天皇制と私たち

ここのところ、木村政彦の評伝の本を読んでいろいろ書いているのだが、彼は戦前の産まれでありながら、ほとんど天皇制にやられていない。日本人でありながら、ほとんど、天皇制に「従って」生きていた、という姿が見えない。
これってなんなのだろう、と思うのである。私たちの通常の観念からいうと、戦前は、左翼や共産党員でもない限り、みんな天皇制のことばかり考えていたのではないか、そんなことばかりを口にしていたんじゃないのか、という通念がある。実際、映画を見ても、戦争に向かう若者が、そういったことを口にする場面ばかり描かれる。
ところが、木村には、そういった姿が「みじん」も見られない。そこに何があるのだろう、と思うわけである。

木村政彦の生家は、熊本を流れる緑川と加勢川という大きな川からそれぞれ一五〇メートルほどのちょうど真ん中あたりにあり、家の一〇メートル横には加勢川の運河を利用した貯木場があって、大量の材木が常時ゆらゆらと浮いていた。ここは家具職人の町でもあり、その材料が上流から運ばれてきて置いてあったのだ。
この加勢川で、父泰蔵は砂利採りを生業にしていた。界隈には六つの仲買業者があり、それぞれ夫の一人で、この地方では貧乏人の代名詞として蔑まれる最下層の家柄だった。
収入は、川舟一杯の砂利を採っての日収一円だけだった。
この稼ぎではとても家族を養えず、木村少年も、小学校に上がる頃には土曜の午後と日曜、そして夏休みや冬休みには毎日この砂利採りを手伝わされるようになった。蔑まれる職業ゆえ、砂利採りをしている姿を見られるのが子供心に恥ずかしく、木村は手ぬぐいで顔を隠しながらやっていた。

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

木村の家は貧しかった。究極的に貧しかった。そして、親がやっている仕事は、人に蔑まれる「最下層」の仕事であった。
確かに、彼は学校に通う。高校も、兄がアルバイトをして学費を稼いでもらって、通い、柔道部で活躍した。
そうであるからして、彼は、そもそも、大学に行けるとまったく思っていない。つまり、最初から、彼は、進学をあきらめている。そういう観念で生きている。つまり、普通の人が大学に行く可能性を考えながら、勉強をして、高校生活を送っているのと違うわけである。

すでに早稲田、慶応、明治など、官立以外の全国のほとんどの大学がスカウトにきていた。そして入学金も授業料も免除すると言っていたが、木村家は貧しすぎた。
両親は牛島に言った。
できれば進学させてやりたいが、金銭的なことを考えるととても無理です、と。
授業料が免除されても、下宿代はもちろん食費すら仕送りできないのだ。鎮西中学の学費でさえ兄が新聞配達をして払っていた。政彦本人も柔道は中学まででやめることを承知しているという。
木村政彦はなぜ力道山を殺さなかったのか

自分はいつか、大学に行くと考えて、高校で勉強をしている人は、その大学に入って、何を学ぶのかを考えるのだろう。そういった延長に、国家とか天皇とかが、あらわれてくる。しかし、そんなことを最初からあきらめていた人が、たまたま、自分の素質を見込んでくれて、大学に生活費込みで、連れて行ってくれた、というにすぎず、そもそも、天皇への

  • 心酔

がない。徹底的に足りない。むしろ、おちこぼれとして、学校システムは彼を「助けなかった」のである!
彼を大学に迎えてくれたのは、上記の引用にある、同郷の熊本出身の猪熊であった。そういう意味で、木村は猪熊を死ぬまで、弟子と師匠の関係を貫くし(晩年は、距離を置いて生きたようだが)、その猪熊はズブズブの天皇主義者なのだが、なぜか木村自身のその「師弟」関係は、天皇にまで繋がらない。つまり、

  • 崇拝:木村 --> 猪熊
  • 崇拝:猪熊 --> 昭和天皇

であるにもかかわらず、

とならないのである。
(前回書いた、天下統一後の「完全順序構造」は、実は、「末端」において、「切れて」いる!)
私はここに、「日本システム」の秘密があるんじゃないか、と思っている。
ここで、注意しておきたいことは、別に木村自身は、昭和天皇に悪感情をもっているとか、そういうのではないのである。というのは、彼は、死ぬまで、昭和天皇の前で行った御前試合で優勝して昭和天皇からもらった、手刀を家の床の間に飾っていたわけで、それなりのリスペクトはあったのであろう。しかし、なんというか、そういったことと、「国家への感謝」のようなものから連続する、昭和天皇を神として崇拝するような「政治運動」とか完全にディスコミットメントしている。
つまり、彼自身の子供時代を考えても、基本的に彼のような「身分」の人たちは、天皇システムから

  • 見捨てられて

生きているわけです。高校も行きたくてもいけない。大学も行きたくてもいけない。じゃあ、その時、昭和天皇は助けてくれたか。日本国家は助けてくれたか。助けたのは、彼の兄であり、猪熊という「個人」でしかなかった。国家も天皇も、まったく関心も寄せてくれなかった。
しかし、逆に、私は、ここにこそ日本の「可能性」を読んでしまう。
つまり、左翼でもない、大衆の中に、天皇と「まったく関係なく生きている」人たちが「いる」という可能性は、私のような人間には、非常に大きな日本という国の可能性を考えさせられるわけです。

東島 あと與那覇さんがいま言われた、平時における日常的困窮者への視線は意外なほど冷たいというのが、じつは私が『<つながり>の精神史』の「合力から義損へ」の章で述べた核心部分でもありました。東日本大震災の現地の避難所で、川浪剛さんが、自分がホームレス支援団体に所属している旨を名乗ったら、「口元をニヤリと緩めた世話方の人があった。あのような人々(引用者註=ホームレス)といまの私たちの置かれた状況とはまったく違う。自己責任と天災で家を失ったのは別もの。とても失礼だ、ということを存外に含んでいるかのようだった」という状況です。

日本の起源 (atプラス叢書05)

日本の起源 (atプラス叢書05)

私が「復興」という言葉が嫌いなのは、一体、復興とは何を元に戻そうとしているのかが、疑わしいからである。日本は中国というより、むしろ、インドに似ている。複雑で、多岐に渡る

  • 差別体系

が私たちの「序列」意識を形成していて、元に戻ると言ったときに、この「序列」を前の形に復元することを言っているように聞こえるわけで、果して、そのようなものの「復元」が、そこまで

  • 喜ばしい

ことなのか、がどうしても疑わしいわけである。

那覇 むしろ住友さんが注目するのは、吉野や美濃部達吉との対比で「保守反動のわるい人」というイメージだった上杉慎吉で、彼の天皇主権説は、じつは大正期における直接民主制的な志向とつながっていた。参加資格が上流階級に限られ、おまけに私的利害を代表する「党派」という不純な媒介物によって議論が歪められる議会とは異なり、あまねく庶民の民意や心情を酌みとってくださる天皇陛下こそが完全なる公共性の担い手、いわばルソー的な一般意志(上杉の用語では、体制意志)の体現者たりえるのだと。
日本の起源 (atプラス叢書05)

でも、そうなのだろうか? 本当にそうなのだろうか。上記の例で言うなら、木村政彦は中学も行けず、高校も行けず、それは、むしろ、

  • 天皇に(=国家に)見捨てられた

ということを意味しているのではないか。むしろ、天皇であり、国家システムとは、多くの「国民」を「捨てる」ことによって成立しているのではないのか。

那覇 戦前の日本人があくまで君主政の可能態として夢見ていたことが、とっくの昔に現実態になっている。これが、帝国日本が「儒教化の後進国」だったことの含意です。だとすると、日本人が「われわれは欧米列強の帝国主義を超克して、東亜新秩序を追求している」などと言っても、それは西洋化と称しつつ中途半端な中国化(儒教化)しかしていない日本が、釈迦に説法というか「孔子に説教」している状態にしか、じつのところならないのではないか。
これは、とくに朝鮮半島で顕著です。慎蒼宇(シンチャンウ)さんの『植民地朝鮮の警察と民衆世界』によると、朝鮮の徳治主義とはすごいもので、なんと叛乱が起きても説諭使(せつゆし)を送って説得するのだそうです。日本の右翼が天皇に仮託する「権力ではなく心服による秩序」を、わりとガチンコでやっていた。二・二六の青年将校が幻想し、実現した、「やむにやまれず決起に至った、われわれの内面に思いを馳せてくださる陛下」がちゃんといたわけです。日本の陛下は「鎮圧せよ」でおしまいでしたが(笑)。
だから日本による併合の過程で義兵運動が起きても、朝鮮の王室は当初、説諭使を派遣してなんとか収めようとする。ところが統監府(併合後に総督府)の日本人は、なにせ儒教化の後進国で徳治社会のしくみがわかっていないから、「弾圧しろと命令したのに、なんで話し合いをしてるんだ。朝鮮人は全員反日勢力とグルなのか」となってしまうのですね。そうやって、もともとあった徳治のメカニズムを破壊するから怨みを買ってゆくのに、そもそもそれを自覚きない。
日本の起源 (atプラス叢書05)

つまり言いたいのは、日本は、中国や朝鮮に比べて、「後進国」だということである。圧倒的に、徳治政治を理解していない。理解していないのに、これがなんなのかを勉強しない。欧米のポストモダンを勉強すれば、なんでも分かった気になっている。だから、韓国や中国での植民地政策は、徹底した、現地の人からの

  • 憎悪

だけを残して終わることになる。今の日本政治でもそうだ。まったくもって、「徳治政治」をやる気がない。全部、エリート主義であり、東大話法ではないか。口先で、適当なことを言って、まともに、議論する気がない。庶民の言葉を聞く気がない。答える気がない。対話する気がない。自分が言うことが、国家支配者の側が気に入ることだけを言っていたい。原発は必要だとか。しかし、そう言うことによって、庶民とまともに話し合う気はない。そもそも、庶民を説得できるとも思っていない。だって、圧倒的に庶民を

  • 捨てる

ために言っているのだから。原発を動かして、地域住民を「捨てる」。自分の「動機」は、自分さえ良ければいいと思っている。地域がどうなろうが、地方にある原発が動いて、都会で大量に電気を使って、娯楽を楽しみたい。リニア新幹線を動かしたい。
つまり、彼らは、「徳治政治」をやる気がない。地域住民と「対話」をする気がないのだ。説得できると思っていない。説得の対象だと思っていない。国家は、気にいらないものを、

  • 捨てた国民に押し付ける

そうして、自分の享楽を満足させるために生きようとする、非倫理的集団だということである。
そういった鬼畜な集団である、エリートにとって、天皇とは、非常に便利な「政治の道具」である。

那覇 東日本大震災は期せずして、天皇は「空虚だからいい」という感覚を多くの日本人に思い出させた節があります。3・11のあとに、管直人首相(当時)が被災地に行くと評判がわるい。彼には実権があって、政治的な問題の当事者から、「支持率をあげる打算で来たんだろう」「そもそもこうなったのもおまえのせいだ」という反感がさきに立つ。ところが天皇陛下が行くとそういうことは感じない。象徴天皇は「空虚な中心」の最高度の形態から。本当かなんて誰もわからないけど、とにかくこの方は一切の私心なく、純粋に国民を哀れんで来てくださったのだと感じる。
日本の起源 (atプラス叢書05)

那覇 露骨に言えば、全国の学校で「あの戦争を正義の戦争だと言ってきましたが、じつは間違いでした。日本人もたくさん死にましたが、もっといっぱい中国人を殺しています。われわれ日本人は全員反省しないといけないのです」と教え込んでみんなを平和主義者にするのと、「みなさん同様、陛下も内心は戦争を望んでおられなくて、ずっと心苦しい思いをされていました。だから、ご聖断を下されて降伏したのです」というやり方で同じところに持っていくのと、どちらが手っ取り早く実行性があるかと言えば、後者だったということですね。
そのストーリーは端的に嘘なので、歴史学者としては悔しいわけですけど、しかしどうやっても「天皇の物語」の遡及力に勝てる代替物が見つからない。大正期に続いてここでも、「速度の政治」の要請を満たすのは君主制だった。
日本の起源 (atプラス叢書05)

自分たちの非人道的な政策の鬼畜っぷりを、覆い隠すために、天皇は常に、政治的に利用される。天皇は、エリート政治の「悪」の、後始末をするために、常に、政治の場面で、利用される。
気に入らないこと、政治に速度が求められる決断をすること、こういった場合に、常に天皇が、全面に呼び出されて、国民を動機づける。
私は、原発再稼働や、海外への原発マーケティングで、さらに、天皇の政治利用が行われるのではないかと思っている。今、日本の原発が海外で販促されているが、海外の原発放射性廃棄物は、日本が引き取ることが前提に話されているのだという。果して、この廃棄物をどこの自治体が引き取るというのだろうか。
私はこのために、天皇によって「各地方自治体にお願い」をする役割として、天皇が政治的に使われるのでないか、と思っている。しかし、そんなことでいいのか、とは思うのである。自分たちのことは、自分たちで決めないでどうするのか。いつまでも、天皇の徳治政治性を利用した、エリートの「悪」と「嘘」の政治で、日本はやっていくのか。いいかげん、日本の政治そのものが、正面から「徳治政治」を実行しようと、なぜ考えないのか。
私が思ったのは、上記に最初に考えたように、天皇の「影響力」の

に存在した日本人が存在する、という事実であり、もしかしたら、今後、そういう人が重要になってくるのではないか、とも思ったわけである。彼らの天皇制に対する「薄い」コミットメントが、逆に、日本社会の歪んだ力学を変えていてくれるのではないか、と。そうはいっても、このことを本気で考えている人はあまりいないのであろう...。