アイドルが写す社会の鏡

遠隔操作事件の犯人の片山被告が自白をし、ようやく、この事件は決着をみたわけだが、その彼が、自らを「サイコパス」と称したことに、もう少し、社会はデリケートに考えるべきだったんじゃないか。
彼は、ついそれまで、警察の証拠能力の限界から、もしかしたら、無罪を勝ち取れるんじゃないのか、という雰囲気さえあった中、言わば、彼自身の「自爆」によって、自首という形になったのであって、つい最近までは、例えば、videonews.com では、何度も弁護士の会見が放送され、彼は言わば、

  • まるで時代の寵児であるかのようにチヤホヤされていた

のである。この光景を見て、いわゆる、自分が「サイコパス」なんじゃないかと、思っているような、日本の全国の若者に、彼がまるで「成功者」のように、

  • メッセージ

を送ってしまったのだ。
私は、そういった延長上に、今回のAKB48の握手会での「のこぎり」切りつけ事件を考える。この事件は、片山被告の「パフォーマンス」が、全国の潜在的片山被告を<覚醒>させた面がある。だからこそ、社会は、もう少し「警戒」すべきだったんじゃないだろうか。
例えば、秋葉原ナイフ事件のときを考えても、そもそも、アキバのようなところが近年扱っている、マンガやアニメのようなサブカルチャー文化のコンテンツには、多分に、暴力的な描写が描かれているわけで、そういった延長に考えるなら、こういった事件の発生は、どこか

  • 挑発的

に繰り返される結果を予想せずにはいられないんじゃないか、という印象も、どうしても避けられないようにも思われる。
私は、いわゆる「アイドル」論のようなことをやりたいとは思わないが、例えば、子どもの頃の記憶というところから考えてみたとき、以下の松田聖子の映像を見ていて、

一つ、明らかな特徴として、「まったくプロとしてトレーニングされていない」という印象なんですよね。なんとなく、田舎から都会に連れてこられて、ステージの上に立たされて歌っているんだけど、本人自体が、自分がなにか、これといって「世間」に自慢して見せられるような「プロの技」があるなんて少しも思っていない。
ただ一つ言えることは、彼女は、どこか「楽しそう」なわけですね。それは、ちょっとしたことかもしれないけど、これを「消費」する、つまり、テビの前で見ている人には、それが、どこか「快楽」になるようなコードがあるんだと思います。
年ごろの女性が、なんとなく「楽しそう」にしている姿を見ることは、それだけで、どこか「はっ」とさせられるパワーがある、という意味において。
私は、こういった初期アイドルの特徴は、社会学者の見田宗介が注目した視点で言うならば、

  • のぞき

の関係にあったんじゃないか、と思うわけです。

Nは、「覗く人」だった。Nの家族が青森県に移住してきた当初、彼らの部屋は、ベニヤ板一枚をへだてて、一杯飲み屋に隣接していた。幼いNは、ベニヤ板に穴を開けて、毎夜、飲み屋を覗き見ていたという。鎌田忠良は、こう述べる。「いったい彼が、再三の忠告にもかかわらず、執拗に覗きつづけた<もの>はなんであったのか。彼はそこに、一家の生活とはまるで異なる<別世界>を発見したのにちがいない」と(鎌田『殺人者の意思』)。
これを受けて、見田はこう述べる。今ここの現実=現在は、「欠如」として否定的に感受されていたはずだ、と。その欠如を補償する、「理想の世界」が向こう側に投射されるのだ。後に獄中で、Nは次のような詩を書く。「壮麗な銀色(シルバー)のシャンデリアの光り輝やくその下で/赤の絨毯の上で世の善良な人々は/楽しく愉快な語らいにお熱がとても這入ります/(中略)/そんな夢見るおらあの側に在る物は.../黒い畳にアルミのコップ垢染み机と便器の上に板のせ椅子/(中略)/それでもおらは夢見るぞ手前等[看守等]なんぞ消しちゃうぞ」。
ベニヤ板の穴からの覗き見を、貧困なNに特殊な体験と見なしてはならない。Nより少し豊かな人々にとっても----特に地方の農村部にいる人々にとっては----テレビのブラウン管が「ベニヤ板の穴」の役割を果たすのだ。

不可能性の時代 (岩波新書)

不可能性の時代 (岩波新書)

私たちは、テレビのブラウン管を通して、松田聖子というデビューして何ヶ月かの、ほとんど、素人の女の子が、テレビの前でカラオケさせられている、その

  • 恥ずかしい痴態

を、お茶の間で家族と一緒に見させられる。そういった新鮮な刺激に、印象付けられていた、ということなのではないだろうか。
よく考えてみよう。当時においても、年頃の高校生くらいの女性が、一人で大きな声で歌っている場面には、なかなか、巡り合うことはなかったのではないだろうか。まさに、そういったプライベートな姿を「のぞいている」ような感覚として、アイドルを消費していたのであろう。
そして、おそらく、当時のアイドルの警備は非常に厳しかったのではないか。いや、たとえそうでなかったとしても、今のAKB48のように、当たり前のように、握手会なんてやっているはずがなかった。それは、アイドルが「進化」しているのではなくて、当時は、それが非常に「危険」であることを、だれでも、常識で考えれば分かることだったからなのではないか。
私は上記の松田聖子の初期の映像を見ていて、一つだけ、はっきりと思ったことは、彼女は少しも「がんばっていない」ということなんじゃないか、と思ったわけである。まず、

  • ダンス

をやってない。適当に、手の振りがついているだけで。そういう意味では、今見ると、アマチュア的でもあり、「やる気がない」ようにさえ見える。
しかし、それが「当たり前」だったんじゃないのか。つまり、それこそが、アイドルの「定義」に近かったんじゃないだろうか。
ついこの前まで、放送されていたアニメ「Wake Up, Girls!」を見ていて、私は、どうも途中からの展開が、まったく、納得できなかった。それは、なぜか「スポ根」ものに変わっている印象が、ほとんど理解できなかったからだ。なぜ「がんばる」のだろう?

  • なんのために

アイドルをがんばるんだろう? アイドルは、そういうものなのか? アイドルを通して、なにか、やりたいことを思うことはあってもいいが、アイドルそのものは「がんばる」ことなのか?
あと、もう一つ、違和感をもったのは、そもそも、視聴者は何を、そのコンテンツに求めているのか、といったことの視点に関係する。
少し前に放送されていた、アニメで「夏色キセキ」というのがあった。4人の幼馴染の女の子をめぐる話であったが、彼女たちがアイドルグループ「フォーシーズン」を好きである理由には、どこか、彼女たちの息の合った「ツーカー」の思いやりの姿勢が、自分たちに重ね合わせて

  • 自分たちも、ああいうふうな関係でいたい

というような、そういった部分に魅かれている、という描き方だったと思うんですよね。特に、印象的だった登場人物が、環凛子(たまきりんこ)で、彼女が転校してきて、友達がいなかった頃に、友達になってくれたことへの感謝をずっと持ち続けている、そういった視点からの描かれ方をしていたわけだけど、つまり、彼女たちが普通に、今「そのまま」である価値を、「そういうもの」として、そのままあることが先ほどまでの「のぞき」の延長として消費さえたんだろうけど、そういった雰囲気は「おニャン子クラブ」くらいまではあったんでしょうけどね。
とにかく思ったことは、彼女たちアイドルが、見た目がどうとか、歌がうまくないとか、踊りは下手とか、そんなこと、みんな

  • どうでもいい

ことじゃないのか? 美人だから応援するのか、なんかの才能があるから応援するのか。もう、そういうのやめないか。そうじゃないんじゃないのか。

  • 彼女たち「が」楽しそうにやっている

そのこと「自体」に価値があるんじゃないのか(そういう意味で、まず、アイドル「が」オタクであるべきなんででしょうね orz)。そういった意味においても、アイドルについても、「普通革命」が必要なのでしょう...。