スポーツでは「ない」

そもそもなぜ、「今ごろ」木村政彦なのか、というのは多くの人が思うことなのではないだろうか。

アメリカのデンバーで第一回UFCが開かれ、優勝したホイス・グレイシーが「われわれグレイシー一族にとってマサヒコ・キムラは特別な存在です」と発言し、この偉大なる名前が世界中の格闘家たちに知られるようになるわずか七ヶ月前、木村政彦はひっそりと逝った。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

つまり、木村の再評価は、日本の中で生まれてきたわけではない、ということなのである。「なぜか」日本国内とは、全然関係ないところで、

  • 世界中の視線が木村に向かった

ということなのである。これは、どういうことなのか? 私は、この辺の事情を、「日本における戦中と戦後の差異」において、考える必要があると思っている。
私が、いろいろ本を読んで勉強したことで、最も大きなことは、やはり、

  • 戦中と戦後の差異

なのではないか、と思っている。戦前が戦後と何が違うのか。それは、戦前は、

  • アメリカ占領軍による「検閲」がなかった

ということである。そういう意味で、戦後生まれは、完全に

  • ある忘却

を生きていることは間違いない。

戦後、GHQによって武徳会が解散させられ、またGHQによる学制改革によって旧制高校無くなることによって高専大会も潰え、この二大西麓の消滅によって、柔道界は講道館の一人勝ちになっていく。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

しかし、GHQのCIS(民間情報部)は「武徳会の活動は占領方針の日本の軍事、または準軍事教練、あるいは日本における軍国主義、好戦的精神持続の禁止ならびに軍国主義的、または、過激なる国家主義的観念の流布禁止などの禁止事項に抵触している疑いがある」と、日本政府に報告書の提出を求めた。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

戦前とは何か。それは「戦後ではない」ということである。歴史は逆回転をしない。つまり、戦前の人は戦後を知らない。大事なことは、そのことを、戦後の人は忘れる、ということである。まるで、戦前が「戦後と同じ」であるかのような視線で眺めてしまう。
しかし、言うまでもないが、戦前の日本人は戦後の、この国の「平和主義」を知らない。では、戦前の日本人とは何者なのか? 彼らは、何を見て生きていたのか。

嘉納治五郎が目指していた柔道がどういうものだったのかは、昭和五年(一九三〇)、第一回全日本選士権が開かれる数ヶ月前に講道館機関誌に寄稿した以下の文章でもわかる。
講道館においては、武術の部門においては今日まで行ってきた棒術の練習を継続し、追々剣術の研究も始め、当身術の如きも従来に比し一層深き研究を遂げたいと考えている。よってそれらの研究に志あるものは、その志望を申し出ておくがよい》(『作興』昭和五年一月号)
可能は当て身のみならず、棒術まで柔道に取り入れようとしていた。いかに実践を模索し続けていたか、この一文ではっきりとわかる。棒術や剣術はともっく、当て身が普段の乱取りに欠けていることについては徒手格闘技(素手の格闘技)にとって致命的な欠陥だった。
嘉納治五郎にとって柔道の当て身なしの競技ルールは過渡期でしかなかった。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

こうやって書くと、さらーっと読み流してしまわれるかもしれない。しかし、ここは重要なことが書かれている。つまり、講道館柔道の創始者とされている嘉納治五郎にとって、柔道とは、

  • 実践訓練

なのであって、スポーツではない、ということなのである。いや。スポーツという形式をとることによって普及することに異議はないとしても、それはあくまでも、本来の「実践」性を追求することの延長にあるものだということを、少しも疑っていない、ということである。
このことは、戦後のGHQの占領政策に完全に洗脳された、戦後の日本国民には、何を言っているのか分からないかもしれない。
つまり、柔道はスポーツではない。じゃあ、なにか。実践における「リアル・ファイト」を「想定」したトレーニング、つまり、

  • 戦争の実践訓練

なのである。
私たち戦後民主主義を生きた世代には、戦前が理解できない。戦前における日本は、

  • 軍事国家

である。国際政治的にどんなルールがあったとしても、日本は「侵略」をするし、戦争をする。実際にしていた。まだ、その当時は、一度も、戦後のような「平和主義」が存在しなかった。そんなことを空想もしていなかった時代である。当然、子どもたちは大人になれば、自分は軍人になると思っていた。いや。たとえならなくても、日本そのものは「戦(いくさ)」をする国だと思っていた。戦うということは、相手を殺す、ということである。殺すということは、これは、極めて、実践的な何かであるわけである。
近代戦争においては、基本的に、拳銃で打ち殺すわけであるが、多くの日本の軍人は脇差をしていた。刀を脇に差していた。有名な百人切りの話があるように、軍人幹部は、自らの「度胸」を試させるために、その刀で、中国の人を殺した。それくらいを、なんのためらいもなく行えることを確認することで、その幹部の肝ったまの資格を測ったというわけである。
宮本武蔵の「五輪書」にもあるが、江戸時代における武術には、こういった刀剣術の他に、ここで話している、柔術や、馬術などがあったわけで、そもそも柔道とは、そういった「延長」に考えられているものであった。
つまり、もしも、お互いが拳銃も刀剣ももっていない場合、または、こちらがそういった武器で相手に怪我をさせたくない場合の、格闘術、相手をコントロールする実践技術として、実際に

  • 使える

または、その使うための能力を身に付ける作法として、考えられていた。
つまり、である。
ここで、本気で頭の中を転換して内省していただきたい。柔道や柔術とは、なんなのか、を。
例えば、上記で「高専柔道」というものにふれた。これがなんなのかを知っている人は、おそらく、ほとんどいないのではないかと思われる。戦前から日本の敗戦まで存在し、戦後はGHQによって解散をさせられたこの組織が何をやっていたのか。木村政彦は自らの人生において、この「高専柔道」こそ、最強であった、と言っている。その意味はなんなのか。なぜ、この「高専柔道」が戦後の世界の格闘技界にとって「特別」だったのか。いや。あらゆる格闘技の

  • ルーツ

とさえ考えられるのか。その意味を、しっかりと理解してほしいのである。

講道館ルールやIJFルールとの主な違いは以下の点である。

  1. 有効などの細かいポイントがなく、勝負を決するのは一本勝ちのみ。
  2. 寝技への「引き込み」が許されている。そのため、たいていの試合は組むや両者が寝技に移り、立技の攻防が非常に少ない。
  3. 場外がない。試合中、観客席の方に突っ込みそうになると審判が「そのまま」と宣し、選手が組み合ったままの姿勢で試合場の真ん中に引きずってきて試合を再開させる。
  4. 寝技の膠着状態による「待て」がない。そのため試合開始から試合終了まで両者は審判に止められることなく延々と寝技で戦う。

いわば審判は一本勝ちを見届ける立会人でしかなく、どちらが強いかを決める完全決着ルールである。試合は十五人の団体抜き勝負で、一人あたりの試合時間も長く、大将戦は三十分(古くは一時間)、副将戦は二十分もあったため、団体戦一試合を終えるのに半日かかった。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

高専柔道とは、当時の「大学」の部活であった。ここで、大学というところがポイントである。
大学生とは、基本的に「国家」組織である。つまり、学生のマインドとして「国家のため」に日々を生きているという気持ちが強い。そして、学生はエリートである。だれもが来られるわけではない。国を背負っているというプライドがある。たしかに、体力のない学生も多かったかもしれないが、徹底して技の研究には打ち込めたであろう。そして、なにより「時間」がある。
よく考えてほしい。当時の大学は、まだ、日本が降伏する前の、子どもが大きくなって、軍人になることを当たり前だと思っていた時代の学生である。そんな学生が日々考えることとは、

  • 戦争の実践訓練

の研究であったことは、想像がつくのではないか。上記の高専柔道のルールは、現在のバーリトゥードに非常に似ている。つまり、大学に行って、毎日、戦争に勝てる技術であり、体力であり、精神力を鍛える

  • 武道

が柔道なのであって、たんなる「ルール」の中で民主主義的に「競争」することにのみ意味を見出す「近代スポーツ」とは、異質なのだ、ということである。
例えば、近年、スポーツ界における「しごき」が、さかんに問題にされた。しかし、そのルーツを探るなら、間違いなく、こういった戦前の

  • 武道

があったのではないだろうか。

高専柔道は、その寝技に特化しているという特殊性から技術論で語られる場合が多いが、もうひとつ重要なことがある。井上靖高専柔道を”練習量がすべてを決定する柔道”と呼んでいるが、彼らはフィジカルで劣るのを補うため、練習時間を講道館や武専の専門家たちより圧倒的に多くし、それによって精神力を鍛えた。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

高専柔道では試合中に参ったをする選手はおらず、絞められれば落ちるまで、関節技が完全に入れば、それは骨折を意味した。練習中も間接に関しては試合に障るので参ったが許されたが、絞めはもちろん落ちるまでである。
大正七年(一九一八)十二月、四高と五高の対抗戦の記録にこうある。
《つづいて四高は山口四郎、五高は新井源太郎の2番手段外同士となった。山口は小兵で初陣ながらも、果敢に引っ込んで寝技に誘うも、応じないと見る間に、新井の左腕関節の逆がはいって、しばし審判の宣告を待った。ところが新井は頑強に頑張って「参り」をいわない。四高応援隊からは「折ってしまえ」と盛んに激励する。山口は哀れと思ったが、審判の宣告のないまま、力を入れて腕を逆に返すと、みりみりと音がして腕はだらりと垂れる。しかし新井はついに「参り」を言わなかった。》(湯本修治「高専柔道の歴史的意義」、『旧制高等学校史研究』第十一号、一九八一)
木村政彦永野重雄(六高OB、元新日鉄会長)が骨折しながら片腕で高専大会を戦ったエピソードを自伝で紹介し、こう絶賛している。
《私は柔道のダイゴ味は、ここにあると思っている。ケガをしていたから負けたとか、コンディションが悪かったから負けたなどという弁解は、一切無用なのである》(『鬼の柔道』)
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

例えば、戦争において、相手軍に捕まえられたとする。そうしたら、何が待っているか。拷問である。拳銃で片足を打たれたとする。そこで、ピーピーと泣き叫んで、帝国日本陸軍の「すべて」の機密情報を、ぺちゃくちゃとしゃべってしまったら、こんな軍幹部は使えるだろうか。つまり、上記の高専柔道は、一種の「精神訓練」なわけである。
関節技をきめられて、もしも、審判がそのきまり具合を見逃すと、腕が外れるし、場合によっては、折れる。折れたら次の試合に出れないわけで、というか、何ヶ月も試合ができなくなるのかもしれないが、はっきり言ってまえば、「それに耐える精神性」が、試されている場なのだから、あまり多くはなかったとしても、何人かが腕を折ることは折り込み済みの、「そういった」雰囲気の場だった、ということなのであろう。
上記の引用にあるように、戦後、GHQによって、こういった「準軍事教練」は、それ以外の皇国教育と同じように、「好戦的慣習」として、禁止されていく。そして、その日本人自身が、その戦前にあった「実体」自体を忘れていく。
こうして、もう、日本が戦前に戻ることがないように、高専柔道は滅びた、野蛮な慣行はなくなった、と思うかもしれない。ところが、そのように受けとらなかった人たちが、間違いなく、この地球場にはいた、ということなのである。

エリオの弟子たちは市内を棺桶を担いで練り歩いては「この中には日本の柔道家加藤幸夫の死体が入っている。我々の先生エリオ・グレイシーが倒したのだ。柔術名人エリオにご声援を」とがなっていた。そして、木村たちが宿泊するホテルには日系人が毎日何千人と押し掛けてきて「このままでは我々はブラジルで生きていけない!」と泣いて責め立てた。
そのうち、「日本人の恥だ!」「加藤を出せ!」「焼き討ちするぞ!」「国外追放だ!」「殺すぞ!」とまくし立てた。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

戦後、木村政彦アメリカでプロレスをやっていた合間をぬって、ブラジルに行き、この後、彼はその地で、エリオ・グレイシーバーリトゥードで試合をするわけだが、大事なポイントは、このエリオが学んだ柔術が、実際に高専柔道だったのかどうかではなく、ブラジルに多くいた日系人は、彼らの多くが

  • 戦前

の移民者であった、ということである。つまり、彼らは、

  • GHQによる「去勢」を受けていない

のである。つまり、ブラジルの日系人は、「戦前の日本人」なのだ。戦後、「変わった」日本人ではない、ということである。
グレイシー一族の人たちが語る「柔術」は、まるで、高専柔術の経験者が語る柔道である。つまり、ほとんど変わらない。つまり、こういう意味で、彼らは「戦前の日本人の生き残り」とさえ言えるのかもしれない。
最初に引用した、ホイス・グレイシーの言葉に、世界中が注目したわけであるが、それは、この昭和も終わり、平成になった時代に、まるで、

  • 戦前の亡霊

が海の向こうから、「戦前の日本」が、この「戦後の平和の安寧を生きる」私たち日本人の前に現れ、

  • 戦前の日本人の誇り

を世界に向けて発信したかのように、受け取られたわけであろう。そして、戦後を生きる日本人は、その姿に「戸惑った」わけである。どう受けとめればいいのかが分からない、と...。