土田健次郎『江戸の朱子学』

例えば、明治以降の日本の「近代」化の文脈において、西洋自然科学が全面的に輸入され、さまざまな産業商品として応用されてきた文脈から眺めたとき、西洋自然科学「ではない」科学という表現に、ショックを覚える。
しかし言うまでもなく、江戸時代だろうがそれ以前であろうが、この日本に「自然科学」はあった。もしなければ、科学的な生活をしていなかったことになるであろう。しかし、同じ「文明(=人間を特徴づける文化)」をもつ私たちが、そんなはずはないではないか。
つまり、この場合に言う「科学」とはなんなのか、ということになる。
例えば、朱子学が中国の宋の時代に、朱熹によって始められ、日本の南北朝時代から、この日本においても少なからず影響を受けてきたとして、この延長で考えられる「自然科学」が、一つのこの世界の「解釈」として、大きな一つの潮流として影響を与えてきたと考えることはできる、だろう。
しかし、ここで注意がいる。つまり、ここで「朱子学」と言っているものを、いわゆる、孔子の言行を集めた「論語」を教典とした、つまり、孔子の時代と「同一」の何かと考えることは正確ではない、ということである。朱熹の時代において、最も大きな影響を与えたのが

  • 仏教

である。むしろ、朱熹が目指したのは、儒教の「仏教」化だったと考えられる。そして、それを矛盾したなにかと考えるべきではない。なぜなら、孔子の構想を思わせる「論語」のストラクチャーは、一貫した、

  • 学習者

としての姿勢にこそ、その本質があるからである。仏教は、むしろ、「学ぶべき何か」と考えられる。しかし、その場合に、その学習は、徹底して「論語」の<延長>で考えるという姿勢を変えない、ということにすぎない。
つまり、こういった意味で、「自然科学」だと言っているわけである。
こういったことと、まったく同じ意味において、道教であり陰陽思想が朱子学においては自然に包含される。つまり、大事なポイントは、そういった諸子百家を「区別」することに、それほどの意味がない、ということなのだ。

この世界は気でできている。この気は定義が困難な概念である。おそらく近代以前、中国で気の定義が試みられたことは無かったのでなかろうか。

確かに気には物質として捉えられている側面と、エネルギーとして捉えられている側面とがある。たとえば物体は全て気でできていると朱子学では考えるが、この場合は物質としての気である。また同時に朱子学ではこの世界のエネルギーの働きも気と言われる。人間に即して言えば、肉体は気でできているが、人間が起こす種々の働き、具体的には話したり動作したり思考したりといったことも全て気と言われるのである。筆者はこれを広義の気と狭義の気として次のように整理したことがある。

  • 「気(狭義の気)」+「質(物質)」=[気(広義の気)]

朱熹はどちらかと言えば「狭義の気」の方を問題にすることが目立つ。それは朱熹が「気」に期待したのが、作用や運動の側面だからである。この世界は作用や運動に満ちている、というよりもこの世界は、作用と運動、およびそれらをもたらす機能によって、個々の事物の意味が決まるのである。
この「気」は陰陽と五行という二つの側面を持つ。

朱熹は気の作用の代表として「感応」と「消長」を言っている。「感応」とは「感(働きかけ)」+「応(反応)」であって、男女で言えば、男が働きかけ、それに女が応じて、子供が生まれるのである。これはいわば「作用」である。
もう一つの「消長」は、「消(衰退)」と「長(成長)」である。たとえば春から夏へは「長」であり、秋から冬へは「消」でる。気全体は自身のエネルギーにより消長という自己運動を引き起こしていくのである。これはいわば「運動」である。
そして朱熹は「消長」は感応の一つであるとする。春は「感」で夏は「応」であり、その夏がまた「感」となり秋が「応」となる。つまり「春」によって「夏」が引き起こされ、その連鎖が続いていくとするのであって、これは空間的な「感応」(といっても実際には作用の時間差があるが)が、時間化されているのである。別の面から説明するなら、春から夏への移行というものは無数の感応の集積が全体を変化っせているということなのであるから、消長も感応なのである。朱熹は後者については明言していないが、ほのめかすような言い方を見せることがある。
朱熹は「感応」を「外感(異なる気どうしが感応する)」、「消長」を「内感(その気の内部で感応する)」とする。要するに「消長」も「感応」に含み込まれるのである。
このように朱熹にとってこの世界は「感応する世界」なのであるが、その感応はでたらめに起こっているのではない。そこには法則・秩序があるのであって、それが「理」である。

現代の物理学に比較的近づけてこれを対応させるなら、

  • 物質 ... 質
  • 運動(エネルギー) ... 狭義の気
  • 物質 + エネルギー ... 広義の気
  • 物理法則 ... 理

こんな形になるであろうか。ここで、ポイントとなるのは「理」である。理がどのような位置付けになっているのか。それが、朱子学を決定的にする。

つまり「理」は「気」が無い限り自己を現せない。また「気」はそれが「物」として認識できる時には必ずそこに「理」が存在するのである。

ところでここまで理は法則、秩序であると言ってきた、机の例で言えば、その物の機能がどちらに向かうかが意識され、それが机を机たらしめている機能の方向と一致した時に机と認識されるのである。かくて机であって椅子ではないという区別がなされる。このように個々の物の理とはその物の個別性を際だたせるように作用する。もし机なのに椅子のようにしか働かなければその机は机としての理を発揮できていないことになる。朱熹は程頤の議論をもとに、1それぞれの物にはそれぞれの理がある、2それぞれの物は異なる、3しかしそれぞれの理は究極には「一」である、とする。これが、彼が程
がん
から継承し拡大した「理一分殊(理は一であって分は殊である)」の論である。それぞれの「分(持ち前)」がそれにふさわしい特殊性を発揮している時にこそ、その「理」は一なのである。

ここで述べられていることは、理がたんなる物理学的な、ある種の「制限された計算可能体系」とは違っていることがわかる。むしろ、ここで言う「理」は、人間の「視点」から、私たちが日常的に「当たり前」のように行っている行為を「すべて」説明しよう、というような、かなり野心的で体系的なものになっていることに注意がいる。そういう意味で言うなら、朱子学における理は、当然、人文科学を「含んでいる」ことが特徴である。
そして、そういった視点で言うなら、当たり前であるが、

  • 人間自身

も、この理気二元論の対象となるわけである。

この理論は人間関係にも適用される。それが『論語』顔淵篇の「父父たり、子子たり、君君たり、臣臣たり」であって、父が父らしく、子が子らしく、君が君らしく、臣が臣らしい時、つまりX=Xの時にこそ「理一」が現れるのである。ここに世界の秩序性が際だつ思想が生まれる。朱子学が社会秩序の妥協無い発揮を求める思想とされるのは、このような個別の差等を完全に発揮させることこそが、全体の一体を完遂させられるとするからである。
朱子学理気論はまた心の領域にも貫通させられている。外界も人間も気であるから、当然人間は外界と感応する。肉体の働きもそうであるが、特にその感応の最もスムーズなのが心である。
人が対象を意識するのは、対象と人心が感応しているのである。そしてその感応が本来の法則通り動く時が、理にのっとった状態である。つまり道徳とは心の動きの法則なのであって、道徳通りに心が動いている状態こそが、人心に理が実現している姿である。それは、リンゴが地面に落ちる時に引力の法則(理)が顕現するのと同じことなのである。
朱熹は「心」を「性」と「情」に分ける。このうち「情」は気であって、要するに我々が経験できる(「形而下」)心の動きであり、「性」とはその動きの秩序・法則(「形而上」)、つまり理である。「性」の通りに「情」が動いうぇいる時が善であり、気のエネルギーの歪みから「性」の通りに「情」が動いていない時に悪が発生する。つまり性=理は徹底的に善であり、情=気はそれ自体は無価値的であるが、悪の原因になりうるがゆえに警戒される。
朱子学の特徴は、このように世界の構造から心の構造までを統一的体系的に論じたことである。朱子学こそは儒教史上でもまれに見る規模と骨格を備えたグランドセオリーであった。
朱子学ではこのように、理を徹底して善なるものとするが、現実には自然界も人心も必ずしも理の通りに動いていない。それは気のアンバランスに由来する。そこで人心の気の歪みを正し、理にのっとった動きにする必要がある。これを「気質を変化すると言う。人は学問や修養によって自己の気のアンバランスを修正し、心が理(道徳)の通りに動くようにすることが求められるのである。
この気のバランス修正のために必要なのが、学問と修養である。そのうち学問は「格物」と言われる。朱熹は『礼記』の中の一編であった『大学』を独立して表彰し、その文中に出ている「格物」の語を「物に格(いた)ると読んで、「物の理に到達する」ことと解釈した。正確な事物の理の把握こそが学問なのであり、その中核には経書の学習があった。このように極めて明確に経学の位置づけがなれたことが、古典教養主義とでも言うべきものを涵養し、東アジアの教養教育の基盤経営に朱子学が大きく貢献することになる。
もう一方の修養とは「居敬」(あるいは「持敬」)である。これは意識している対象に敬虔な気持ちで接し続けることである。朱熹はこの「居敬」の説明として程頤を継承して「主一無適(一を主として適(ゆ)くこと無し)」と「整斉厳粛」を言うことが多い。つまり心を専一に対象に集中させ、同時に心身の威儀を正すことで、心の善なる本来的機能を開かせようとするのである。人間がみな聖人になれるということは、心の性が善だからであり、それを意識のうえで実現させようというわけである。
自分が自分の心を見つめることに朱熹は否定的であた。そうすうと限りない思い込みの世界におちいるし、そもそも常に外界の事物に触発されて刻々と変化する心の修養としては有効でない。それに論理的にも、見る心と見られる心という二つの心が同時に存在してしまうことになる。そこで善への方向づけを念頭に意識を次々と立ち現れてくる外界の事物に集中することで、人間の聖性を発現させようとするのである。
この居敬の修養こそが朱子学が展開した地域で、仏教にとってかる儒学の修養方法として大きく作用したのは、これか本書に述べることによって知られるであろう。

朱子学は、人間も「自然現象」と考える。つまり、人間の世界と自然の世界を区別しない。そのため、ある「相互」関係が起こる。

  • 自然への人間的現象のアナロジー ... 自然法則の「善」性
  • 人間への自然現象のアナロジー ... 道徳法則の自然法則と同じような「決定」性

朱子学は、この相互の「リゴリズム」を避けられない。
もちろん、人間も自然現象であるという意味においては、究極的には人間を物理現象に還元することには、一定の意味があるのかもしれないし、自然そのものに、なんらかの「善」性を想定することで、社会の秩序の人々への要請を比較的、獲得しやすくなる側面もあるのかもしれない。
しかし、それでいいのか、という疑問は当然、でてくるであろう。

もともと朱子学陽明学は、両者とも万人が聖人になれることを前提にして、それを求める学問や修養を提示する思想であった。要するに心の状態を理想の形に向上させていうことを目的としていたのである。ふつう「心学」というと陽明学の系統ばかりを言うが、実際には朱子学も広い意味では「心学」なのである。

もともと「心」を強調しのは仏教の禅宗である。中国においては、中唐以後、禅宗浄土教が仏教の中心になっていく。万人に仏性を認める禅宗が心の悟りを追求するのは当然であるが、浄土教の方も「唯心浄土(ゆいしんじょうど)」の思想が強くなったと言われている。「唯心浄土」とは、浄土を西方浄土ではなく、心に見るものである。このように心に全関心を集中させていく傾向が儒学にも取り込まれ、道学に結実していくのである。
そして重要なのは禅宗のいう心とは、外界に触発されて動く内心だということである。外界に対して内心が自然に発動し、一点の迷いも無い状態にすることこそが、悟りなのである。つまり全てが内心と外界の反応関係に収斂されているのであって、この思考が朱子学にも陽明学にも認められるのである。とかく朱子学というと理と気といった宇宙的原理を穿鑿する思想と見られがちであるが、重要なのは、朱子学が理や気を問題にしたのはそれによって心を腑分けし、修正すべき心の部分を明確化するためであったことである。

朱子学というと、私たちは太古の儒教を思おうとする。荻生徂徠のように、孔子以前の時代の聖人はどんなふうなことを考えていたのか、みたいな。しかし、言うまでもなく、朱熹の時代には、仏教が普及していて、彼らにとって、禅宗は常識であった。当然、朱熹もそういった「問題圏」の射程の中にいたわけである。
大事なことは、こういった「区別」に、それほどの意味がない、ということなのだ。その時代において、特に意識された問題は、どんな学派であっても、考えざるをえない。つまり、そういった「差異」をうんぬんすることは、あまり生産的ではない、ということである。
禅宗は、当然、朱子学に「含まれる」し、少なくとも、朱熹にしてみれば、それくらいの大きなスコープで自分は考えている、と思っている。つまり、朱子学なら、「あらゆる」問題に答えられる、くらいには考えている。

朱子学は理には「然る所以の故(そうである根拠)」と「当に然るべき所の則(かくあるべき法則)」の二面があるとする。丸山真男流に言えば、前者は「自然」、後者は「規範」である。

朱熹は自然と規範を分けたうえでその合体を言っているのであって、自然と規範を分けて発想する道を切り開いたのはむしろ朱熹なのである。
またこの「然る所以の故」と「当に然るべき所の則」は、現在の我々が発想するような順序で考えられているのではない。これを以前よくあった割り当て方だと存在(ザイン)と当為(ゾレン)となるが、普通はまず理の持つ存在としての側面を明らかにして、その次に当為の側面を引き出すことになるものである。しかし朱熹の場合は、まず当為の方を把握し、それら存在の問題に進むのである。つまり「かくせねばならない」という要請として確信を持てるものをまずつかみ、そこからそれが「本来そうである」という認識に至るのである。人間にとって最もリアルん認識は、要請として立ち上がってくるものであって、フラットん物のありようではない。
たとえば親には孝をしなければならないということは当時誰も否定できないことであった。これが「当為」なのである。そしてこの「当為」がなぜ成り立つかが求められ、かくて親子関係が本来的な「存在」のあり方であることが認識されるのである。
このように存在に当為がかなり反映するという面はあったのだが、この自然(存在)と規範(当為)が一体であるという図式は、同時にそれを解体させる契機を当初からはらんでいたとは言えるであろう。最終的には両者の一体を言うにしろ、朱熹が自然と当為を分けて発想したことは、この両者の結び目をほどく思想の母胎になったからである。

近代合理主義においては、あらゆることは、思考の結果によって判断される。それは、つまりは、各個人の判断が、なによりも駆動因子となる。自分が、さまざまな側面から「判断」したから、そう思う、という流れ、となる。
ところが、少し過去に遡ってみると、必ずしも、そういった思考方法は自明ではない。上記の例で考えると、なぜ、両親に孝行するのかは、なにかの事実から「演繹」するようなものではない。そういうものだろ、で終わりのような話である。実際、特に、私たちが行動している人間関係のような話においては、こういったことが多くみられるものである。
私たちは、往々にして、「すべき」という言い方をする。しかし、その根拠はなんなのかと言われると、なかなか答えられないことがある。それは、私が太古の時代から、むしろ、「慣習」に従うことを自明視してきた側面があるから、ということなのであろう。そして、そういった側面を簡単に捨てることができない。

仁斎は、「性」とは「気質の性」であるとした。この「気質の性」とは先に触れたように朱子学の用語である。朱子学では「本然の性」と「気質の性」の両方を立てる。「本然の性」は理であって、朱子学の「性即理」の「性」にあたり、「性」の本旨とされる。それに対して「気質の性」は気の影響を受けた人間の生まれつきである。仁斎は「性」とは一律に善なるものではなく、単なる生まれつきであるとして、朱子学の言う「理」や「性」に関わらせるのを否定するのである。
単に「性」は生まれつきであると言うために、仁斎は朱子学の性の二分論を持ち出した。心における善悪の混在、宇宙全体の理法と人間の本性の関係という問題があることをおさえたうえで、善の源泉を「性」に求められないこと、宇宙の理法を人間の内面の問題に持ち込むべきではないことを言っているのである。つまり仁斎は単純に性を生まれつきとしているのではなく、性について考えられる種々の理論をふまえたうえで性の持つ意味を後退させているのである。なぜ孔子が偉大なのか。それは孔子以前、既に存在した天人論や鬼神論にとらわれず、道の本質である日常倫理に全関心をしぼったからなのである。道は高遠ではなく、あくまで卑近なのである。この論理構造は、仏教や朱子学を経過した後で、あえて日常に絞り込んだ仁斎の立場が重ね合わされている。
仁斎がなぜかかる見方をとるようになったかというと、彼は自己の意識に閉じこもって松下町の居宅に引きこもっていたという経験があるからである。そこから脱皮するには、世間に身を投げ入れることが必要であった。生まれつきはそれぞれの人間はばらばらであるが、性の外にある道に沿うことで社会が円滑に形成運営されるのである。道は人が往来する道路である。人々は同じ道路を歩むことで共存共栄できる。そのためには道をしっかりと歩める徳を自分の身につけていくことが必要である。仁斎は、理が抽象的原理として不定形な日常を拘束していくことを拒否する。日常における人間の営為は抽象的原理で割り切れるものではない。その場その場で自己の知と行が道にそっているかを限り無く他者とともに検証していくという個別的営為を無限に積み重ねていくことが求められているのである。

朱子学が『大学』と『中庸』を駆使して形而上的思考を繰り出すのを仁斎は両書を否定することで拒否しているのである。なお仁斎は『大学』は、朱子学でいうような孔子及び弟子の
そう
子の語を記した書物ではないとして否定するが(「大学は孔氏の遺書に非ざるの弁」)、『中庸』については『論語』と『孟子』の内容に合致するところにのみ意義を認める。

伊藤仁斎は、基本的に朱子学の延長で考えた。しかし、彼は、朱子学において、最も基本的なフレームを捨ててしまう。つまり理気二元論である。
彼は、すべてを「気質の性」だけで説明しようとする。
つまり、理を自らの考える「日常倫理」の対象から除外するのである。
しかし、ね。
よく考えてみると、これと似たようなことを、孔子自身が言っているんですよね。

  • 宇宙の理法を人間の内面の問題に持ち込むべきではない
  • なぜ孔子が偉大なのか。それは孔子以前、既に存在した天人論や鬼神論にとらわれず、道の本質である日常倫理に全関心をしぼったからなのである。

天人鬼神の話は、我々、有限なる人間の範疇の外の話なわけでね。そんなことより、もっと考えなければならないことがある。そのことに、集中するのが、彼の考えた

  • 普通革命

つまり、日常倫理なのだ、と。確かに、天人鬼神の話について、確実なことが言えたなら、すごいことですよね。でもね。そんなことが分からないと、倫理的ではありえないんですかね。
こういった視点から考えると、いかに、伊藤仁斎が革命的な意味があったのかが分かるように思えるんですけどね。

仁斎は道を人の性から分離して外在化させ、天道ではなく人道であるとした。人の性は単に生まれつきに過ぎず、道を自分に体することで徳とすることはできるが、性のままでは価値と無縁なものなのである。この問題については既にかなり述べた。
ここでは、このような仁斎の議論が、朱子学の自力主義に対する批判にもつながっていることを述べておきたい。コロンビア大学の著名なアジア思想研究者のウィリアム・セオドア・ド・バリー氏は、朱子学をはじめとする近世中国の儒教思想個人主義自由主義を見出した。このうち自由主義というのは社会の調和を乱さない限り個の内部に立ち入らないという社会的自由という意味での精神的自由ということである。もっとも朱子学では結果的には人間の心が一律になることを要求するのであって、その不寛容が自由という概念との違和感を生むのだが、この問題には立ち入らない。ここではド・バリー氏が朱子学などの新儒教個人主義としたのは、かかる思想の自力主義的性格を指摘していることを言っておきたい。
朱子学陽明学も自己の心に理があるとしたからこそかかる自力主義が説けたのであるが、仁斎は自力のみで自分を高められるとは思っていない。自分の心をいくら探っても性が単なる生まれつきだけである以上、そこから進みようがないのである。必要なのは、最初から他者の中に自己を投げ入れ、それと同時に他者から自己に投げかけらえる視線も共有することで、道を獲得していくことなのである。仁斎が、十人が十人わかり、行えるのが道であるということを再三強調するのは、そのためである。

朱子学は、人の内面にさえ、「理」を見るので、つまりは、なんらかの「完全」さを見るので、つまり、完全なので、

に至れるし、完全な演繹を行える、という順番になるんですよね。たしかに、こうであるから、「自力で人間には可能なのだ」と言うから、始めて認められる権利とか、大人の資格のようなものがあるのかもしれない。
でもさ。
人間なんて、そんな完全なものじゃないんじゃないですかね。多くの場合、周りの優秀な人たちに影響し合って学んでいくものですよね。なんでも、自分で解決した、なんていうことは、往々にないんじゃないですかね。
なんていうかな。
朱子学は、どこか「完璧」を信じているんですよね。それに対して、伊藤仁斎は、人間の「普通」さを「当たり前」のこととしている。超人的に自分でなにもかもを切り開いていくような人間存在を、想定していない。どんどん、周りに流されていく、弱い自我を前提にしている。しかし、たとえそうであっても、倫理的でろうとする地平において、

  • まっとう

であるなら、それでいいんじゃないのか、という「普通」さが、特徴なんじゃないですかね...。

江戸の朱子学 (筑摩選書)

江戸の朱子学 (筑摩選書)