谷口りゅう一郎『横超の倫理』

リチャード・ローティのリベラル・ユートピア構想は、多くの人たちが注目し、考察していながら、結局のところ、論点が拡散してしまい、問題のポイントが絞られない印象を受ける。
つまり、ローティの「可能性の中心」と言ってもいい、

  • 水平思考

については、非常に可能性のあるヴィジョンであり、興味深いのだが、ローティの場合は、そういったアイデアと、別の、彼個人の独特のアイデアとの搦(から)め手で攻めてくるだけに、扱いに困るわけである。

本書では多元的社会における公共圏の倫理の形成の過程を「横超(おうちょう)」という言葉で表現している。耳慣れないこの言葉の由来は親鸞によるものであるが、本書で使用する「横超」は、浄土真宗における「横超」とは直接関係しない。浄土真宗が説く横超は、迷いの凡夫が、仏の境地に向かって、難題を一つ一つ解決して順序よく段階を竪(たて)に一つ一つ登りつめて行くのでなく、凡夫が凡夫のままで一切の段階を飛び越えて一挙に仏の境地に近づくということ、つまり一挙に横飛びをする、ないし「横さまに越える」ということをいう。
本書で私が援用する横超と共鳴するところは、この「横さまに超える」というところにある。本書で援用する「横超」とは、われわれが、共通(公共)の諸課題や諸問題を帰結すべく協働するに当たって、われわれ人間の経験を超越した倫理道徳的な原理・原則との符合を志向するのではない。そのような志向は、超越の志向である。これに対して、横超とは、「横への広がり」ないし異質で見知らぬ者同士の連帯を志向する。すなわち、それは、個々人が、自分が置かれた倫理道徳的な状況への道徳的判断と正当化を、超越的な道徳原理に照らし合わせることによってでなく、異質な他者や見知らぬ者たちへの共感によって、自己の内的規制としての道徳を超え出て彼らと結びつき、分かち合い、連帯するという、自己の道徳の教会の開放と拡大のプロセスを意味する。それは、他者を上から見下ろすのでもなく、下から見上げるのでもない。自己の道徳の境界を越え出て横並びの他者と連帯すること、すなわち「横へ超える」ことが、私が「横超」という言葉に込める意味である。

上記の引用は、まさに、ローティの言う「水平思考」の非常に重要なポイントを見事に切り出している。
言ってみれば、ローティの革命は「<普通>革命」なのだ。
なんの特徴もない、なんの教養もない、ただの「迷いの凡夫」が、なぜか、

  • 一気

に、「横超」にたどりつく。
こういったヴィジョンを示している、という意味において、ローティの考察は現在においても、批評的アクティビティをもっている。
しかし。
多くの人たちが指摘しているように、ローティはこれを言うために、さまざまな、「からくり」を形而上学的に作っていく。それは、彼なりの、ある種の「バランス感覚」なのであろうが、ということはつまり、彼は彼なりに、なんらかの

を、つまり、「普遍的」な認識のようなものを示そうとしている、ということになるのであろう...。
例えば、上記の引用において、何が問題になるか。言うまでもなく、他者への「共感」であり「連帯」である。つまり、それが、どういった「楽観的」な見通しを介すことなく、実現されるのか。
しかし、こういったことを、徹底して考察してきたのは、言うまでもなく、哲学ではない。

である。
カントの純粋理性批判は明らかに、建築の比喩や、裁判の比喩に満ちている。このことは何を意味しているのか。
たとえば、なぜ、哲学以前に「資本論」なのか。なぜ、哲学以前に「政治」なのか。
例えば、カール・シュミットの『政治的なものの概念』は、次のような認識に強いられて語っていることを告白する。

これに反し、国家と社会とが浸透しあうのに応じて、国家的=政治的という等値は正しさを失ない、誤った方向に導くものとなる。すなわち、民主的に組織され共同社会において必然的に生じるように、すべてこれまでは国家的な問題が、社会的なものとなり、逆に、すべてこれまでは「たんに」社会的な問題が、国家的なものとなるのである。そのばあいには、これまでは「中立的な」領域----宗教、文化、教養、経済----が、非国家的、非政治的という意味で、「中立」であることをやめてしまう。重要な諸領域のこのような中性化、非政治化に対する論争的な対立概念として、いかなる領域に対しても無関心でなく、潜在的には、すべての領域を掌握する、国家と社会との同一性としての全体国家が登場する。そこでは、したがって、あらゆることが、少なくとも可能性としては、政治的なのであり、国家を引きあいにだすことではもはや、「政治的なもの」の特殊な区別指標を基礎づけることが不可能となるのである。

政治的なものの概念

政治的なものの概念

カール・シュミットは、ここで非常に重要なことを示唆している。現代社会において、そもそも、中世以前の個人が、分裂して存在しえた時代の「哲学」を、今に敷衍することは、

  • 政治的に不正確

だと、明確に言っている。このことは、リチャード・ローティの「哲学批判」が、どこか、お花畑的な無邪気な幼稚さを含意していることを示す。
つまり、彼は、彼以前の哲学が、そういったミドル・エージの時代の「比喩」として、成立しえた「政治的な何か」を、現代の指標によって、嘲笑することで、何かを言えた気になっているのだ。
しかし、だとするなら、カール・シュミットが、そういった、現代という時代において、成立しうる「新たな」

  • 政治的なもの

の定義というのが、どういうものなのかを理解する必要がある。

政治的なものという概念規定は、とくに政治的な諸範疇をみいだし確定することによって獲得されうる。すなわち、政治的なものには、それに特有の標識----人間の思考や行動のさまざまな、相対的に独立した領域、とくに道徳的、美的、経済的なものに対して独自の仕方で作用する----があるのである。したがって、政治的なものは、特有の意味で、政治的な行動がすべてそこに帰着しうるように、それに固有の究極的な区別のなかに求められなければならない。道徳的なものの領域においてあ、究極的区別とは、善と悪とであり、美的なものにおいては美と醜、経済的なものにおいては利と害、たとえば採算がとれる、とれない、であるとしよう。そのさい問題なのは、このような他の諸区別と、同種でも類似でもないが、しかもそれらに依存せずに独立であって、さらにそれ自身ただちに分明であるような特殊な区別が、政治的なものの単純な標識として存在するかどうか、またそれはどういう点なのか、ということである。
政治的な行動や動機の基因と考えられる、特殊政治的な区別とは、友と敵という区別である。
政治的なものの概念

ここで、「友」と「敵」という二つの概念が提示されているわけだが、ここで大事なのは「友」という概念である。
なぜか。
というのは、私たちが相手を「友」と呼ぶためには、どんな条件が必要であろうか。多くの場合、そこには、お互いの個人的な「接触」が求められているのではないか。
話したことはあるか。自分が話しかけて、相手が自分に話しかけられていることを認識して、この自分に、相手がなんらかの「反応」を返した、というのを受けて、そういった「経験」を経ることなしに、相手を

  • 友達

と思うということは、ありうるであろうか?
もっと言ってみよう。私たちは、そもそも、「その人」と指示できない人を「友達」と呼ぶか? いや、呼ぶことは「倫理的」に許されるのだろうか?
確かに、地球の反対側には、人が住んでいる。しかし、私は、そこに行ったこともなければ、テレビ電話で、その地域の人と話したこともない。おそらく、そこに住んでいる人たちも、住めば都、みたいなもので、仲間にしてもらえば、それなりに、いい奴らなのだろう。
しかし、である。

私は、その人の「顔」さえ、「名前」さえ、知らない。そういった「人」について、私が、彼らの「人となり」を語ることは、倫理的に許されるのであろうか?
つまり、いい悪いは別にして、私たちは、そういった人たちを、「友」と呼ぶことが、できないのだ。

それでは、いったいどのようにアイロニストの再記述が他者に加えられる苦しみや辱めの回避を拡大するのだろうか。それは、アイロニストがリベラルになることで可能となる、というのがローティの教説である。すなわち、アイロニストが、J・S・ミル=シュクラーによって示された、「他者に加えられる苦しみや辱めを回避し減らすこと」というリベラリズムの終局の用語をアイロニスト自身の終局の用語の内に編み込むことによってである。こうしてアイロニズムは、リベラリズムと縫合されるだけではなく、自らの終局の用語の中でも公共的な活動に関わる部分についての再記述が他者に与えてしまう苦しみや辱めを回避する保証を得ようとするのである。アイロニストは、再記述には他者を辱める側面があることを認めるがゆえに、自己再記述を私事化しなければならず、この私事化が「政治的なリベラリズムにとっての脅威となること」が阻止されうるのだ、とローティは強調する。要するに、リベラルなアイロニストとは、そうした私的な自己再記述によって他者へしばしば与えられる屈辱を最悪の残酷さとみなし、それを回避することに心を砕こうとする人びと、つまり「あらかじめ他者と共有する何らかの認識のゆえに人間の連帯の感覚を持つのではなく、他者の生の具体的な細部との想像上の同一化によって、その感覚を得る人物なのである」。その意味で、彼らは、「新しい私的な終局の用語を作り上げること」と、「新しい公共的な終局の用語作りあげること」の「双方を共に必要としている」のである。

言うまでもないが、ローティの、ここで言う「リベラリズム」としての、「残酷さ」の回避とは、功利主義のことである。むしろ、功利主義の「定義」だと言ってもいい。
しかし、こういった功利主義的な主張が、カール・シュミットの「政治的なるもの」の定義から考えたとき、しょせんはこれも、一種の

  • (政治的な)戦略の一つ

でしかないことは言うまでもないであろう。
シュミットにとって大事なことは、「友」のカテゴリーにおいて、必然的に「友でない」と呼ばれざるをえない人たちの存在が前提にされている、ことである。
つまり、絶対に、どんなふうにしても、「友でない」と呼ばざるをえない人たちの存在を「前提」にしない政治学は、ありえないのだ。つまり、

  • そういった人たちに、どのようにアクセスするのか

の「ゲーム論」的な意味においての「戦略」が、どんな形であれ、考察されないわけにはいかない。
言ってみれば、ローティの主張していることは、この、シュミットの政治理論が必然的に要請してくるアポリアに対しての、「戦略」の一つを例示した、ということを意味しているにすぎない。
つまり、ローティがどんなに「深淵」な哲学理論の体系的結果のように導いているかのような姿勢を演じようが、実際にやっていることは、いわば、政治学の一つの分派的な主張でしかない、ということなのだ。
このように考えたとき、ローティの言う「再記述」というものがなんなのか、がよく分かるのではないか。
ローティの言う「再記述」とは、私たちが実践的に生きる一瞬一瞬において、私たち自身がもつ「友(とも)」のカテゴリーが刷新されていく、そのものと考えられる。つまり「友(とも)」とは、実際に私たちが、こうして生きている一瞬一瞬において、増えていき、また、減っていく、「知人」「友達」の変遷の過程そのものによって、どんどん変わっていく。なにか固定的なものがあると考えることができない。
しかし、こうやって、シュミットの「政治的なものの概念」と、ローティの「アイロニスト」を並べてみたとき、いかに、ローティの

  • 道徳主義

が「幼稚」に見えるかが分かるであろう。ローティは人々に「残酷」であることを忌避するように主張し、それが

  • 連帯

の条件であると主張する。しかし、である。残酷であることを人は止められるだろうか。もっと言えば、私たちが、どうして「道徳的」に、四六時中、生きられるとローティは考えるのだろうか。
こう並べてみると、いかに、ローティがシュミットの言う友敵理論を分かっていないか、が分からないか。
たとえば、これを逆に問うてみることによって、よく分かるかもしれない。つまり、「敵(てき)」とは何か、と。
敵とは「友でない」ことを意味するが、そうしたとき、そもそも、なぜ「友」は「友」なのか、という問題が浮上してくる。ある人が「友」であるということは、多くの場合、相互に「友」だと思っていることを意味する。それは、なんらかの「応答」において、「予想」ができる、ということを意味する。しかし、たんに「予想」ができる、というだけではない。その「応答」が、

  • 敵でない

という「印(しるし)」によって、刻まれている、ということである。
つまり、敵とは、この場合、その「印(しるし)」によって、外部に、はじき飛ばされた存在であることを意味する。
例えば、これをツイッター上における、友敵問題として考えこともできる。
安全厨にとって、「存在するはずもない<不安>を語って、人々を怖がらせようとしている」連中は

  • 敵(てき)

であり、その「考え」に、賛同する連中が、それぞれ、フォローし合うことによって

  • 友(とも)共同体

を作っている。
しかし、そもそも、「存在するはずもない<不安>を語って、人々を怖がらせようとしている」連中は、いるのだろうか? いや。いるかいないかを

  • 問う

ような地平においては、そもそも「敵」を問えない、のである。つまり、彼らがそのように「問う」ことと、敵認定されていることと、

  • 自分たちが(そういった連中と「戦う」)友

の共同体であることは、それぞれ区別できない形で繋がっている。つまり、この三つは、最初から分けられない。
つまり、これは「道徳運動」なのだから、その教義(=ドグマ)を「疑問視」するところから始める宗教は宗教に値しない、ということである。
このことは、そもそもツイッター上において、「友」「敵」の延長で発言している一切は、それゆえに、論争の程をなしていない。いや。なしえない。もしも、なんらかの

  • フェア

な場所から発言をしたいなら、自らをそういった「場所」に置くことなしに、ありえない。つまり、ツイッター上の議論の

  • 不可能性

を結果する。もしも、なにか「フェア」な議論をやりたいと、あなたが考えるのであれば、

  • すべての人から「嫌われる」

ことを覚悟しない限り、絶対に無理である。だれかに「認められたい」「承認されたい」と思っている限り、その議論は相手の主張におもねる体裁を超えることはない。つまり、それは議論ではない。
敵とはなにか。
敵とは、その「文脈」において、友とされる条件の「概念」が強いてくる何か、である。たとえば、ヒットラーナチスにおいて、アーリア人種が

という一点において、「概念」化され、ナチス党員の資格となるとき、ユダヤ人は敵を含意すると解釈される。
同じことは、戦中日本における、「非国民」認定も同様であるし、上記の例を考えれば、

  • 「存在するはずもない<不安>を語って、人々を怖がらせようとしている」連中

が、本当にいるのかいないのかもさだかでなくても、とにかく、そういった「仮想敵」が想定され、そういった「敵」と戦っているという姿勢が、

となり、「同じ」という、同じ敵と一緒に戦っている、という共通感覚を同じく感じる、という体験がお互いに伝播していくことで、再帰的に「友」感覚を強めていく。
カール・シュミットの「敵」概念は、つまりは、

  • 絶対に<嫌い>な人たち

を人々の内面に作っていく。こいつだけは、どんなことがあっても、仲が良いように見られるように、話すことをしたくない、というような。しかし、それは、いわば、その人の「友」のヤヌスの双対なのである。つまり、それは、その人の

  • 道徳

と対応している。人間は道徳的であるがゆえに、どうしても、「敵」概念を内面に育てずには、生きることができない。
しかし、そもそも、「討議」において、「友」は討議にならない。護教的な態度は、討議に向かない。
だとするなら、ツイッターのような、「仲良し」コミュニティの形成は、純粋な議論を妨げる夾雑物とならざるをえない。
ローティは、一見したところ「水平思考」による<普通>革命を提唱しておきながら、功利主義的道徳主義による

  • 残酷と共感

弁証法を人々に強いる。しかし、この要請は普通に考えて、普遍道徳的であり、強すぎる要請である。
人間は、そこまで強くない。というか、上記のシュミットの「政治的なるもの」の定義から分かるように、そもそも、そんな態度は「普通の人」には無理だし、つまりは、だれにも無理なのだ。

横超は、自己の内部規制として道徳からの自由である。この自由は、自己の道徳の境界を横へ超え出て、他者と横並びに結びついていく自由である。それは、ローティの描く「原理なき道徳」と同様、<超越>や<深淵さ>や<神>のような、自身を説明するようなものを一切持たない自己充足した、それ以外のすべてを説明できる単一の視座を中心にして描かれる円にそれらを取り込んでいくという包摂の拡大プロセスではない。
個人は、自己を自己の内側から規制する道徳や行動規範から、そして個々のコミュニティを規制している。それぞれのコミュニティに特有な道徳(これを「コミュニティ内道徳」と呼ぶことにする)から、異質な他者や異なるコミュニティの横並びの間、すなわち公共圏におおいて要求される倫理(これを特に「公共倫理」と呼ぶことにする)にまたがって存在しており、個人の道徳的自己は、マイケル・ウォルツァーがいうように、多様な「道徳の声」で構成されている。
そういった個人やコミュニティが他者や他のコミュニティへの共感を通じて、問題や課題への関心を分かち合い、それらを共通の課題として受け止めて協働すること、すなわち自己の道徳の境界を絶えず描き直すことが「横超」に込められた意味である。これは、身を投じた可謬論的多元主義を私なりに再記述したものでもある。
しかしながら、私はローティの「水平思考」に全面的に賛同してはいない。宗教的思考や心根への哀感----時間と歴史を超越した人間ならざるものによって自己と世界を理解しようとする衝動----を公共空間に持ち出してはならない(私的空間に封じ込めておくべきだ)というローティの主張には同意しない。そのような、私空間への信念の封じ込めなしで、公共を論述しようと思う(第六章)。横超とは、そうした哀感の排除を伴わないラテラルな倫理である。

では、こういったローティの不可知論の延長において、真理概念は、どのように考えられるか。
これを、古代ギリシアにおける「幾何学」の隆盛において考えてみよう。
そもそも、なぜ古代ギリシアにおいて「幾何学」がさかんになったのかと考えたとき、もっと言えば、こういった知識は、エジプト・ピラミッドを代表とした、エジプト土木学の知識だったと考えられる。
確かに、現代幾何学は、表向きは「代数学」と変わらない。つまり、論理学によって記述される。
このことを、もしも、地球人のことを知らない宇宙人が、この地球に来て、幾何学書を見ながら、図形を描いている人間を観察していた、としよう。
たしかに、幾何学は論理学によって書かれている。しかし、それを見ながら、その人間が描く図形には、その論理学的「記号」との、なにかしらの、
対応
があることに、いずれ気付くであろう。
これは、いわば、トマス・クーンの言う専門家集団における「練習問題」との対応を示唆している。
つまり「真理」ではなく「発明」と考えるわけである。
法創造説において、裁判官は判決を下すとき、常に、「真理」を創造する。つまり、真理が「あった」のではなく、裁判官が今、その瞬間、真理を「生み出した」と考えるわけである。
しかし、そうだとしても、上記における「幾何学」書には、なんらかの「真理が書かれている」と言うことには、一定の正当性があるんじゃないのか。
例えば、その宇宙人は、ずっと、その人間を観察しているとする。すると、その人間の指示によって、少しずつ、ピラミッドが作られていっていることに、その宇宙人は気付いていく、とする。そして、その宇宙人は、その人間が、なにか、紙の束のようなのを毎日眺めていることに、気付かずにはいられない。つまり、幾何学書の記述と対応して、ピラミッドが組み立てられていく、つまり、幾何学の証明として、ピラミッドが「ある」ことを認識し始める。
しかし、もちろん、宇宙人はそういった関連性に気付かないかもしれない。そして、忘れられていくのかもしれない。そういう意味において、古代ギリシアユークリッド幾何学が現代にまで残り、その「意味」を私たちが理解できるだけでなく、その発展さえも、なしていることは、一つの

  • 奇跡

とさえ言いたくなる現象なのかもしれない。
ローティの何が問題なのか。彼は哲学に「根拠がない」ことを主張するために、「根拠がない」という主張が

  • まるで「根拠がある」かのように主張

しているから、なのである。
つまり、「逆バリ」しすぎなのだ。
上記の引用でも何度も指摘されているが、ローティは、普通に考えて、あまりにも過大な道徳的要求である

  • 残酷さと共感

を人々に求めるために、そのオールタナティブとして、

  • 公的と私的の区別

を、功利主義的に「容認」する。もちろん、公的と私的の区別は必要であり、大事な社会制度であるが、ローティは、むしろこれを、

  • 連帯は「建前」でいいんだ

という意味において、認めている、ということなのである。つまり、彼の連帯は「嘘」なのだ。本当の私的な感情としては、彼らを「嫌」だと思っている。つきあいたくない、と思っている。しかしそれは、表向きの場所では、表明しない。つまり、ホンネを隠す「戦略」だということである。
ローティは、普通の人たちに、極端に高い道徳的目標を強いる

  • 代わり

に、「功利主義」という「利己主義」の名の下に、人々の「利己」性という

  • 非倫理性

を認めてしまった、ということである。つまり、彼は「悪」を「必要悪」だと言う「非倫理的道徳」を、社会の「かりそめ」の連帯として要請した、ということである。
しかし、よく考えてみよう。
だとしても、みんながそれで「幸福」になるのであれば、それでいいんじゃないのか?
この考えが「功利主義」である。
功利主義は「嘘」哲学である。嘘を言ってもいい。悪をやってもいい。つまり、「反道徳」である。反道徳が許されるのが功利主義である。では、どういった論拠によって、反道徳を認めるのか。
つまり、「みんなが幸せになる」という

  • あまりにも高すぎる「理想」

の代替として、ということである。
しかし、それはおかしくないか?
なぜなら、そもそも、そんな「高すぎる」理想を掲げるから、こんな非道な悪を受け入れなければならなくなっているのではないか?
みんなが幸せになるなんて、やれるわけがない。そもそも、お前にできるわけがない。やれるわけのないことを「やれる」と言うために、

  • 悪を認めるべきだ

というのは、主張が本末転倒していると考えるべきなんじゃないのか。

私は、こうした諸哀感公共圏において覇権をめぐって争うことには、ローティ同様、異議を唱えるが、そうした哀感を持った人々が公共空間で共通に設定された課題群としての共通理念にそれぞれの立場からどのように貢献できるか競い合うことに心を砕けばよいのだと考える。横超は、ローティの水平思考とは異なり、垂直思考を放棄しなければ代替的に成立しえない思考なのではない。それは<超越的原理>に絶大な信頼を置くことよりも、感受性を働かせることで具体的な個別の倫理道徳的事例をきめ細かに対処することに強い信頼を置くときの、他者との倫理的な協働なのである。

確かに、ローティの議論はアクロバティックである。しかし、その魔術師的な「バランス感覚」は、掲題の著者が言うような、私たち

  • 迷いの凡夫

である「普通」の人たちには、あまりにも、現実離れしている。
真理<概念>を捨てさせ、共同体的な「垂直思考」を捨てさせ、私的空間における「悪」を、公共空間において「隠す」ことによって実現させる

  • たてまえ「連帯」

が、どうして、<普通>の人の倫理であろうか。むしろ、私たちはローティにならって、ローティ流哲学という「形而上学」を超えて、彼

  • 以上

に徹底した「プラグマティズム」とはなにか、を考えていくしかない、ということなのかもしれない...。

横超の倫理: ローティ、ハイエク、シンガーを超えて

横超の倫理: ローティ、ハイエク、シンガーを超えて