癌細胞は、確かに、今の人間の体内に「置いて」おくには、あまりに、周辺器官と協調性がなく、勝手に大きくなりすぎるから、体内に置いてはおけない。
ところが、である。
なぜ、その癌細胞を、人間の体内は置いておけない、と分かるのか。つまり、その人間の体内自身が、「どうやって」それを、「排除対象」だと、見分ければいいのか?
つまり、私が上記の引用の「説明」に違和感を覚えたのは、その「比喩」的表現のメッセージの「ふわふわ」した印象に対してなのである。
その癌細胞は、いわば、「昔の自分」である。つまり、「自分」であることには変わりがないのだ。どこか、「懐かし」くもあり「親しみ」を感じずにもいられない、「自分そのもの」でありならが、人体のメカニズムが、それを

  • 排除

し、戦い、壊し、体内の外に追い出すためには、「どのようなメカニズム」を想像すればいいであろうか?
もしも、体外から入ってくる「異物」であるなら、その分子的性質との、はるか太古から続く、「弁証法」の過程によって、いろいろ「学習」することによって、なんらかの「差異」を判別する能力を獲得してきた、ということを想像することができるであろう。ところが、癌とは、

  • 自分

なのだ。なぜ「癌」を私たちは「排除」できるのか。
これは、一種の「メタ」的な思考の、いいサンプルだと考えられるだろう。私たち人間は、脳の活動、つまり、言語活動によって、「癌の異常自己増殖」が、その生命体の「危機」であることを、一瞬によって、理解できる。
ところが、である。

  • 自分を構成している細胞の一つ一つ

が、どうやって「それ」を危機だと分かるだろうか? だって、「それ」は、私たち自身なのである。癌は、「普通の細胞」である。たんに、「異常な増殖を始めた」ことを意味しているしかない。その「異常な増殖」によって、周辺の器官を破壊し続けている、ということを意味しているにすぎない。
しかし、例えば、SEXをして授精した生殖細胞が自己増殖しているとき、私たちは、そういった自己増殖をしている細胞を「だから」異常な細胞などとは言わないだろう。
そのように考えていくと、「なにが正常な細胞で、なにが異常な細胞なのか」を分ける「境界線」は、一様にあやふやになっていく。
というか、そもそも、そういった境界が「ある」と言うこと自体が、どこか「ふわふわ」として、なんだか分からないような気持ちにさせる。
私が上記の説明に、限りなく違和感をもったのは、そういったことで、

  • 傷ついたDNAを治す
  • DNAがどうしても修復できないくらい壊れてしまったときには、その細胞を「廃棄処分」にしようと決めて殺してしまう

といったような「表現」は、大きなミスリーディングを起こしている印象を受けずにいられない。私なりに正確をきそうとするなら、

  • ある「メカニズム」が、ある「条件」に遭遇したとき、DNAを「元の状態に戻す」的な動きをしている
  • ある「メカニズム」が、ある「条件」に遭遇したとき、その細胞自体を体内から廃棄しようとしている

ということになるであろう。しかし、その「メカニズム」が、

  • 「どんな」傷ついたDNAも治す

ような、「メタ的視点」(人間の目線が、論理的思考によって、癌によって、人間が死んでいく過程をイメージした、それらの「現象」)の

  • すべてに「人間がこういうふうに行動してほしい」という反応を行ってくれているわけではない

というふうに考えざるをえないのではないだろうか。大事なことは、

  • ある条件

を満したから、一見すると「傷ついたDNAを治して」いるように見える動きに見えるだけであって、むしろ大事なのは「その条件」の方だということである。
掲題の本は、これ以降、どこか「黙示録」的な雰囲気になっていく。

  • 被曝による健康被害の「黙示録」
  • 被曝を「気にする」人と「気にしない」人が現れ、その間でさまざまな「弁証法」が行われていくことを予言する「黙示録」

私はここの部分においても、この本の姿勢に不満に思ったのだが、それはまた今度にでも...。

やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識

やっかいな放射線と向き合って暮らしていくための基礎知識