住友陽文『皇国日本のデモクラシー』

私たちは、歴史を中学高校と習い、明治における、近代化において、最初は、「制限選挙」であったことを知っている。女性は選挙権がなかったとか、資産家しか選挙権がなかったとか。
しかし、よく考えてみると、なぜ「普通選挙」になったのであろうか。その理由を考えてみると、あまり思いつかないものである。
ようするに、支配者の側からしてみれば、「貴族」というものがいるように、お金持ち同士で、それまでは国家を支配していたわけで、彼らの「囲い込み」が崩れるわけであるから、あまり、いい気持ちがしないのではないか。お金持ちは、自分たちだけで、日本の行く末を決めたいと思っていたのではないだろうか。
例えば、もし選挙権ができるだけ限られていれば、少人数で、自分たちに都合のいい法律を通せる。巨大スーパーの御曹司の人であれば、消費税を上げることで、中小小売を

  • 一網打尽

にできる。彼らの息の根を止めることができる。なんとしても、消費税を巨大にして、日本での競争相手を抹殺したいであろう。
このように考えてくると、そもそも、富裕層は、上記の「制限選挙」を、なんとしても堅持したかったのではないだろうか。それが、なぜ「うまくいなくなった」のであろうか。

その担い手こそ、他でもない、篤志家であった。では、なぜ地域有力者や名望家なのか。実はそのことは、次のような地域社会の中で進行していた、資産の多さと行政能力・公共心との必然的照応関係の否定という事態に、国家官僚が寛容ではいられなくなったということと無関係ではなかったのである。

又聞いて見るといふと、誠に驚く様な人が名誉職に就いて居る。内々其内容を調べて見ると嘗て前科があつて、一寸人の風上に置けぬといふ様な人でも、其人に財があり、力があるといふが為めに、其人を出さなければ、村の折合が悪いから(拍手起る)マア腹の中では誠に困るけれども、出して置くといふのも罕れにある。其様な人を出して置くといふと、必要もない所の仕事も起して見、学校の建築をする、何かの工事を遣る、其間で一寸誤魔化して見るということを度々耳にするのであります。

右は、床次地方局長が、一九〇八年一〇月に長野市で開催された報徳講演会で行なった演説の一部であるが、公共事業費の削減を嫌った彼さえ、地域有力者による、このような名誉職自治の弊害には目に余るものがあった。

ここの引用は「驚くべき」ことが書いてある。ようするに、

は、結果として、「選びたい人がいない」という事態を、「必ず」引き起こす、ということなのである。
そもそも、お金持ちって、どんな「手段」でそうなったのか。マフィアのような、アンダーグラウンドのお金で、一発当てて、成功したのかもしれない。つまり、往々にして、こういった連中は、

  • パブリック

な政治の場に、引き入れられると、マングースのように、周囲の人間に噛み付き、脛に傷をもたせ、逆らえないようにして、税金を着服し、暴虐の限りを尽すようになる。
まあ。私たちだって、みんなそう思っているんじゃないか。ぽっと出の金持ちに、性根の腐っていない人なんていない、と。だから、雅やかな、家柄の、貴族のような人を、信頼するのではないか。
つまり、政治家を任せられるのは、お金を持っていようが持ってなかろうが関係なく、

  • ちゃんとした人

なのだ。間違った悪の道を選びそうにない、篤実に生きてきて、政治も同じようにこなしてくれそうな人を、と。
よく「頭の良さ」こそが、政治の全てだと思っている連中がいるが、そもそも、そういった連中は「大衆を騙す」。彼らは、頭が良いから、口先で国民を騙す。例えば、数学の証明をやっているときに、途中の計算を、飛躍させて、嘘の結果を導く。つまり、頭が良いから、そんなことをやれてしまう。頭の良い人間は、そういう意味で「信用できない」のである。
多くの政治問題においては、むしろ「頭の良さ」は求められていない。むしろ、上記の比喩で言うなら、「一歩一歩、数学の証明を、間違いなく、証明を書いて行ける人」が求められている。つまり、アイデアは国民からいくらでも上がってくるのだから、それらから、妥当なものを聞き分けられる

  • 愚直に正直

な人間が求められている。つまり、むしろ政治において大事なのは、

だということになるであろう。
上杉慎吉といえば、天皇機関説をめぐって、戦前に憲法論争をくりひろげた天皇主権説派として有名であるが、彼が「民主主義否定論」を、終生、繰り広げたことは、あまり知られていないのかもしれない。

第一に、世界史的な現状把握に求められた。上杉は、議会が国民代表であるといったのは、一八 -- 一九世紀のヨーロッパにおける議会制隆盛の時代の産物であって、欧州でも二〇世紀にもなると、議会に対する国民の信用が失墜し、「第十九世紀ノ間ニ発達シタ国会制度ハ今ヤ末路カ近ツイタ」が、それでもなお「国会ハ人民ノ『地図』テアル」トイウノハ「空想」デアリ、「代表ト云フコトハ全然事実テナク純粋ナ擬制テアル」と断定する。上杉の立場からは、国民代表論を基礎とする代議制を信奉することの方がそれを否認するよりも明らかに時代錯誤的であったと認識されるのである。
第二に、政党政治の本質論に求められた。上杉の認識に従えば、政党が主義政見により組織されているうちはその勢力は微弱で多党制となるが(人の主義主張多様だから)、英米のごとく「政党成熟スレハ二大政党ノ対立ニ到ラサルヲ得」ない。しかし、それはすでに主義主張によって組織される政党とはいえず、政党が発達するほど「首領幹部運動者ノ勢力ヲ張リ利益ヲ得ント」するにいたる。っかる利益をもたらすためには選挙に勝つ必要があり、そのためには党派形成が必要であり、当然それは「賄賂脅迫其ノ他一切ノ腐敗手段」を必然化させてしまうということになる。こうなれば、多数票を獲得した政党は「人民ノ意思ヲ代表スルモノニ非ズシテ彼等政治業者ノ意思ヲ代表スルモノナリ」というも、決して誤りではないと上杉は、ロシアの政治学者オストロゴロスキーらの著作を我田引水的に援用しながら論述するのである。すなわち、議会政治は「政党独裁」を意味し、「政党独裁」は「政治業者」の「独裁」を意味したのである。議会政治は多数支配の異名ではなく、「国家ノ公ヲ後ニシテ政党ノ私ヲ先ニスル」「政治業者」という少数専制の異名であったと上杉は認識していたのである。
第三に、代表制原理に求められた。すなわち、代表制原理に内在する、代表と被代表の人格が統一できるとする考えそのものを否定するのである。「国会議員は国民の意向が変る毎に、毎日考を変へなければ、国民の写真といふ事は出来ない」と上杉は述べ、国民の意思を完全に議会において復原することは現実に不可能であるから、代表などありえないと言う(もちろんこれは「代表」概念の曲解だが)。また多数決原理にも触れ、多数の意思は全体の意思と同一ではありえないというところから多数決原理によって全体意思を抽出するのは「荒唐無稽ノ虚誕」で不可能という結論を導きだし、多数決原理を普遍的に採用する議会制度では代表を創出することはできないと断定するのである。上杉は、人は皆異なる意思を持ち、それらは無数の相違を超越して特定の意思に統一されえないということを繰り返すし述べていた。したがって、国民個々の意思を完全に表明するには「国民全体ヲ国会議員タラシムル」以外にはないとするが、このことは同時に「既ニ代表ナク既ニ国会ナク」と、国民代表そのものの否定をも意味するのである。以上のように、上杉は、不確実性という理由をもって意思は代表されえないという結論を導きだし、それを原理とする代議制を否定するのである。個別意思直接民主制によってしか表明されえないから、代表という委任行為によっては一般意思は形成されえないというルソーの論理に依拠しながら、日本のみならず西欧の代議制をも原理的に否定するにいたるのである。

世の中に、民主主義批判というのは、さまざまにあふれているが、この上杉の主張は、ある意味、民主主義の「全否定」だと言えるであろう。上記の議論は、一見すると、間接民主制批判のように思われる。つまり、議会制は、まったく国民を代表していないのだから、いくら議会が決めたところで、それは民意じゃない、と言っているのだから。そうなると、直接民主制ならばOKのように思われるが、その主張している内容を考えると、やっぱり直接民主制でもダメだと言っているわけである。なぜなら、それは結局は「個別意志」の寄せ集めにしかならないから。だとするなら、彼は何ならば、いいと言っているのか。
それが「社会契約論」だということなのだろう。
私たちはすでに、国家に守ってもらっている。守ってもらっているから、ここまで生きてこれた。だとするなら、私たちは、その「恩義」によって、国家に死ねと命令されたら命を投げ出して、国家に感謝を捧げなければならないのではないか、と。
つまり、上杉の「一般意志」は、各個人の「意志」は、すでに、

  • 国家

に「譲渡」されている、という形になっている。上杉の場合それは「天皇」であるが、基本的に今の「社会契約」を認めちゃっている時点で、国家だけが唯一の「主権」であり、そういう意味では、天皇独裁だけが、真に「正しい」統治の形態なわけである。
明治以降の政治において、国民皆兵制となることによって、江戸時代では、将軍となんの関係もなかった、百姓や商人も軍人にとられるようになってるく。
ところが、そうすると一つのアポリアが生まれる。つまり、彼ら百姓や商人は、

  • まったく「道徳」を知らない

わけである。忠義とかも知らない。その「精神」が何なんだとか言われても、理解できない。しかし、彼らは「戦場」に行くわけです。そうすると何が起きるか。

  • 分け前

の要求です。多くの戦死者を出します。当然、彼らはその中を生き残ったのですから、それ相当の分け前を要求するようになります。
つまり、何が起きているのか。より、大衆が、国家中枢の求心力に吸い込まれていくわけです。大衆は、なんとか国家に気に入られようとします。

また全国で競って建立された忠魂碑のごときも、地域社会の国家に対する不気味なまでの忠君愛国精神を誇示----「国民である」ことを国家に認知してもらう自己顕示----する記念碑であって、政府はこのような建立熱を抑制するのに苦慮しなければならなかったほどである。
このように、明治維新から日露戦争にいたる「栄光の歴史」を育んできたと見られた大日本帝国の忠君愛国精神は個々の臣民に内面化された、自制心にあふれた理性とはほど遠く、きわめて形式的・外面的なものでしかなかったことが暴露されたのであった。

進んで、愛国者であることを、国家にアッピールするようになります。わざとらしく、国家にまとわりついてきます。そして、さかんに「忠義」の「お返し」としての、褒美、それ相応の、役職の要求をするようになります。
これが「大衆」化です。
これ以降、日本の政治は、天皇を「神」として、礼拝する対象として、国民をキリスト教徒のように「逆踏み絵」していくようになります。つまり、高校教師の君が代を歌っているかの口元チェックのような

  • 監視社会

へと、一気に梶を切っていくわけです。
「君死にたもうことなかれ」の与謝野晶子は、独特の社会観をもっていました。彼女は、自分というもの、自分の利己主義は、「外の広がる」と言うわけです。

かくして与謝野晶子は、自我を社会や国家にまで拡大して、それとの一体化を説き、「自己」と一体化した社会・国家をも個人を構成するアイデンティティの一部であると唱えるのだが、しかしその拡大の範囲は国家にとどまらなかった。されあにその自我の範囲を拡大して人類と一体となるべきことを主張する。

私は自我を開きつつる。利己的と見える膚浅な「我」を越えて、既に家族我を可成り濃く容れた上に、今は私の自我が微かながら社会我、民族我、人類我の境まで延びようとして居るのを覚える。其処まで延びるのでなければ私の生甲斐が無いように想はれてならない。

自我は、どんどん広がって、地球我、宇宙我となっていきます。つまり、地球愛であり、宇宙愛です。
ここで、おもしろいのは、その「中間」に、日本愛があるところです。つまり、彼女は、日本の天皇制への恭順を、この自我から宇宙我の間にあるものとして、

  • 区別しない

ということなんですね。つまり、自分は宇宙を愛しているから、その必然的帰結として、天皇主義者なんだ、と言うわけです。
さて。天皇制の問題とはなんだったのでしょうか。

敗戦後の元日、一九四六年一月一日に公布された「新日本建設の詔書」、いわゆる天皇の「人間宣言」は、「朕ト爾等国民トノ間ノ紐帯ハ、終始相互ノ信頼ト敬愛トニ寄リテ結バレ、単ナル神話ト伝説トニ依リテ生ゼルモノニ非ズ。天皇ヲ以テ現人神トシ、且日本国民ヲ以テ他ノ民族ニ優越セル民族ニシテ、延テ世界ヲ支配スベキ運命ヲ有ストノ架空ナル観念ニ基クモノニモ非ズ」と飛べていて、まさに戦前に追求され天皇と国民との理想的な関係像である信義則的関係を公的に追認するものとなっていた。

ここに書いてあることは、かなり重要なポイントであることが分かるであろう。天皇を「神様」として崇めたようとしたり、天皇が「世界の支配者」でなければならない、といったような、

  • あまりにも超絶として、一般対象と「隔絶」した世界に突き抜けてしまった

存在として考えるのではなく、むしろ、お互いで、この人倫社会の「正義」を協同で実現していくような、信頼ある「パートナー」として、認め励まし合う関係こそ、目指すべき関係だ、ということであろう(まさに、戦後のテレビの中で、いつもニコニコしている「隣の家のおじいちゃん、おばあちゃん」こそが日本の「親近感」のある天皇に求められた「徳」だった、ということなのであろう。

田中耕太郎は教育基本法が制定された直後、「元来教育勅語はその内容たる徳目においては「古今ニ通シテ謬ラス中外に施シテ悖ラ」ざる、人倫の大本即ち道徳的自然法を宣明するものであり」、「これを反古同様に廃棄してしもうことは絶対に誤りといはなければならない」と述べながらも、「それが心理にかなうが故でなく、神格にまで高められた天皇の命じ給うたところなるが故に我々に対し権威----道徳的の意味においての----を有するとする考え方」が誤っていたと告白した。実は神格的な天皇の存在こそが、自然法的道徳原理への信奉を可能にさせたのであったが、田中はこの自然法の認識方法自体を認めようとはしなかったのである。

掲題の著者が言いたいのは、ようするに、戦前も現在の平和憲法の理念にかなり近い形で考えていた人は戦前にもいた、ということなのであろう。
その場合、掲題の著者の重点の置き方は、国家の「善」が、その「延長」として、「世界平和」と「等価」に主張されていることである。つまり、そういった認識の延長で、多くの戦前の日本人は、天皇制をとらえようとした。
つまり、天皇は、

  • 世界平和の「象徴」

という理念を、なんとかして、定義し認識しようとした。
しかし、結果としては、天皇は「神」であると文部省に子供の頃から、脳にすりこまれて、世界を統べる軍神である天皇の下に、世界中の人々を平伏させるために、世界中を敵に回して戦争をしかけ、台湾、韓国、満洲を献上し、それをさらに世界中に広げようとアメリカに仕掛けた、と。
いずれにしろ、政治は、その政治を担う個人の「人となり」が、大きく依存する。どんなに大金持ちの地元の資産家でも、性根が鬼畜だったら、さんざん、地元の平和をぶっこわして、お金をちょろまかして、地元を焼け野原にしてトンズラするであろう。そう考えるなら、とにかく、篤実家というのは、まったくそうで、お金なんかなくても、変な知識をバカみたいにためこんでなくても、実直に真面目に生きてくれる人なら、なんとかなる、ということなわけである。
しかし、戦後においても、国旗国家法によって、高校の先生の「口元チェック」なんかをやっているところを見ると、あいかわらず、外面重視、ご真影に向かっての、御辞儀の角度で、

  • 出世

が決まるような、一種の「ポピュリズム」的な、「形式」的愛国心アッピール競争の過激化をもたらすわけで、特に、今はSNSの時代だけに、すぐに

  • 非国民

とか言われて、特高に密告される、戦前政治が復活するのかもしれません...。

皇国日本のデモクラシー 個人創造の思想史

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