渡航『やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。9』

(うーん。今回は、ある意味、作品として「成功」しているだけに、どう読むのか、という人それぞれの受け取り方が意味をもってくるのかもしれませんね...。)
主人公の高校生の比企谷八幡(ひきがやはちまん)は、自らが所属する奉仕部に、自らが推薦することで生徒会長になった一色いろは(いっしきいろは)が、尋ねてきて、依頼してきたのを、自らの意思により断る。しかし、その意図は微妙であった。

「......さっきはああ言ったけどな。それ、俺が手伝うってことじゃだめか?」
「はい?」
言われたことの意味がよくわからなかったのか、一色は小首を傾げる。まぁ、さっきあんだけ勢いつけて断ったんだ。そういうリアクションを取られても無理はない。なので、ゆっくりと噛んで含めるように説明する。
「部としてじゃなく、俺が個人的に手伝う。だから、雪ノ下と由比ヶ濱も手伝ってくれるってわけじゃない。そういうことならできなくはないと思う」

しかし、俺が一人で一色の手伝いをすることを雪ノ下たちに気取られるのを避けるには外で待ち合わせるほかない。今、雪ノ下の前で生徒会関連の依頼を受けることは酷なことだ。かといって一色の依頼をまったく受けないというのも無責任だろう。となると雪ノ下だけを外すという選択肢もあるが、それはひどい裏切りのように思える。奉仕部の現状を考えれば、この件に関しては俺が個人的に動くというのがベストな選択のはずだ。

ここでのポイントは、比企谷が雪ノ下のことを「気づかって」、彼女に言わずに、彼女に「隠して」、嘘を言って、この奉仕部への「依頼」を一人で受けることにしたことだ。
比企谷は前回の生徒会選挙でのいきさつを考え、雪ノ下が、この件に関係することは彼女にとって、残酷だ、と考える。そこで、この部の部長の彼女の前では、奉仕部として依頼を断った、というふうに見せかけて、こっそり、黙って、自分一人で「奉仕部」を行う、という判断をした、ということである。
つまり、これが

である。
しかし、この依頼は困難を極める。他校との共同でのクリスマスパーティの企画の話し合いは、予想以上に難しい展開へと進んでいく。

「ノーノー。そうじゃない」
玉縄はやけに大きな身振り手振りを交え、俺だけでなく、全体に言い聞かせるような口調で話し始めた。
ブレインストーミングはね、相手の意見を否定しないんだ。時間的問題と人員的問題で大きくできない、それじゃあどう対応していくか。そうやって議論を発展させていくんだよ。すぐに結論を出しちゃいけないんだ。だから君の意見はだめだよ」

これは、いわゆる「ダブルパインド」だ。だれでも、好きなことを言っていい、と言っておきながら、実際に言うと、それは言ってはいけない、と言う。つまり、前向き(放射能は危なくない、とか)なこと「だけ」言っていい、という意味であって、つまりは、自分が気に入らないことを言う(サヨクだとかカツドーカだとかといった)連中には、発言権はないよ、と言っているわけである。

「あの、さすがに中身決めないと人手があってもどうしようもないんだけど......」
「じゃあ、みんなで一緒に考えよう」
ほぼノータイムで返ってくる答えにさすがに絶句してしまった。
「みんなでって......。漠然と話し合っていたら一生決まらないだろ。とりあえず、こっちでやることを絞って、それを検討する形のほうが」
「でも、それって視野を狭めることになるんじゃないかな。みんなで解決する方法を模索すべきだと思うんだよ」
俺の言葉を最後まで待たずに、玉縄が遮ってくる。しかし、ここで引いてしまえばまた同じことの繰り返しになってしまう。俺は再度別の方向から反論を試みた。
「いや、でも、時間がな......」
「そうだね、それもどうするかみんなで考えないとね」
それは残業をなくす会議をするために残業をするみたいな話になってんじゃねぇか。どう言えば正しく伝わるのかがしがし頭を掻いて考えていると、それを焦燥と取ったのか、玉縄はことさら優しげな微笑みを受かべた。
「焦るのはわかるけど、頑張ってみんなでカバーしていこうよ」

相手の高校の生徒会関係者たちは、ずっと、こんな調子である。自分で何かを決めたくない。決めれば、決めた自分に責任が生まれる。しかし、他方において、全員の意見を大事にしなければならない。なんの完全に「駄目」な理由もなしに、否定してはいけない、と思っている。
そこで、全員の意見を「すべて」「少しずつ」取り込んだキメラのような巨大な企画案になる。もちろん、実現できるわけがない。時間がない。お金がない。人手がない。ところが、企画はどこまでも大きくなる。だれも、その企画を小さくすることで、他人の「願い」を潰す役割を担いたくない。

  • みんな叶えてあげたい

という姿勢を後退させることができない。ところが、そうやって生まれた仕事の雑用みたいなことだけは、他校の相手に押しつけてくる、というわけである。
おそらく、これが「民主主義」なのであろう。
例えば、民主主義においては、すべての人の意見を聞くことが前提である。つまり、すべての人の欲望を「かなえよう」とする、ということである。少なくともこれが前提である。もちろん、その中で、よりパワーをもっている人が、優先的にその「欲望」を実現していくかもしれない。しかし、他方において、「だれにも迷惑をかけず、大きな声で、その実現を求める」意見に対しては、比較的に、認められていく可能性がある。
金曜日の東京新聞だかで、ディザスター・キャピタリズム、つまり、便乗型資本主義の話が載っていた。
福島県の復興資金は、なぜか、個人の個別援助に向かわず、大企業のビックプロジェクトへの資金の還流に向かってしまう。そうすることで、恐しいことに、福島の土地で暮らしている人たちが

  • 求めている

福島人たちの生活目線のヴィジョンと関係のない、

  • 大企業が儲けやすい

社会への強制的変革が推進されてしまう。言うまでもなく、大企業が進出するということは、中小零細企業でやっていた人たちが、仕事をあきらめる、ということを意味する。つまり、地元で独立自尊でやっていた人たちに、そういったライフスタイルをやめさせることを意味する。
福島の復興は、ようするに、大企業が儲かる「システム」が拡大再生産され、もともと住んでいる地元の人たちが後景化していく、今まで通りの公共事業路線を反復するだけのものへと変貌していく。結局これも、声の大きい人たちの、

  • こうしたい

という「欲望」を潰すことをだれもできない。
しかし、よく考えると、これは恐しい事態である。だれも、意見の集約ができない。だれかが思いつきで口にした案を、ひとたび発されたら、それを、捨てることができない。だれも望んでもいないのだが、それを「証明」する方法がない。つまり、最後まで、それをやることを「前提」に行動しなければならなくなる。
言うまでもなく、しょせん、高校生にそんなお金があるわけがない。時間もあるわけがない。ところが、その会議で「やろう」となったというだけで、だれもが、その案を拒否できない。

  • だから君の意見はだめだよ

一切の後向きの意見は、たんに「前向きでない」というだけで、厳しく「非難」される。しかし、このプロジェクトが失敗して、大量の借金が残ったとき、一体、だれがその支払いをするのか。膨大な時間のかかる作業が残ったとき、勉強が仕事のはずの彼らは、どうやって、その作業を勉強の合間に行うのか。
ここに、アポリアがある。
高校生はしょせん、子どもである。つまり、保護者に守られる立場の人間たちである。つまり、そもそも、彼らには、自分で「決められる」限界があるのだ!
ここで、登場するのが、平塚静(ひらつかしずか)というクラスの担任の先生である。

「どうかね、調子は」
それは何に対する問いだろうか。前後の文脈がないので、何とも言えないが、時期的なことを考えればクリスマスイベントのことだと思った。
「結構やばいです」
「......ふむ」
平塚先生はそっぽを向いて、ふっと煙を吐く。そして、俺へと顔を向けた。
「何がやばい?」
「何がって言われても一概には......」
「まぁ、話してみたまえ」
「はあ、じゃあ......」
何から話したもんかと思いながら、俺は口を開く。

ここは、大変印象的な場面だ。あれだけ、雪ノ下に対して事実を隠そうとしていた比企谷が、こと、先生の前では、素直に何もかもを話す。これが、このラノベの特徴だ。つまり、非常に「教育」的なのだ。
なぜ、比企谷は、先生に全てを打ち明けるのか。
しかし、逆に考えてみよう。この危機的状況において、比企谷は、この<自らが招いた>危機を自らで解決することができない。この状況は、先生にとって、どのように見えているのか、と。

「そうだな......。例えば、君が奉仕部としてではなく、単独で一色を手伝っている理由、これについて考えてみよう。これは奉仕部のため、あるいは雪ノ下のためだ」

先生の視点から考えたとき、生徒である比企谷が思っているほど、この状況は、まだ、危機的とまでは言えない。教師は、給料をもらう、学校の権力者の一人である。彼らは、そもそも、生徒の「指導」が仕事である。彼らの頭の中において、生徒が「失敗」することは、前提にある。生徒が、トラブルにまきこまれることは、半分、織り込みずみである。子どもの失敗は

  • たいしたことでない

のだ。生徒である比企谷が、どれだけこの事態を大きな危機と感じていたとしても、いざとなったら、学校を通して、公的機関の権力を使って、お金を引き出し、労働力を外部から集めて、トラブルを解決してもいい。
しかし、である。
教師は、言わば「もっと重要なこと」を常に、頭の中で考えている。
それは、何か。
「教育」である。
先生が注目するのは、比企谷のこの「奉仕部」としての「活動」に、雪ノ下がハブられている、ことである。平塚先生は、そこにしか興味がない。そもそも、なぜ比企谷が「苦しんでいる」のか? それは、「全て」雪ノ下の「ため」である。比企谷が雪ノ下のことを「かわいそう」と思って、彼女に<隠して>行動している「から」ということである。
教師にとって、常に考えていることは、「それが教育的な説明のつくことか」である。もし比企谷が「奉仕部」という部活動の

で行為している限り、国家権力を使って、いくらでも握りつぶせる。ところが、そういったものと完全に離れて、「独自」の行動としてやっている、となると、なかなか、世間に説明のつかない領域を侵犯している可能性がある。
大事なポイントは、部活動において、「なぜその部は承認されているのか」という正当性(=正統性)に関係してくる。比企谷が一人で行動してることを、この「活動」が部活動として認められるかは微妙だ。なぜなら、部活動は、あくまで、規定の人数をみたしている、という前提を含む場合が多いからだ。この場合を考えてみればいいだろう。もしも、比企谷一人なら、この部活動は認められなかった可能性がある。しかし、雪ノ下と二人なら、それなりに

  • 教育的に「意味」がある

と考えて認められる、となるかもしれない。そういった意味からも、雪ノ下をハブにし続けることは、非常に大きな正当性の問題をひきずってしまう。
そう考えるなら、ある意味において、答えは決まっているであろう。
比企谷は雪ノ下に、この生徒会の共催のクリスマスパーティへのサポートを依頼する。そして、上記にある、あの不毛な生徒会同士の企画会議は、雪ノ下の突然の空気を読まない発言によって、空気が変わり、とんとん拍子で進むことになるのだ!

「しかし、あの子がああいう行動に出るとはな.......。少し驚いているよ」
「まぁ、そうですね......」
何の意味もない相槌を打つ。俺自身、あのとき雪ノ下がああ言ったことに驚きと納得があった。ただ、うまく言語化できる気がしない。それでも、平塚先生はうんと頷き返してくれる。

雪ノ下がやったことは、この会議において、これが建前ばかりで不毛だという「本当のこと」を言ったこと、である。部外者によって、急に、そういった「真実」を突きつけられたことで、会議は、否応なく、前に進まざるをえなくなる。
ここで雪ノ下がやったことは、いわば、第1巻の最初の部活動の開始の頃から、雪ノ下が一貫して貫いているポリシーである。彼女は変わっていない。しかし、だから、この不毛な会議は終了した。
大風呂敷を広げて進められた企画は、強制的に、お互いの学校それぞれが、一つのイベントを行うという、それぞれで単独に行動する形に強制的に変わっていくことで、高校生の身の丈に合った、イベントへと安定着陸に結果した。
大事なポイントは、雪ノ下は、正面から、正々堂々と正論を言った、ということである。
なぜ、このことが重要だったのか。それは、このシリーズの第1巻を思い出してもらえばいい。なぜ、比企谷と雪ノ下は一つの部活を行うということで、共同の行動をとるようになったのか。その直接の原因は、お互いが「本音」で語ったからであった。ところが、である。比企谷は、シリーズを通して、ボッチにさせられ、自分をハブにしているクラスの「みんな」が、

  • ホンネで語らない

のがなぜなのかを、次第に「学習」してしまう。つまり、あれほど「ホンネで語らない」ことで「軽蔑」していたクラスのみんなの「理由」が分かってしまったのだ! つまり、そのことで、そういった行動の「功利主義」的な意味での「しょうがなさ」について、共感してしまった、ということである。

今、雪ノ下から突きつけられた問いは、きっと最後通牒だ。
うわべだけのものに意味を見出さない。それは俺と彼女が共有していたであろう一つの信念。
----その信念を今も持っているか。
答えられない。今の俺はうわべを取り繕うことがまったくの無駄ではないことをもう知ってしまっている。やり方の一つとして、存在することを理解している。だから、否定できない。

このことによって、比企谷は、自分を「雪ノ下側」にいれなくなったんじゃないのか、ということに、次第に気づき始めた。なにもかも、ホンネで語るというのは違うんじゃないのか。もしそんなことをして、相手を

  • 雪ノ下

を「傷つけ」てもいいのか? そんな自分が望んでいない結果になることが分かっていることをやるくらいなら、むしろ、自分があれほど「嫌悪」していた、他のクラスメートの「空気を読む」側に、雪ノ下と反対の勢力の側に組するべきなんじゃないのか、と。

的に、比企谷は考え始める。
つまり、比企谷は雪ノ下を置いて、「成長」してしまった、ということである。
しかし、である。

  • これは成長なのだろうか?

ここで、なぜ、掲題の著者が、あとがきにおいて、O・ヘンリーの「賢者の贈物」の名前を出しているのか、が重要になる。この短編小説は、プレゼントを送り合う夫婦のお互いが、お互いについて「考える」がゆえに、功利主義的には、お互いの行動が、マイナスの「功利」性を結果してしまう、というストーリーである。しかし、である。逆説的であるが、O・ヘンリーは、それは、

  • 最高のプレゼント

になったのだ、と総括する。ここに、功利主義のカント的な逆説がある。
なぜこの「喜劇」を、O・ヘンリーは「素晴しい」と言うのか。それは、夫婦のお互いが、「本気で行動している」ことが、お互いの行動によって、結果的に示されている、からなのだ。つまり、お互いの「動機」の純粋さが、むしろ、このことによって証明されたことによって、本当にお互いが「うれしい」と思う「幸福」の結果が担保された、ということなのだ。

  • 「幸福」は現象ではない。

なぜなら、現象(=功利主義的な行動)は、しょせんは、結果「による」幸福の実現を、小手先の小知恵で導こうとする、人間の浅知恵でしかないからだ。そんなものは、結局は社会の複雑さによって、常に、意図の裏をかかれて、挫折する。しょせん、人間は神ではない。そうであるなら、

  • 結果による功利性

を私たちの行動原理にすることは、最初から限界があるのだ!

「ですよね!」
一色は言うと、うーんと唸って少し考える。が、ぱっと顔を上げると副会長に向けて笑顔で言った。
「でも、やります」
「え」
戸惑う副会長に向けて、生徒会長一色いろはは言ってのける。
「わたし的に、しょぼいのってやっぱりやかなーって」
その言葉に雪ノ下はこめかみを押さえ、由比ヶ浜は苦笑いする。けれど、俺は関心してしまった。本心かは知らんがまさかここで超個人的な理由を出すなんて、こいつ大物かもしれん。

前巻を覚えていれば分かるように、生徒会長の一色いろはは、比企谷が功利主義的に「おだてて」担ぎ上げた「御輿(みこし)」にすぎない。ところが、このように次第に

  • 本性=生徒会長としての「才能」

に目覚めていく。この巻の最初からの文脈を考えたとき、ここでの彼女の「才能」の開化は、革命的とさえ言いたくなる。
言うまでもない、であろう。
単独の比企谷サポートが、比企谷&雪ノ下ペアによるサポートに変わったことによって、雪ノ下の

空気を読まない、KYの彼女の「本音スタイル」が、一色いろはの「本質」を、生徒会の「文脈」を変えてしまったのだ。もちろん、そのことで、雪ノ下は、表向きはけむたがられ、ハブにされるのだが、それは、本当に、一色いろは

  • ホンネ

であろうか? 比企谷は、<原点>にこだわり続ける彼女を、また、「かわいそう」と思うのだろうか? さて。そもそも、なにが「ホントウ」なんでしょうかね orz...。

やはり俺の青春ラブコメはまちがっている。9 (ガガガ文庫)

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