普通革命

私は、いたって普通に考えていて、普通の人が普通に生活して、普通に作っていく「秩序」以外の秩序がありえることを認めない。なにか、エリートが、大衆のために、なにかをやってやる、と言って、パターナリズムで行なう隠れた行為が必要だとか、そういったことを一切思わない、といった秩序を考えている。
しかし、そういった場合、どのような秩序形成のプロセスを辿って、それは成立しうるのか、というのが、基本的な課題だ、ということになる。

レオ・シュトラウスによれば、政治哲学上のリベラリズム自由主義)はトマス・ホッブスをもって始まる。ハイエクにとって、ホッブズは設計主義(constructivism)の先駆者である。ホッブスは、時間的秩序に意味を付与する原型的神性(archetypal divinity)についてのマキャベリの否定を受け入れることにより、人間が自分の行為を従わなければならない自然法が存在するという考えを拒否した。ホッブスは、「自然権が、人間の完徳あるいは目的からではなく、初期段階、すなち多くの場合すべての人間を効果的に決定づける基本的な欲求とか衝動から導出されることを要求した」。つまり自然権は、古代および中世の政治思想家たちがある神聖なる原型によって彼らのために規定されたと考えた目的から導き出されるのではない、ということである。ホッブスは、社会構築の基礎となる徳(virtue)は神聖なるものの永遠かつ原型的表出の人間的現実化に由来しないと主張した。むしろ徳は、人間による創造であり、合理的に定義されるのである。ホッブスは、徳は市民社会内でのみ実行されうると信じた。したがって、ホッブス流の市民社会は人間の合理的能力に基づいているものであるといえよう。
つまり、合理性が社会形成の究極的源泉となるのである。ホッブスは、超越的原型を人間の合理性に内在すると考えられた自然権と置き換えたのである。自然的なるもの(Physei)は人間の生得的なるものと等しくなった。すなわち、神聖なるものが人間化されたのである。
超越的なるものの神聖なる原型は、その地位と役割を合理性としての人間本性に移譲することとなった。この原型の移譲の結果、人間の合理性に基づく市民社会の構築を探求したのが、ホッブスである。そして、この移譲は神聖な権威を人間的権力へと引き摺り下ろし、それに伴い、慣習(convention)ないし伝統と科学的進歩との間に緊張をもたらし始めたのである。
この緊張はホッブス以降の政治哲学上の論議において重要な位置を占めている、とハイエクは見なした。この緊張が、リベラリズム陣営において、ジェレミーベンサムとJ・S・ミルにような設計主義的リベラル(自由主義者)の系譜とルネ・デカルトのような設計主義的個人主義者の系譜から真のリベラリズムを区分(もちろんこれはハイエクによる区分であるが)したのだとハイエクは考えた。そして、そのような原型の人間化はこれら二つの系譜に強い影響を与えたのだという。
確かにデカルトは、科学的方法により、偶然と人間の営為の本性を自由に駆使することを探求し、その結果、自然だけでなく社会すらも設計することを追求した。そしてベンサムは、ホッブスにまでたどられる思考形式によって、次のような論陣を張った。いかなる科学的方法も精神的満足を約束することはできないとしても、福利の感覚を減じてしまいかねない物質的諸条件の改善を設計することは可能である、と。フランシス・ベーコンは、進歩への信仰、すなわち善とは、仁愛が伝統や自然あるいは神に依拠するものではなく、むしろ科学という形を取った人間理性に拠り頼むことで切り拓かれる未来であると断じた。これらの人びとは皆、科学が可視的宇宙とそのすべての現象に対して説明を自由に駆使するものであると信じた。
科学の設計的力に寄せられたそのような確信は、ハイエクにとって、人間理性の傲慢ないし「致命的な思い上がり」以外の何ものでもない。ハイエクが神人同形同性論であるとして非難したのは、まさしくそのような人間理性の絶対化あるいは超越的原型の人間化なのである。
横超の倫理: ローティ、ハイエク、シンガーを超えて

近代政治哲学の出発点を、レオ・シュトラウスは、ホッブスに見出す。ホッブスは社会的な規範や慣習、つまり、「自然法」を否定する。いや、より正確に言うなら、それらは、

  • 合理性

によって説明可能だ、と考えた、ということである。つまり、あらゆることは、「合理的」(な説明可能なレベルの何か)の範疇だ、ということである。

  • ホッブスは、超越的原型を人間の合理性に内在すると考えられた自然権と置き換えたのである。自然的なるもの(Physei)は人間の生得的なるものと等しくなった。すなわち、神聖なるものが人間化されたのである。

科学の合理性とは、自然の「人間化」を意味する。つまり、あらゆることは、人間の合理的な認識の延長において、考えられ、そして、そこに閉じられる。つまり、自然の人間化だ。
この延長上に、歴史の人間化が始まる。古代人にとって生きることは、慣習に従うことであり、自然の「怒り」を恐れることと同値であった。ところが、

  • ある反転

を経て、この構造は逆転する。

モダニティは一般的に、人間の自由と理性に準拠点を見出した。そして、歴史を人間理性に根ざした自由の進歩的な開花であると理解した。この自由な進歩の開花は人間理性の進歩だけにとどまるものでない。着目すべきは、歴史が人間の文明と文化の絶え間ない進歩とに同一視されたという点である。このことは、歴史を実在の、ある特定の側面に還元して眺めたことの結果である。このようにして実在の社会文化的次元が探求の中心的な対象となったのである。進歩としての歴史という視座は、自然(natura rerum)と慣習との関係に関する古代の見解と中世の見解とを逆転させたことの結果である。すなわち、自然でもない、ましてや神でもない、人間があらゆるものの基準であり征服者である、ということである。モダニティの進歩としての歴史の観念は、自然(Physis)と慣習(nomos)の倒置からもたらされたのである。
ハイエクによれば、この倒置は一八世紀イギリスのある哲学者たちに特徴的に見て取ることができる、社会秩序に関する進化論的な理解という、ある一連の思想的うねりを巻き起こし、ひいてはこのうねりが<真のリベラリズム>を生み出す源流となったのである。これらの哲学者たちには、デヴィッド・ヒューム、アダム・スミス、アダム・ファーガソン、そしてエドマンド・バークといった、イギリス経験主義の伝統に属する人たちがいる。ハイエクは、この思想の系譜にマンデヴィルやトクヴィルといったイギリス人以外の思想家も帰属させている。ハイエクによれば、これらの人びとは皆、人間理性の設計能力の限界に気づいていたのであり、人間の知識と行為の進歩にとって人間理性は決定的な要因ではあるが、根本的な要因だとは考えていなかったのである。彼らは、社会的かつ政治的秩序は人間理性の合理性や人間の意志に基礎づけられるのではなく、人間行動規範の伝統(tradition-laden rules of human conduct)の観点、したがって道徳的行動規範の観点から考察されなければならない、という洞察を強調した。
横超の倫理: ローティ、ハイエク、シンガーを超えて

私たちが、哲学と言うとき、ホッブスを嚆矢として、デカルト、ルソーに始まる観念論的な「合理性」の認識体系を思い描く。しかし、実際には、もう一つの流れがあることが知られている。いわゆる、「経験論」の流れにある。

  • デヴィッド・ヒューム

を嚆矢とする流れであり、カント哲学も決定的なところでは、基本的にヒュームの延長で考えている。そういう意味で、カントはむしろヒュームの正当な継承者と考えられる(カントはヒュームの「経験論」の延長で、さまざまな夾雑物を除いて行った後に残りうる、それなくしてはありえないとしか思えないような「合理性」とは何か、と問うた、とも考えられる。そういう意味において、彼にとっての観念論は、どこか、普通の人の意味での観念論とは、メタ・レベルにおいて、同じものとは思えないほど違っている、という印象を受けるわけである)。
そして、ヒュームの「経験論」の延長に、当然、ハイエクも入ってくる。
ヒューム的な「経験論」の特徴は、

  • 人間の有限性(=人間理性の設計能力の限界)

を出発点にしていることである。つまり、そもそも、「完全」合理性は、有限なる人間には不可能だ、ということである。人間は、あくまでも「制限付き」合理性の範囲にしか、留まれない。
では、そのような、制限された計算性にしか依存できない人間は、その制限された条件による瑕疵を、何によって、担保しうるのか、という問題になる。

ハイエクは人間理性を行動規範と結びつけて考える。ハイエクは、「理性」という用語には元来「善悪を区別する、すなわち確立されたルールに従っているものと従っていないものを区別する精神の能力」の意味が存在したと主張する。したがって理性は、成功をもたらす行為の限界を見極める能力の一つなのでる。そのような洞察に見られる原理は「進化論的合理主義(evolutionary rationalism)」とハイエクが呼ぶものであり、デカルト主義的合理主義とは区別される。「理性は一つの規律、つまり成功を呼ぶ行動の可能性限界についての洞察であり、それは往々にして、してはならないことだけをわれわれに教えてくれるにすぎない。われわれの知力で現実の複雑さの完全な全体像が捉えられないからこそ、この規律は必要なのである」。「進化論的合理主義は、人間が完全には理解しえない現実を処理できるようにしている精神の不可欠な手段として、抽象を位置づける」。
そのような能力のみが、人間に共通の理性の限界を識別できるのでり、「抽象的思考のための、人間に共通する能力を指す」。確かに、思考それ自体は一つの抽象である。なぜなら、それは経験世界の具象的あるいは特定の現象から抽象化された知覚(perceptions)の結果だからである。思考を構成する知覚は、中枢神経組織に集積される、積み重ねられた感覚インパルスの多くの分類である。したがって、インパルスの神経的ないし感覚のネットワークは具象的事物の抽象であって、そこから生体は外界の刺激を得るのである。このネットワークが複雑であればあるほど、より高度な精神的活動が可能となる。この分類的プロセスにおいては、「積み重ねの積み重ね(the superimpositon of superimpositons)」が作用しており、この作用が複雑な秩序を創発する、そして、このプロセスに複雑性が増し加わると、感覚インパルスの分類はより「一般的」あるいは「抽象的」となり、特定的かつ具体的ではなくなる。
横超の倫理: ローティ、ハイエク、シンガーを超えて

ヒュームであり、ハイエクは、「合理性(=計算性)」の名のもとに、一度は、嘲笑の対象として、見下され、価値のないものとされた、

  • 自然
  • 慣習

を、もう一度、表舞台にひきずり出してくる。なぜなら、それらは、言わば、「積もり積もった」帰納法的な経験の蓄積であるからだ。
ハイエクは、理性という言葉が、そもそも、「計算」から来ていることに、再度注目する。つまり、理性とは

  • 善悪のルールに従っているかどうかの判断そのもの

と解釈される。つまり、一種の計算であり「ルールに従う」なにか、として、再度、受け取られるわけである。
しかし、掲題の著者は、ハイエクがあらゆる「設計主義」を否定していった果てに、彼は

  • 別の形の超越性

を裏口から受け入れてしまったのではないか、と考察する。つまり、それが

  • 自生的秩序

である。

ハイエクは、彼が自然的なるもの(Physei)と呼ぶ領分の自主性(spontaneity)と、人間の行為の産物でありながらも人間の意図の結果ではないとする慣習や伝統(Nomos)の自主性とを同一視すると同時に、超越的なるもの(the transcendent)を排除し、その結果、超越的なるものからそれが果たしていた根拠づけの役割を簒奪し、その役割を自然的なるもの(Physei)と慣習・伝統(Nomos)の嫡子である行動規範の伝統に譲り渡したのである。こうして行動規範の伝統は、倫理・道徳、慣習的ルール、法律、知識、結婚制度、その他さまざまな社会的・経済的慣行および制度に根拠と基礎を与えるものとなる。このような諸制度は、現実の経験的かつ時間的領分において成立している。それらはわれわれの用語でいうところの経験的時間的世界である自然(Physis)、すなわち、ハイエクの用語でいう自然的なるもの(Physei)である。そして、自然(Physis)ないし自然的なるもの(Physei)の領分で、自己根拠的である行動規範の伝統は、まぎれもなく、根拠づけを行うある種の超越的存在としての役割を獲得するのである。しかも自生的秩序の自律性と自己根拠的性格には、ハイエクが敵視する神格化を彷彿させるものがある。だとすれば、ハイエクが設計主義的合理主義に対して突きつけた罪状、すなわち、この思想の伝統は、超越的な根拠と自然(Nature)を包括的な理性(Reason)にすり替え、後者をあらゆる人間の知性を超越した意図を持つ実在と考える批判は、後者を自生的行動規範に置き換えて読み替えるなら、そのままハイエクに突き返すことができることがわかる。
横超の倫理: ローティ、ハイエク、シンガーを超えて

ハイエクは、あらゆる「合理性」を設計主義として否定し尽した果てに、

  • 自生的という「合理性」

に行き着いてしまう。
つまり、トンデモ批判論者は、どこか「トンデモ論者」に似てくる。なぜなら、彼らの手口を徹底して学ぶことで、彼ら以上の「トンデモ論」の

  • 使い手

になってしまうからだ。
言うまでもなく、自由放任を「すれば」秩序が生まれる保証は、どこにもない。つまり、合理性を、たんに、「反転」させた「自生性」も、構造は同じだということである。
このように考えたとき、上記の「功利主義」の再評価の可能性が見出されるのかもしれない。というのは、統治功利主義の問題は、自らの計算の「無限能力(=神の力)を仮構するところにあると考えるなら、この統治功利主義の、徹底した、

  • 普通

化とはなんなのか、という命題が当然、考えられるからである。
統治者は、人民を「平等」に扱うと言うとき、その不可能性を言うことは、実際に平等に扱うことと矛盾しない。なぜなら、これは、「方法」の問題だからなのである。平等に扱うとは、どういう意味なのか。この命題は、実際に平等に扱うことが可能なのかと同値ではない。つまり、可能であろうがなかろうが、平等であることは求められるし、実戦的にはその可能性を目指され、模索され続ける実戦には(たとえ、そのことが個人的功利主義、つまり、利己主義に反するとしても)意味がある、と考えられるわけである。
しかし、この問題を究極的に突き進めたとき、どうしても、ぶつからなけばならない壁が

  • 動物の権利

である。功利主義者のシンガーは、人間を平等に扱うというなら、なぜ、人間と「平等」に、動物を扱わないのか、と追求する。
しかし、こういった思考方法に、この本は異論を唱える。というのは、そもそも、人間と動物は以下の「レイアー」において、

  • 重ならない

と考えられるからである。

しかし、実際に利益が権利として承認され守られるのは法律とされることによってである。この点はきわめて重要でる。権利を承認したり法制化したり訴えたりできるのは、人間だけである。そして、人間主体だけに備わっている政治的、司法的機能は、動物にも備わっっているとシンガーが主張する感覚的機能(感覚能力)と論理的機能(理性的自己意識)に比べて、もっと複雑で高次の機能である。
横超の倫理: ローティ、ハイエク、シンガーを超えて

動物は、人間に自らの「権利」を法廷を通して要求してこない。それは、彼らのコンテクストが我々人間のものと違うことを意味している。このすれ違いを、軽視することはできない。それは、未開社会の少数部族が、ジャングルの中で、独自の自治生活をしているのを、外部の文明人が、破壊することを認められるのか、ということに似ている。
(例えば、私たちは、彼ら動物たちの自然界における生存を意図して、動物保護区であり、動物保護公園をつくる。それは、我々人間自身の「意図」として、彼らを、

  • 我々の生活圏

から、「守っている」という側面がある。それは、確かに、デタッチメントの一種ではあるが、それを結果することは、逆説的であるが、非常に深いメタ・レベルにおいて、「コミットメント」している、とも言えるわけである。なぜなら、人間と動物は、

  • コンテクスト

が違うから、お互いによるお互いの「干渉」が、どうしてもお互いのコンテクストの「破壊」に結果しがちだから、である。)
自らの文脈にコミットしてこない人たち、動物たちを

  • テロリスト

と呼んできたのが、合理主義者である。合理主義者は、自分たちには理解できない文脈から、発せられる言葉を

  • 差別

と呼び、自分たちのコミュニティから「排除」する。合理主義者は、なにが科学的であるか、なにが真理であるかを、自分たちが「合理」的に語ることができる、と自称する。彼らは自らの「合理性」に

  • 限界

があることを認めない。そういう意味において、真に「差別」的他者排除は、合理主義者によって行われる(言うまでもなく、ナチス・ドイツは、科学合理主義者であった)。
人間と動物が、ロボットと比べて、

が「ある」理由は、そもそも、人間と動物は「進化論」的存在だから、なのである。つまり、人間と動物に対して、ロボットが「違っている」点は、唯一、人間と動物は

  • 「自己」を後世に繋げていく(ある種の)「保存」のメカニズムをもっている

ことに尽きている(それは「ある」と言うより、「なければ今ここにいない」と考えるべき、存在論である。ないなら、また、ないものはすでになくなってきたし、かといって、「ある」というほど、積極的な理由が抽出されるような性格のものでもない。ある側面から見たとき、一方の生存に有利だったとしても、また別の側面から見れば、どっこいどっこいだったりする。そういた複数の特性のどれが、その環境にとって、決定的であるかは、少しも自明ではない。こうやって生まれる結果が、そもそも説明といった行為と相性のいい話なのかも分からない。つまり、偶然の側面も多分にあると言わざるをえない。結局は、ギャンブルにおける、サイコロと同じように、たんなる「運命」とでも呼ぶことしかできないものなのかもしれない。しかし、たとえそうだったとしても、こうして生き残ってきた末裔である私たちが、なんらかの、「死ににくいプログラム」を継承してきている可能性は大いにある。それが「進化」と呼ばれるものだが、かといって、「それ」と指差す、それそのものが、なんらかの「有利性」を未来において、担保するわけでもない。)
つまり、なぜロボットは人間と違うのか、ではなく、ロボットも、一種の「自己生存戦略」をもっているなら、もしかしたら、

  • 会話

ですら、成立しうるかもしれない、ということなのである。というか、そもそも、その逆は「ありえない」。つまり、「心」とは、こういった「メカニズム」を前提にすることなしに

  • 想像できない

性質のものだ、ということである。
人間はしょせん、「帰納的」存在である。人間の合理性には限界がある。しかし、だとするなら、一体、どういった「ヴィジョン」によって、社会秩序を構想しうるのであろうか?

第一に、現代のコミュニテイは、コミュニティの開放性を基礎にしている。それは、境界的な空間に囚われない、柔軟で脱領域的な帰属の在り方を基礎としているということである。道徳的な絆と帰属の「厚い」と「薄い」の境界線は、特に都市部のコユニティにおいては、ますます曖昧になってきており、両方のタイプのコミュニティが存在する。
第二に、不安定な現代においては、帰属に対する新たな希求が生まれており、モダニティのように硬直した単一の帰属ではなく、柔軟な帰属の複数性を特徴とするコミュニティの言説が出現している。いい換えると、消費によって形成されるライフスタイルを選択するという、個性化が進行している。複合的で混成的な帰属を伴う現代社会におけるコミュニティは、安定した構造、文化的価値、既存の道徳や慣習的な合意よりも可変的で流動的であるような、実戦によって創造されるコミュニティである。その創造の担い手が個性化された個人である。個性化された個人は、個人主義でもなければ集団主義でもない、自由で対等なコミュニケーションに基づく相互配慮と分かち合いの実戦を通じて、コミュニティにコミットしようとする。帰属感覚はこのコミットメントから生まれる。つまり、個性化された個人は、自己の道徳の境界を越え出ていこうとする存在である。この自己超出の実戦によって創造されるコミュニティ、対等な諸個人同士の横並びのラテラルな結びつきを反映している。
第三に、こうしたコミュニティの開放性の言説とは対立する、市民道徳に訴えかける反政府的なコミュニティの言説がある。その代表的なものが、コミュニタリアニズムだる。それによると、コミュニティとは、コミュニティの声、すなわち「道徳の声」を伴う「責務あるコミュニティ」である。しかし、この責務はコミュニティ内部への責務である。この言説は、コミュニティを共通の価値、「厚い」道徳、強い愛着と結びつけており、それらをデモクラシーとシティズンシップの基礎としての社会関係資本の源泉とみなし、コミュニティごとに分化した文化的に異なるシティズンシップを要求する。コミュニタリアニズム、そういたシティズンシップの行為主体をかなり同質的であるとみなす結果、成員資格の重複という多元化に対して自らを開放することを拒否するあまり、成員の自由と自立と個別化にまつわうコミュニティ内部の紛争についての自由でオープンな討議にあまり積極的ではない。この種のコミュニティの概念にとって、国家や市民社会は一つのより大きなコミュニティとはみなされない。コミュニタリアニズムは、市民道徳規範に根差したコミュニティの集合的な善へのコミットメントを社会統合の基礎とすることを提唱するが、その道徳規範が統治のイデオロギーに利用されれば、それが全体主義的権力のイデオロギーになってしまう危険性がある。
第四に、個性化された市民の帰属は、コミュニケーションへの参加という形をとる。「コミュニティは常にコミュニケーションを基礎にしてきた。[中略]今日、コミュニケーションが、よりいっそう従来の文化的構造----「伝統的な」家族、親族、階級など----から自由になるにつれて、コミュニティ、多様なコミュニケーションの方法に基づく新たな形の帰属を受け入れるようにんっている」。コミュニタリアニズムですらコミュニティ内部におけるコミュニケーションを基礎としてきたといえるのであるから、コミュニティ内部におけるコミュニケーションを基礎としてきたことは、コミュニティの言説に共通する認識だといえる。コミュニケーションへの参加に基づく帰属によって組織されるコミュニティ(コミュニケーション・コミュニティ)に関して、コミュニケーションは、コミュニティ内部と諸コミュニティ間の両方向に働き、これらの集団形成における帰属を可能にする。コミュニタリアニズムや伝統的んコミュニティのコミュニケーションは内部者に向かい濃密であり、彼らにとって外部からの散発的なコミュニケーションは「相対的に珍奇」なものである。これに対して、開放性を特徴とする、その他の現代コミュニティは、外部のコミュニケーションに対しても自己を開いていっている。
横超の倫理: ローティ、ハイエク、シンガーを超えて

現代社会は、「都市社会」である。つまり、ジェイン・ジェイコブズが分析したように、都市的人間が非常に増えた時代である。
都市的人間の特徴は、その「疎」な結合である。つまり、濃密な人間関係が生まれない。濃密な「村」コミュニティになりにくい。
しかし、かといって、人間間のコミットメントが存在しないか、というとそんなことはない。いやむしろ、その「数」において、膨大にインフレーションしている、と言ってもいい。つまり、

  • 疎な結合 ... 数的増大
  • 蜜な結合 ... 数的減少

こういった関係においては、そもそも、相手のことを「知っている」ということが、どういうことを意味するのかが、不分明になっていく。
私たちは、「ほとんど」の人のことを浅くは知っているが、「ほとんど」の人のことを深く知らない。それは「知っている」ということを意味するのだろうか?
この問題は、例えば、IT企業的風土の企業文化において、何度も問われてきた問題だと言えるであろう。
例えば、(以前に紹介したことがあるが)Eric.S.Raymond の『The Art Of UNIX Programming』という本は、このインターフェースの基本的属性として、徹底した「シンプルさ」を要求する。
例えば、プログラミング言語における、オブジェクト志向における「クラス」の概念を考えてみよう。
このクラスの「公開」している部分は、非常に、「シンプル」に構成されている。どのように、各メソッドを呼び出せば、どのような動きになるかは、実に、分かりやすく、また、そのデータ間の疎な関係を実現している。
ところが、である。
その中は、どうなっているのか。一つだけ言えることは、外の人(パブリックに公開されている所しか見れない人)にとって、それは分からない、ということである。しかし、往々にして、内部は混沌としている。ただし、それでいいわけである。なぜなら、今度は、その混沌の中の一つ一つにとっての、

  • インターフェース

において、同じことをすればいいから、である。大事なことは「シンプル」とは、どういうことなのか、ということである。
現代における、都市型人間のコミットメントの特徴は、多くの人たちが、さまざまに「重なりながら」、コミットメントの

  • ファミリー・リゼンブランス

を形成していく。ここにおいて、だれかが「全体」を見る場所に立てると考えることは、ほとんど不可能となる。そこで、

  • インターフェース

が重要となる。私たちは、全体を知り、全体を理解する、というような

  • 物語

をあきらめる。その代わりに、ある種の「プロトコル」によって、お互いの「欲しい」コミットメントを、手続き的に、需要していく。私たちは全体は分からない。しかし、その「プロトコル」を介した、

  • インターフェースの際(きわ)

においては、非常に深く人間的な、「交換」を行う。これが、現代の都市型人間の「倫理」である。つまり、ただ、

  • ルールを守る

のである。それが、後々になり、さまざまな他者の「信頼」を担保する。
この問題を最も深く考えた人の一人が、経営学者のドラッカーであろう。ドラッカーの重要なポイントは、その

  • マネージャー

というポジションの、意外なまでの「シンプルさ」なのである。マネージャーは少しも、「全体」を知らない。ところが、マネージャーは、そのことに、少しも偏執的にならない。なぜなら、それはマネージャーにとっての全体ではないからだ。
プログラマーが知っておかなければならないこと。一日の大半を使っても、神経を磨り減らせて、集中しなければならないこと。SEーが知っておかなければならないこと。一日の大半を使っても、神経を磨り減らせて、集中しなければならないこと。それぞれ、まったく違うし、言うまでもなく、マネージャーも同様なのだ。
マネージャーが興味があるのは、そういったプロフェッショナルたちが、その分野において使うことになる「集中」する時間を、組み合わせ、全体の工数を見積ることである。彼らマネージャーにとって、一人一人の

  • 全体

に完全に通じることは必要がないだけでなく、そういった時間が自らの「集中」の時間を占有し、自らの「働き」を制限してしまう。つまり、この「シンプルさ」こそが、あらゆる、現代都市型人間の原像なのである。
一つだけ、はっきりしていることは、だれも、相手のことを知らないのに、相手のことを代弁できない、ということである。それが「パターナリズム」であり、それが可能と考える人たちこそ、計画的合理主義者であり、常に、強圧的に自らの社会的ステータスを利用して、他者を恐喝してくるリア充たちである。
彼らは一方において、進歩主義的未来の「ユートピア」を語りながら、他方において、<今>を生きる生活者を、隠微に

  • 支配

しようとしてくる。少なくとも言えることは、私はこういったエリート主義的パターナリズムの「外」において考える、言わば、「匿名的社会アーキテクチャ」は可能なのか、という問題にしか興味がない、ということである...。