信用できない

ある官僚が匿名ブログで、「復興は不要だと正論を言わない政治家は死ねばいい」と書いていたことがばれた記事が、話題になっている。

「復興は不要だ」との書き込みは、2011年9月のもの。被災地が「もともと過疎地」だというのが根拠だ。今年8月には、高齢者に対して「早く死ねよ」などと書き込んだ。
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しかし、私たちは、むしろ、3・11以前、日本の不況脱出の手段として、

を声高に唱えていた連中を「たくさん」知っている。こういった都会人が、地方に税金を回すのは無駄だと言って、地方の公共施設の維持をあきらめて、日本の人口をさらに、都会に集中させて、今以上に都会の労働人口を増やし、都会にあらゆる「税金」を集中させることで、日本の「失われた20年」を脱出させようと主張していた連中をたくさん知っている。
その時、私が思ったのは、「ああ、こういった連中と、私は戦っていくんだな」という素朴な憎しみだった。くやしい気持ちをどこかに持ちながら、でも、いつか、こういった連中を、見返してやる、と思ったものである。
ところが、3・11で、福島第一の事故が起きて、こういった連中がなんと言い始めたか。「福島を救いたい」だってさ。
私は「本当かなあ」と疑わずにはいられなかった。だって、原発は、ひとたび事故が起きれば、悲惨な結果になることは、だれもが知っていたはずではないか。だというのに、今ごろ「福島を救いたい」とか、なに言っているんだろう、と。
こういった連中は、むしろ「これ幸い」と思っているんじゃないのだろうか。だって、3・11以前は、地方に使う公共事業のお金が「もったいない」「無駄だ」と言っていた連中ですよ。地方を切り捨てて、都会をもっと「幸せな場所にしよう」と本気で言っていた人たちですよ。むしろ、こういう人たちは、これを機会に、もっと地方から人がいなくなり、都会に集中すれば、地方に税金を使わなくてすむようになって、自分たちが主張していた政策が実行に移せると思ったわけでしょう。
私がこう思うことを確信させるのは、彼らが原発を「必要悪」だと言っているところである。つまり、日本は原発をなくせない、と言っているわけである。もっと、もっと、日本は電気を民間が使うのだから、もっと、もっと、日本に原発が必要になる、と。当然、原発再稼働をするにきまっている、と。その

  • 手段

として、彼らは「地方を捨てろ」と言ってきたわけであろう。こういった連中が、本当に「福島を救いたい」と思っていると思いますかね。むしろ、これ幸いと、福島や新潟を「原発のゴミ捨て場」として、あらゆる、産廃の捨て場所として、

  • 福島と新潟を人間の住まない場所として、みんなで捨てましょう

その代わりに、ここに、大量の原発を作って、今まで以上に、どんどん電気を都会に送りましょう。そうして、都会を今以上に幸せにしよう。と心のどこかで思っているに決まっているんじゃないのか。

  • こうして、福島と新潟を、人の住めない「ゴミ捨て場」にして、たまに、恐いもの見たさに訪れる観光地に、原発を使って悪ふざけのできる遊びをさせてあげる場所

にしよう、と。

  • みんなでこの土地に住むのをあきらめましょう

と。
私は、たとえ、安全厨の人たちでも、彼らが地方出身者なら、なんとなく、気持ちは理解できる、と思っているところがある。というのは、彼らには、どこかしら、「地元愛」が感じられるからだ。
ところが、都会出身者が、安全厨になると、私は、一切、信用していない。どうせお金儲けをしたいんだろう、としか思わない。
私は、こういった連中の悪ふざけのために、福島や新潟の土地を汚されるのがくやしい。そして、これからも、こうやって、この土地が、都会の「手段」として使われていくのかと思うと、くやしい。
そして、都会人は、福島の人への「懺悔」として、福島産の農産物を、流通の値段の倍で、毎日、買って食べる義務があると思っている。自分たちの享楽のために起きた悲劇なのだから、当然、自分たちで、その責任はつぐなうべきだと思っている。
しかし、そんなふうに言ってみたところで、私たちに一体、なにができるのだろうか。せいぜい、「自分は反対だ」「自分は信用できない」と言い続けることくらいしかできないのかもしれない。たとえ、最後の一人になっても...。