斉藤環『世界が土曜の夜の夢ならば』

掲題の著者は、自らの「ヤンキー」論を世に問うにあたって、まず、

  • 言い訳

から始める。

しかし、こうしたややこしい主張は、なかなか理解されない。もちろん僕の文章力の乏しさにも原因があることはわかっている。しかしそれにしても、性差の二元論を否定しておきながら「所有」と「関係」という別の二元論にこじつけようとしている、という批判がこれほど多いとは思わなかった。それを誤読とは言わないが、少なくとも僕の意図したところは違う。
この経験に懲りて、僕はこの本では、最初から自分の立場と意図をきんと説明しておこうと考えた。いさかくどい前置きであることはわかっている。ただ、この点を十分ふまえておかなければ、僕の試みも単なるヤンキー差別を助長する行為として受けとめられてしまいかねない。それだけは避けておきたいのだ。

これは、何が言いたいのだろうか? 彼はこの本を書き上げた後に、この本は何かしら、ヤンキーへの自分の「差別」が書かれている、と直感したのであろう。そこで、それを指摘される前に、自分で差別と解釈されてもしょうがない部分があることを言うことで、その攻撃を避けられうる、と考えた、ということのようだ。
では、どういった「言い訳」によって、その問題は回避されうると考えた、ということなのか。

ナンシーが「ヤンキー文化」に言及した最初期の記事は、週刊朝日の連載「小耳にはさもう」だった(「気合いを入れて納得のいく仕事をして、スタッフと一緒に泣きたい」『小耳にさもう』朝日新聞社 参考3)。一九九三年十一月十日掲載のそのコラムは、横浜銀蝿(参考4)の元ボーカル「翔(しょう)」の活動再開について論評していた。

つまり、彼は自分のやっていることは、ナンシー関の「関心」の延長上にあるのであって、私を批判したいなら、ナンシー関の批判から始めてくれ、と言っているようだ。
それにしても、なぜ、この本は読みにくいのか。それは、ようするに、「ヤンキー」という言葉を使っておきながら、最後まで、その定義をしようとしないから、と言うことができるであろう。
そのことは、掲題の著者の「オタク」論においても同様だと言える。『戦闘少女の精神分析』という本でも、結局のところ、この著者が「オタク」とはなんだと言いたいのかが、さっぱり分からない。それは、「ひきこもり」についても同じだ。
これは、もしかしたら、ラカン精神分析の特徴なのかもしれない。なにかを、「定義」してしまうと、別の事態に遭遇した場合に、自分の手足を縛ってしまうので、動きにくくなるという認識があるのだろう。だから、なんとなく、輪郭をぼかして、曖昧に「示唆」するだけに、とどめておく。
同じことは、この本の最初にある「ギャル」論においても、繰り返される。ギャルとはなにかに答えないかわりに、ギャルの

  • 例(=代表=サンプル)

は提示する。ギャルの行動の「例」は提示する。しかし、結局のところ、ギャルって何? という問いには答えない。
しかし、こういった態度は、科学的であろうか?

さきほど僕は、ヤンキー美学の中心に「気合」があると述べた。
ならば「ギャル」の美学の中心はなんだろうか。
本章の前半では、主にギャル語を中心に、そのヤンキー語との親近性と、オタク語との対照性をみてきた。かくも僕が言葉にこだわるのには、はっきりした理由がある。
実は「ヤンキー」と「ギャル」の「近さ」を語る際に、けっして忘れるべきではないキーワードがあるのだ。
それは「アゲ」である。

もちろん「気合」の基本には「筋を通す」とか「仲間を裏切らない」といった倫理観があるだろうし、「アゲ」にはそうした倫理性は乏しい。しかしひとたび、ヤンキーやギャルのファッション趣味といった「表層」のみに照準するなら、そこに求められているのは間違いなく、テンションを上げることだ。すなわち「気合いを入れ」て「アゲアゲになること」なのだ。

普通に考えて、ギャルとヤンキーには、ある種の「真面目」さが、多きな違いのように私には思われる。ところが、掲題の著者は、あまりそういった側面には注目しない。むしろ、ギャルもヤンキーも「同質」的な「真面目さ」をもっている、と解釈することで、その「共通」性を強調したがる。

後述するように、ヤンキーの美学においては、ギャグやパロディがメタレベルを形成しない。それは常にベタな形でイカしたものととらえられ、さらにパロディックなエレメントをめいっぱいはらみながらいっそう誇張され、それがまた新たな美学につながる、という特異な回路を持っている。

掲題の著者は、ヤンキーの「本質」は、この引用にあるように、「ギャグやパロディがメタレベルを形成しない」ことにあると解釈する。つまり、彼らの言葉で言えば「マジ」ということになるのだろうが、それは、掲題の著者にしてみれば、「ギャル」も変わらない。
しかし、そういう意味で言うなら、「オタク」も「ひきこもり」も、ある種の「真面目」さが関係している、と言いたいのであろう。つまり、掲題の著者の分析手法は、いつも「同じ」なのだ。なんらかの、

  • 病気

であると言うとき、そこには、一種の「真面目さ=偏執性」が指摘される。それは、意識していようが、無意識だろうが関係ない。とにかく、そういった片鱗が指摘できるなら、それは

  • 病気と同型

だと言いたいわけである。
なぜ、掲題の著者は、この本を書いたのだろうか。というのは、私には、少しも、この本のオリジナリティが感じられなかったからだ。この本以前の「ヤンキー論」と、ほとんど同じような指摘を繰り返し、まったく、新しいことを言おうという気概も感じられない。もっと言えば、以前からある「オタク」論や「ひきこもり」論と、まったく、同型の指摘にしか思えない。
ところが、ある個所に入ったとき、急に、掲題の著者の筆致が冴え始める。それは、義家弘介という

と呼ばれる人について言及する個所において、である。

教師という立場に身を置くことで、彼の「反社会性」は無害化された。そういう問題だろうか。僕にはどうもそうとは思えない。もちろん義家がいまなお犯罪に手を染める可能性があるとか、そういうことが言いたいわけではない。そうではなくて、彼のもっとも中心にあるもの、彼の言葉で言えば「熱」にあたるもの(これについてはまた後にふれる)、これこそが、ヤンキー時代から少しも変わることなく受け継がれてきた彼の本質なのではなかったか。
よく知られた話だが、義家は大学時代、弁護士を目指して勉強中に、バイクで事故を起こし生死の境をさまよった。彼を救ったのは病床に駆けつけたかつての恩師である「安達先生」の「あなたは私の夢だから、死なないで」という言葉だったという。そして、回復した彼は決意するのだ。
「クソッタレの世の中に噛み付いて生きて行こうとずっと努力してきた。でも、それはもうやめにしよう。クソッタレの世の中だからこそ、傷つき、涙している人たちがいる。俺はその人たちに寄り添いながら生きていこう」(義家弘介『ヤンボコ----母校北星余市を去るまで』文春文庫 参考3)
「クソッタレの世の中」という言葉に注意しよう。この言葉には、後にふれるヤンキーの社会に対する関心の希薄さにも通ずるような、曖昧な汎用性がある。つまりいつの時代でも通用する言葉、ということだ。
義家は確かに変わったのかもしれない。変わっていないのは社会が「クソッタレ」であるという認識である。そんな社会に正面からぶつかっていくか、あるいは社会の犠牲者に寄り添うのか。いずれにしても義家は、まず社会を否定するところから「闘い」をはじめようとしている。つまり、それこそが彼の「変わらなさ」なのである。

掲題の著者は、ヤンキーは社会への関心が「希薄」であることが、

  • 特徴

だと言う。そうだろうか? よく分からないが、掲題の著者はそれを義家という人に代表させる。掲題の著者は、なぜヤンキーが社会への関心が「希薄」なのかを、彼らの社会に対する「クソッタレ」と考えているその

に見出そうとする。ヤンキーとは「社会の否定」から出発する連中なんだ、と「定義」するわけである。
その延長で、掲題の著者は、ヤンキーは「反知性」主義者なんだ、という主張を始める。

原点、直球、愛、信頼。いずれも文句の付けようがない言葉だし、僕もこうした主張に部分的には賛成だ。ただ、この種のプリミティブな情緒を重視する発想は、しばしば極端な反知性主義に走ってしまう危険性がある。たとえば義家は次のように述べてもいるのだ。
「教育は学問ではない。公式に則ってさえいれば答えが出るなんていう単純なものではないし、熟考したからといって大切に思う者を導けるわけでもない」(『ヤンキー母校に生きる』)
反知性主義のまずい点は、「情を欠いた教育」批判が高じて、子どもに対する理論的・知的な理解を一切拒否するところまで暴走してしまいかねない点である。案の定、さきの教育理論の否定にとどまらず、彼の批判はカウンセラーや医療にまでおよぶ。精神科医としてひきこもりの治療研究をしている僕などは、真っ先にやり玉に挙げられてしまうだろう。
「LD(学習障害)、ADHD(注意欠陥・多動性障害)、アスペルガー症候群高機能自閉症)。僕が子どもだった頃には聞いたこともなかった病気。しかし、現在はそんな診断を受けている子どもたちが多数いて、そんな子どもに対応するためのマニュアルが流布さあれている。傾向を理解することの大切さに疑いはない。しかし、そんな子どもたちを特別扱いすることによって、彼らは一体、どんな未来を手にするというのだろうか? 薬を処方することで安定させたとして、その先で彼らはどんな成長を勝ち得るというのだろうか?」(『ヤンボコ』)
彼の苛立ちは僕も部分的には理解できる。しかし、発達障害という診断と適切な療育方針によって救われた多くの子どもたちが現に存在する以上、これらの言葉はやはり根拠の乏しい情緒的批判と言わざるを得ない。
このほかにも、スクールカウンセラー批判や、向精神薬は「合法ドラッグ」といった批判に至るまで、ほとんど言いたい放題である。
また義家は、インターネットをはじめとするバーチャル・コミュニケーションに対しても批判的な立場を取っている。彼が警察庁(!)の「バーチャル社会のもたらす弊害から子どもを守る研究会」に名を連ねていた事実を見れば、それはあきらかだろう。ヤンキー的リアリズムは基本的に仮想現実とは相容れないことが、このことからもはっきりする。
以上のような義家の態度は、しかし見方を変えれば筋が通ったものとも考えられる。理論や分析の視点は、体当たり主義にとっては障害物にしかならない。「熱」と「関係」を全面的に信ずる限り、理論など無用の長物でしかない。この立場はプリミティブであるがゆえにきわめて強く、ある種の普遍性すら帯びている。
しかしまた、その強さゆえに、この立場は社会への無理解や無関心のもつながっていく。さきにも述べたとおり、義家にとっての社会は常に「クソッタレ」なもの、辛く厳しいもの、という認識で止まってしまう。それゆえ変えるべきは個人であって、社会のほうではないということにんる。こうした姿勢は、必然的には現状肯定の保守反動的立場に落ち着きがちだ。義家が自民党に籍を置き、日教組批判を繰り返すのは、この点から見ても筋が通ってはいる。やはり彼はいなる立場にあっても、原点を忘れてはいないのだ。

私によく分からないのは、なぜ掲題の著者は義家さんを「反知性主義」だと言うのか。私には、彼は彼なりに考えて、結論を出そうとしているようにしか思えないのだが。
なぜ、掲題の著者は義家さんを「反知性主義」と判断したのか。どの辺の、どこがそうなのか? 私には、上記を読んでも、どうも、よく分からないのだが。

  • 「情を欠いた教育」批判が高じて、子どもに対する理論的・知的な理解を一切拒否するところまで暴走してしまいかねない

と言っているが、上記の指摘のどこが「そう」だと、掲題の著者は言っているのだろう? 

  • しかし、発達障害という診断と適切な療育方針によって救われた多くの子どもたちが現に存在する以上、これらの言葉はやはり根拠の乏しい情緒的批判と言わざるを得ない。

そうだろうか? しばしば、精神医療が薬の投与を多用することへの批判は昔からあるし、そもそも、ラカン精神分析は「科学」なのだろうか? 私には多分に宗教と変わらない性格を感じざるをえないのだが、そういった批判も「反知性主義」だと、掲題の著者は言うのだろうか?
ようするに、この本から「滲(にじ)み出てくる」香(こう)ばしいまでのものとは、掲題の著者による、「おたく」であり「ひきこもり」であり「ギャル」であり「ヤンキー」でありといった、掲題の著者言わく

  • 病気

の人たちへの軽蔑(=慈善)の感情なのである。この著者が言いたいのは、ようするに、彼らは、「馬鹿」であり「頭が悪い」(という<病気>)ということなのだ。ただ、そう直接に言うと角が立つから、「地頭はいい」とか、適当に「おせじ」を混ぜることは忘れない、というだけで。
上記の義家さんにしたって、なぜ彼が「熱さ」にこだわっているかといえば、ようするに、それって「コミットメント」の問題なわけでしょう。つまり、アカウンタビリティがある、と彼は考えている。教育という場において、なんらかの関係性をもったなら、その結果において、それなりに相手に対して「責任」が発生する、と言いたいのでしょう。
それに対して、掲題の著者の「知性主義」って、一言で言えば、

  • 医療行為をお金で売っている

と言いたいわけだ。だから、その医療行為に責任なんてない。それを買った患者が「馬鹿」だった、というだけで。患者が実際に治るか治らないかの責任をとるつもりなんて毛頭ない。
つまり、「知識」って、そういうものですよね。その知識の通りにやって、実際にどういう結果になるか、のそういった「責任」を負わないのが「知識」ですよね。知識だから、それなりの割合で、助かる患者もいるんでしょう。でも、助からないかもしれない。そんなの知らない、っていうのが知識ですからね。
知識人の特徴は、彼らの「無責任」性ですよね。自分たちは、好き勝手に言いたいことを言っても、別に、その通りにやった人の結果に対して、なんらかの責任を引き受けようっていうわけじゃないんだよね。だいたい、知識ってなんだろうね。ただの、一般論じゃないんですかね。そんな、一般論って、この社会は、常に、それぞれの場面において、少なからず「特殊」性をはらむのだから、そのままで通用するわけがないんですけどね。
私なんかから見たら、別に自分の考えと義家さんの考えが一緒だなんて言うつもりもないけど、彼は彼なりに、いろいろ考えて納得が行って、発言していると思うんですけどね。そういった人に向かって、「反知性」とか、どういうつもりなんだろうね。たんに、学歴がないって言いたいんですかね。高学歴エリートからドロップアウトしていった人たちを、

  • 勉強が足りない

とか説教がしたいんですかね。彼らは彼らなりにではあっても、いろいろ学ぼうとしていると思うんですけど、そういった教育過程から、はじき飛ばしておいて、彼らなりに、がんばって学ぼうとしてきた姿勢を、

  • 反知性

とか、よく言えるよね。やっぱ、エリートさんて違うよね orz。
掲題の著者の、もう一つの特徴が「ヤンキー」と儒教の関係への、明確な関心の薄さ、にあるんじゃないだろうか。

暴走族が集団内部での序列に忠実に従うことを考え合わせるなら、彼らの家族主義が儒教文化的価値観に由来している可能性についても検討しておく必要があるだろう。例えば儒教における最重要のプリンシパルである「孝」についてはどうか。もちろん親を尊敬するヤンキーも少なくないし、母への思慕はむしろ定番だ。しかし、それにもまして親を憎悪する者も多いことを考えると、彼らが常に「孝」を重視しているとはとても言えない。
加えて彼らの家族主義は、両親以上に配偶者やわが子へと向けっれがちだ。そこにはいば”血縁より絆”といった価値観がみてとれる。先祖や両親といった血縁関係に基づく序列よりも、自分と「夢」を共有し、苦労をともにしながそれを育んできた妻ないし夫との「絆」と、その象徴であるわが子のほうが、圧倒的に重視されるということ。
ましてもう一つのプリンシパルであるところの「忠」に関してはさらに微妙。ヤンキー集団もタテ社会なので、帰属する場所での序列はきちんと尊守される。しかし、どの集団、どの共同体に帰属するかという点に関しては、本人の選択次第だ。ここにも血縁や伝統、あるいは共同体的規範は関係ない。

上記の指摘は非常に違和感を感じるわけであるが、どうだろうか? それは、おそらくは、掲題の著者が「ギャル」と「ヤンキー」の同質性を必要以上に強調するところにあるんじゃないか、と思われるわけです。
私たちが普通に「ヤンキー」について考えるとき、彼らの「任侠映画」のようなもの(または、少年ジャンプ的なものからの影響)を考えるわけですけど、どうも、掲題の著者は、そういったことに、ほとんど関心がないようなんですよね。「任侠映画」であり、国定忠治のようなものの延長に、「ヤンキー」的なものを考えることは、あまりにも「常識」のように思うわけですが、どうも、こういった方向に話が進むと、彼の得意な、ラカン精神分析と相性が悪くなってしまう(ヤンキー=マザコン、と言いたいみたいですしね)。
ただ、このことについては、今度は対談集の方で、対談者に指摘されて、えらく感心しているみたいですが、なんとなく、あまりにもの「わざとらしさ」が、なんなのかなあ、と思うわけですが。
どう考えても、「ヤンキー」論は、三島由紀夫を介して、「陽明学」につながり、まさに、小島毅先生の例の本に繋げて考えることが、非常に自然なように思われるのですが、どうして、そういった方向に、掲題の著者の考えは向かわないんですかね。

斉藤 もうひとつ、ぜひ伺いたかったのは、気合い主義のルーツについてです。片山杜秀さんが言われているのは、日本には資源がなかったのが大きいということで......。第一次大戦に参加した際には、総力戦なるものを理解していて、「気合い」は総力戦にならないためのものだったのに、いつのまにか「総力戦でやり抜こうぜ」という話にんっていたと。
那覇 バカだから気合い主義になったのではなく、気合い以外に資源がない国だと自覚できるくらいには賢かったからこそ、そうならざるを得なかっっという分析ですよね。戦前の軍人はヤンキー度一〇〇パーセントに見えて、中途半端にインテリ的なヨウ素もあったことが、より大きな悲劇を産んだと。
一方で自分が『中国化する日本』で依拠したのは、いわば気合い主義のルーツとして陽明学に注目する小島毅先生の見解です。中国で宋朝以来、科挙というインテリ支配の体制を支えたのは、儒教のうち朱子学に結実する思想で、これは知性主義なんですね。「しっかり古典を読んで、修養して勉強すれば、あなたも聖人になれます」というのが朱子学の発想です。だから、試験に受かれ官僚として天下を治める側に回れる。
明朝の末期に台頭した陽明学はこれに対するアンチで、「勉強なんかしなくても聖人になれます」、というか「勉強してない人のほうが実は聖人なんです」という発想。勉強して小理屈かりこねるインテリは、かえってそのことで世の中を見る目が曇っていくというわけです。
斉藤 それはもろにヤンキーはないですか(笑)。
那覇 中国史の岸本美緒先生がよく引かれる例を読むと、実際ヤンキーですよ(笑)。開祖の王陽明は大略、「自分の心に響かんければ、孔子の言葉であっても間違いだ」とまで言い切っているし、陽明学派の説法にはこういうのがあるんです。”赤ん坊はお母さんを慕って泣くが、あれは儒教の教典を読んで、親に対する孝が大事だと勉強したから泣いているのか。違うだろう。つまりどんな人でもその心には、はじめからおのずと道徳に適う性質がそんわっているんだ。大切なのは、そういうイノセントな「赤子(せきし)の心」を取り戻すことだ”と。
斉藤 それでは本能主義というか性善説というか......。まさに裸になれば皆同じ、ホンネと気合いべぶつかれば夢は必ず適う、というヤンキーポエムにまっすぐつながりますね。ヤンキー文化は形式的には儒教を換骨奪胎したところがあると考えていましたが......気合いのルーツで儒教にあったとは。
那覇 専門用語では「心即理しんそくり)」と呼ばれるものですが、母親の比喩がでてくるあたり、儒教とは斉藤さんの言う父性なのか母性なのか、割り切れないところが面白さなんだと思います。

ようするに、さ。なんていうかな。どうも、こういった高学歴知識人たちって、イギリス産業革命のアナロジーで言わせてもらうと、

意識が強いんじゃないんですかね。むしろ、頭の悪い「大衆」が、エリート階級の「指定席」に潜り込んでくると、猛烈な

  • バッシング

を始めるんだよね。これって、完全な「いじめ」なんじゃないですかね。

那覇 ただ僕は反原発の場合は、むしろ飛び込んでいった知識人がヤンキー化しすぎてしまった点が問題だっっと思うんです。たしかに日本では、ヤンキーと乖離しているかぎりインテリは影響力を持てないけど、「ヤンキーそのもの」になってしまうとそれはそれでダメなわけで。インテリ的な脱原発論こそを望んでいる人だって多かったのに、その期待に応えられなかった。電力は、気合いで供給できるものではないですから(笑)。
斉藤 その結果が山本太郎ですよ。
那覇 こういうペースで原発を減らしていけば何年後にゼロにできますというようなビジョンが欲しかったのに、それは出さずに、みんながとにかく止めちゃえとなっていた。電力が足りなかったらどうするのかといえば、「そこは気合いだ!」みたいな。インテリまでヤンキー化した脱原発論を叫んでいたら、山本太郎だけを残してブームは消えてしまって、かつてはインテリ政治家のホープだった細川護煕さんまでが、後追いの「即時ゼロ」論で都知事選に出て負けるという......。
斉藤 その後に「山本太郎はヤンキーか否か?」というくだらない論争も起きていたりするんですけどね(笑)。私は彼を見て「ニューエイジヤンキー」という新しい概念を提唱しています。まあ廃炉まで約半世紀というタイムスパンは、ヤンキー的気合い主義とはすごく相性が悪いと思いますが。
ヤンキー化する日本 (角川oneテーマ21)

上記の二つの引用の中で「笑」って使われている所を見てもらうと分かると思うけど、もう完全に、

  • 「ヤンキー」を馬鹿にしている

でしょう。こういう人間なんですよ。こういう連中って、本当に「山本太郎」をネタにするのが、好きだよね。彼らにとって、「ヤンキー」も「山本太郎」も「反原発」も、ようするに、「低能連中」の頭の悪さを、

  • シャレ

で、冗談で、ネタにしているんだよね。そういう意味で、彼ら「知識人」と「ギャル」って、むしろ似てるんじゃないかな。お互いに共通した特徴って、

  • 真面目にならない

でしょう。そして、真面目な人を、からかって仲間うちで「ネタ」にするのを楽しむ連中なんだよね。だから、彼らは絶対に本気にならない。

  • こういうペースで原発を減らしていけば何年後にゼロにできますというようなビジョンが欲しかったのに

って、そう思うんだったら、自分で調べて、自分で言えよ。自分で「証明」しろよ。なにもコミットメントする覚悟もなく、原発をネタに、頭の悪い人を馬鹿にして楽しいか。なにも責任をとるつもりもなく、思いついたことを、口からベラベラしゃべっているだけの、「頭の良い」連中は死ぬまで、そうやって、頭の悪い人を嘲笑してればいいんじゃないんですかねw