増田俊也『木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか』

戦後すぐの日本のスーパースターであった力道山が、38歳の若さで、若いヤクザとのごたごたで刺されて、死んだ後、昭和が終わり平成となり、力道山が多くの人の記憶から忘れられてきた今において、それは当然のこととも思えるが、しかしなぜそうなのかと考えたとき、そもそも、力道山がやっていたことはなんだったのか、そんな感慨を思わずにはいられないわけである。
もちろん、そのことには、力道山が自分が朝鮮人であることを「隠していた」ことが、どこかしら関係していたことは間違いないであろう。

「金田さんはやっぱり力道山にかなり可愛がってもらっていたんですか」
「そうですね。やっぱり張本(勲)さんとはまた違った意味で、金田さんはすごく、兄弟分みたいにしてましたね」
「違った意味でと申しますと?」
「張本さんは韓国の籍をずっといまでもお持ちで、自分が韓国人であることの誇りを持ってやってらしたけど、金田さんは帰化してますでしょう。隠してらしたっていうことで、うちの主人と、そういう意味ではいろんな共通点があったみたいですね。年代がだいぶ違いますからね、金田さんと張本さんは。大変な苦労をしたと思いますからね。学校も行けるような状態だなかったでしょうからね、主人の場合はね」
張本勲とはこんなエピソードがある。
初めて張本が力道山の家に行ったときのことである。外でたくさんの人と飲み、酔って最後に何人かがリキマンションに連れていかれた。力道山は内側から鍵を掛けると、朝鮮の民族音楽のレコードをかけ、ご機嫌で踊りだした。
張本は力道山は在日ではないかという噂だけは聞いていた。しかしそれをたしかめられないでいたので嬉しかった。
「リキさん、やっぱり朝鮮の人だったんですか。だったらみんなに言ってくれればいいじゃないですか、俺は朝鮮人だって胸を張って」
力道山は激昂した。
「おまえは昔の差別を知らないからそんなことが言えるんだ!」

おそらく、力道山を理解するのは、こういった方向からの視線が重要なはずである。こういう意味で、力道山は最後まで日本人に心を開かなかったとも言えるのかもしれない。彼は「ビジネス」として、日本人と関係した。ビジネスとして、日本のスーパーヒーローになった。しかし、それは、あくまでも「ショー」としてのヒーローであって、そもそも、力道山は日本人に対して、そう簡単に自分が心を開けるとは思っていなかった。それほどまでに、「昔の差別」は大きかったわけであろう。
掲題の本は、戦前、圧倒的な無敵の戦績を誇った木村政彦という柔道の世界のカリスマが、生涯においての一度の「失敗」。つまり、力道山とのプロレスでの一戦「昭和の巌流島」での敗北を巡って、考察し続けた軌跡である。
この一戦において、木村政彦は徹底的に力道山に、殴る蹴るの暴行を加えられて、敗れる。しかし、この試合は異常である。というのは、少なくとも、試合の途中までは、普通の「プロレス」だからである。
(この試合は、ユーチューブでも見れるが、注意が必要なのは、このビデオが力道山側の視点で編集されたものであることを強調しておく必要がある。つまり、かなりの力道山側が気に入らない場面がカットされている、と思って見なければならない。)
プロレスとは「ショー」である。お互いは、試合前に、少なくともお互いの最後の決まり手を、手打をしておくのが普通である。つまり、この試合もそういった筋書通りに進むはずであった。もちろん、木村自身も、なんとなくでは、ケンカの雰囲気になることを予想はしていたようだが、結果として、ワンパンくらって、意識が飛んで、それ以降は、力道山の「人殺し」としか見えないような、フルボッコが続く。
しかし、おそらく、「同じ」日本人なら、戦前の英雄であり、戦前の神である昭和天皇の前での御前試合で優勝までしているような彼を、ここまで徹底的にのすことはしないのではないか。つまり、力道山には「武士道」がないのだ。
力道山は、おそらく、ここで木村を徹底的に倒すことで、自分のはくがつくと考えている。あの戦前の英雄を、こてんぱんにして倒した力道山というレッテルを獲得することで、自分の経営を軌道に乗せたい、と思っている。そのためには、日本人が一番強いと思っている人間を、ゴミのように、ボコボコにすれば、自分の「実力」がニセモノではなく、ホンモノだと思ってくれる、と。
しかし、である。たしかに、これ以降、木村への世間の評価は下がっていく。しかし、あそこまで

  • キレて

過去の日本の英雄を殺す寸前までやってしまった以上、少なからず、木村を尊敬していた日本人に力道山は、終生、うらまれることになった。
つまり、もしも日本人だったら、あそこまでやらなかった。
力道山が「朝鮮人」だったから、あそこまで「徹底的」にやった。こういうやり方は、武士道ではない。
そもそも、プロレスは「中の人」の間では、「ショー」となっていた。力道山は、しかし、外の世界では、必ずしもそうなっていないことを利用して、パフォーマンスを行ったわけである。世間さえ騙せば、あとは、「中の人」の口を塞げば、なんとでもなる、と。
しかし、こういった「ずるい」態度を日本人は、一番、嫌う。お互いが「ショー」だとして、手打をしていながら、そういった個人的な関係を裏切って、

  • 世間

を味方にしようとする姿は、限りなく、日本人が一番に嫌う態度であろう。
まさに、「功利主義」だ。私的な友情を、大衆の「イメージ」のために、裏切ることは、日本人が一番嫌う態度であろう。

力道山はマスコミに興奮してぶちけた。
木村が調印式の前夜、花蝶会談で引き分けを持ちかけてきたと。そして今日の試合中にも何度か「引き分けに持っていこう」と言ったと。
「試合始め間もなく首を締めたとき、完全にきいたのだが、この時も木村君は、やめてくれと言った。やむなく僕は離れたが、その直後、彼は僕の急所を蹴ってきた。実に卑怯な奴だ。それに僕はカッとなり、あのような結果に彼を陥れてしまったのだが、彼の言動から当然の酬いだろう」(スポニチ

さきほどから言っているように、プロレスは「ショー」である。力道山がここで言っているのは、その裏方で行われている手打を否定して、木村の名誉を貶めることしか考えていない。つまり、自分は悪くない、と言いたいわけであろう。自分が「カッ」となったのには理由があるんだから、悪いのは、木村だけだ、と。
日本人は、こういう「言い訳」が嫌いだ。事情を知らない人は聞き流すかもしれないが、少なくとも、木村に関係する多くの人の恨みをかったことだけは間違いない。
力道山は、プロレスビジネスのオーナーである。もちろん、審判は力道山の会社の社員である。力道山は、この戦後の混乱期に、なんとしても、このビジネスを成功させなければならない、と考えている。そこで、彼は、戦前の日本人にとっての無敵の英雄をゴミクズのように扱うことで、
力道山最強説
を作りたかったのであろう。その「ため」には、この木村という一人の「おっさん」との「契約」を破り、木村との「約束」を勝手に反故にし、木村を裏切り、木村を自分の都合で「敵扱い」にすることで、この木村という一人には「死ぬまで恨まれても」、その他の全国民に力道山が経営しているプロレスビジネスに引き込めれば、

と考えたのであろう。たしかに、この「事件」によって、木村はプロレス界からフェードアウトしていく一方、力道山は日本の無敵のヒーローとなっていく。

力道山の問題はプロモート権を自分が独占したと宣言したことだ。力道山ジョー・マルセビッツとアル・カラシックの著名の入った、こんな書面を見せた。
力道山が日本でプロレス興業をする場合、NWA(ナショナル・レスリング・アライアンス、全米レスリング協会)は外人プロレスラーの派遣等、全面的に支援する》
力道山は言った。
「これは、日本で興業をやっていいという唯一のライセンスだ。だから日本でのプロレスの興業は俺が取り仕切る」
遠藤幸吉は当時を振り返って「あれはね、実際には日本で誰がどんな興業を打っても構わないんです。でも、リキはとにかく人を信用することができない。だから全部自分で仕切らないと気がすまなくてあんなことを言ったんでしょう」と笑う。

力道山は、また永田詣でを繰り返した。
「力を貸して下さい。アメリカではたいへん流行っています。日本でも成功します。自分はプロレスで事業家になりたいんです」

なぜ、日本の戦後史において、プロレスが、これほどの隆盛を誇ったのか。しかし、そのことを考える前に、力道山という日本の大相撲で関脇までいった彼が、プロレスに興味をもつ以前から、木村はプロ柔道をへて、アメリカのプロレスの世界に入っている。
なぜ木村はプロレスを始めたのか。それは、一言で言えば、「儲かる」からだ。何度も言っているように、プロレスは「ショー」である。じゃあ、なぜ客は、このショーを見に来るのか。こんなふうに考えればいいのではないか。戦争中、アメリカ人は「敵」であった。憎き相手であった。戦後すぐの闇市の時代に、まだ、アメリカ人への怨念がうずまいている時期に、リングの上で、日本人がアメリカ人をボコボコに倒していたら、それを日本人が見たら、「スカッ」とするんじゃないか。
つまり、一種の「ガス抜き」としての「需要」があったわけである。
つまり、プロレスとは、ある種の「物語」を人々に見せるものなのだ。プロレスが、たとえ「ショー」であったとしても、彼らがくりだす暴力を「受ける」ことができる、強靭な、毎日鍛えている肉体がなければ受けられないであろう。まあ、痛いわけだ。たとえ手加減をしたとしても。
そう考えれば、日本人がアメリカ人をボコボコ殴っている姿を、

  • テレビ

で放送して、「全国」の人が見るという体験は、戦中における、日本のアメリカへの「敵視」を

  • 中和

する、なんとも言えない「イメージ操作」であり「解毒剤」のような効果をもったとも考えられるのではないか。

力道山毎日新聞東京本社運動部の伊集院浩記者に相談し、テレビ放送をできないかと持ちかけた。後に割腹自殺する、あの伊集院である。
伊集院は言った。
「うち(毎日)はまだ準備ができていないし、思い切って正力さんの懐に飛び込んでみたらどうだ」
正力松太郎読売新聞社主)は昭和二十七年十月に創業された日本テレビ社長に就き、昭和二十八年八月二十八日に開局、本放送を開始したばかりだった。
力道山は正力に会おうとするが、なかなか叶わない。この理由をノンフィクション作家の佐野眞一『巨怪伝』で、警察キャリア出身の正力は力道山北朝鮮出身であることを知っており、ために警戒して避けたと分析している。正力は大正十二年の関東大震災のとき警視庁官房主事で「朝鮮人暴動の噂」を意図的に流した前歴があるのだ。またプロレスに工藤雷介が関わっていることを知り遠ざけたのかもしれぬと佐野眞一は言う。工藤が昭和十年に正力に対する日本刀襲撃事件に関わっていたことも警察筋で洗っていたのではと。
最終的に力道山が正力に会えたのは、加賀山之雄や吉田秀雄、今里広記永田雅一日本プロレスリング協会の表社旗の大物たちの口利きがあったからであろう。
「プロレスをテレビでやってください」
正力は肯ぜんかった。だが、力道山が帰った後、日テレの事業局と編成局に「プロレスとは何なの調べろ」と令を出した。

プロレスの特徴は、「出場する選手に大金が入る」ということである。少なくとも、力道山がプロレスを始める前に、木村がアメリカでプロレスをやっていたとき、そのファイトマネーは、闇市でなんとか糊口をしのいでいるときとは、比べものにならなかった。
プロレスが「ショー」であるということは、どちらかが「負け役」を演じる、ということである。それは恥ではあるが、いずれにしろ、それに見合う「ファイトマネー」を支払うということである。
そういった視点で見たとき、上記の木村と力道山の差異がよく分かるのではないだろうか。
木村はこの試合に破格のファイトマネーを要求する。そもそも、木村はあまり、プロレス経営に興味がない。一匹の「選手」であることに、満足している。だから、なによりも、ファイトマネーにこだわる。
他方、力道山はプロレスを「自分の事業」と考えている。つまり、彼は「社長」なのだ。私が子どもの頃にはまだ、馬場や猪木がゴールデンタイムに試合をやっていたが、あの光景が明らかに異常なのは、

  • 馬場や猪木が「社長」である

ことにある。つまり、メイン・イベントで、馬場や猪木と戦っていた(外人を含めた)選手も、審判も、みんな、

  • 馬場や猪木がお金を払って雇った人たち

なのだ。そう考えれば、どうして、本気で勝とうなどと思うであろうか。だから一種のマスタベーションなのだ。こういった慣習は、力道山から始まった「伝統」だと言えるであろう。
たとえば、上記の昭和の巌流島にしても、力道山が完全にキレて、木村を殺そうとしているのに、審判は止めない(戸惑ってはいるようだが)。それは、「社長」のすることに、口出しできないからだ。社長の力道山

の手助けをやることしかできない。しかし、それが「ビジネス」なのであろう。力道山はなんとかして、自分の「イメージ」を世間に向けて操作しようとしている。それは、現代のSNS時代において、人々がネット上で、自分を

  • 好印象

をもたれるように、なんとか振る舞おうと、「印象操作」的に、ツイートをしているのと同じである。
掲題の著者は、昭和の巌流島について、一方的に力道山はヒールなのか、と問う。つまり、柔道界の英雄である木村は、力道山にだまされて、はめられて、テレビという「公衆の面前」で恥をかかされた、たんなる、「被害者」なのか、と問うている。
もちろん、木村はプロレスを「ショー」としか考えていない。つまり、明らかに、「真面目」じゃない。木村が柔道の試合のときにやっていたような「真剣さ」がない。つまり、「その姿勢」が問われているわけである。武士が、プロレスの試合だから、手を抜いたから、殺されましたと言って「言い訳」になるのか、というわけである。

私は、実は力道山はボクシングファンで力士時代から張り手を得意とし、本場所で巨漢千代の山を張り倒したことがあること、あの伝説のボクサー、ベビー・ゴステロとジムでスパーまでやって研究していたこと、そして初代若乃花に対し稽古中にボディブローを頻繁に使っていたことなどを話した。
吉鷹は合点したように言った。
「やはりそうですか......ああいうのは稽古で使ってないと試合では使えないんですよ。だから稽古場で倒すための張り手、掌底を若い者を相手に試しては本場所で使い、練り上げていったんでしょう」

たとえ、力道山の行為が人の道に反した鬼畜の振る舞いだったとしても、気を許した木村の自業自得の面があるんじゃないのか、あまりに、力道山の実力をなめすぎなんじゃないのか、というわけである。
力道山はしょせん、相撲の世界では、関脇どまりの頂点を極められなかった「落ちこぼれ」である。しかし、相撲は張り手という「打撃系」を含んだ格闘技であるわけで、木村は、そういった相手を「警戒」する「心構え」を、どこか失っていたのではないか。武士としての、いつなんどき、敵に襲われた場合でも、準備をおこたらない姿勢を失っていたのではないか、という、不満だとも言えるであろう。
しかし、力道山の38歳という若さでの他殺と比べたとき、木村の65歳まで生きた「後悔」の人生との違いが際立つわけである。
たしかに、力道山はビジネスでの成功者であったわけだが、昭和の巌流島が象徴していたように、彼はしょっちゅう回りの人間とトラブルを起こし続ける。そもそも人を信用していないから、他人の下で働くことができない。自分が社長にならないと、怖くて、やってられない。昭和の巌流島という、世間が注目する、あんな重要な場面でさえ、相手を騙してでないと、自分の「面目を保てない」と考えるヘタレであるということは、彼は

  • 日常茶飯事

で、周囲とトラブルを起こしていた、ということにすぎない。つまり、会う人会う人に「恨まれていた」ということである。38歳で死んだことも、それが早かったのか遅かったのかも分からない、といった性質の話なわけであろう。
他方において、木村は、あの試合で自分は世間に対して恥をさらしたという「後悔」を終生もちながらも、他方において、「やってみなければ成長しない」という向上心をもち続ける。晩年は、もう一度、柔道界に戻って指導者となったのもそういうことで、基本的に彼は、あまり

  • 社会

に興味がない。師匠の猪熊が、天皇を神としてあがめることを通して、日本社会の変革運動に興味をもったことに比べて、木村はその猪熊との

  • 師弟関係

への強烈な意識は、終生忘れなかった反面、木村自身には、たとえば三島由紀夫のような「天皇制」へののめりこみのような姿勢は感じられない。それは、木村自身が熊本の砂利取り人夫の家に生まれた「百姓」的マインドから、終生に渡って離れることがなかった、というふうにも考えられるであろう。
(「天皇制」のような制度にはまっていく人のマインドには、おそらく、親などの家系に、国家官僚のような、「天皇」に仕えた役人の子孫をもっている場合に、自分の「ルーツ」として、反復しているんじゃないのか、というふうに仮説してみたりもするわけですが。)
そのことは、柔道という「スポーツ」が、こうして世界中に広まっていった一方において、その柔道の「起源」において、武道という「実践」における戦闘行為を想定した精神的な日々の営みが常に陰を落とし続けていることと、他方において、力道山が「事業家」として成功させようとした「プロレス」という事業体の

  • 衰退

が、近年はっきりしてきたこととのコントラストを強調する。結局のところ、力道山のブロレスビジネスは、しょせんは「ビジネス」だった、ということであろう。ビジネスだから、彼は木村を罠にはめてでも、無知な大衆の名声を優先した。そして、多くの人の恨みをかって悲劇の結末となったわけだが、そもそも、「本気でない」という時点で、プロレスビジネスは、その「役割」を終えた時点で、衰退は免れなかったということではないだろうか。
その最後のあだ花のように、「リアル・ファイト」という、かなり乱暴ではある、ショービジネスが、細々と続いているが、少なくとも、(なるべく怪我は少なくするという範囲であっても)本気でやらないことには、選手も大衆も満足できないという「ホンモノ」志向という、しごくまっとうで、健全なマインドが、いろいろな毒素を抜いていった時に残った、ということを意味するにすぎない、ということなのであろう。
そもそも、こういった世界が比較的に「健全」に見られうる可能性として考えたときに、木村のバックグラウンドにある柔術のような、スポーツとは違った

  • 武道(=武士道)

の戦闘技術としての実践性(=精神性)に、「リアル」さに、どこかでこだわる部分がモチベーションとなっていることは、理屈としては理解できるわけで、結果として木村が、力道山を比べたときに、(恥をさらしたにもかからず)ここまで長生きしたことには、それなりの理由がある、とも思うわけである...。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか