斎藤環『承認をめぐる病』

私は「承認」という言葉が嫌いだ。というか、もちろん、普通の「承認」という言葉を使うことに違和感があるのではなく、「何の」「誰に対する」承認なのかを伴わない、ドイツ語的な「動詞の名詞化」を、なにか意味のあることのように、ありがたがる傾向が気持ち悪い、と言っているにすぎない。
このことは、「キャラ」「コミュ力」といった用語についてもあてはまる。まさに、自民党の「日本をとりもどす」と、なにも変わらないレベルの

  • 奇妙な日本語

を使っておいて、なにも感じない、その「鈍感」さが、気持ち悪いわけである。
これは、私が考える「普通革命」にとっての、もう一つの特徴である「具体性」に関係している、と言えるのかもしれない。
なにか意味のあることを語れるということは、それが「具体的である」ことと区別できない。具体的でないものは、ある意味において、何も言っていないのと変わらない。つまり具体的であることは、倫理的なのだ。
このことは、たんに具体的である、つまり、5W1Hを問うだけではない。もう一つのことを結果する。それは、それぞれの言葉の「意味」の再検討を強いられる、ということである(具体的に考えるからこそ、それぞれの言葉の諸関係が否応なく、私たちにそう考えることを強いてくる、わけである)。
曖昧であることは、ファンタジーである。曖昧は自分が隠したいことを実現するための、テクニックである。つまり、具体的でないことは、相手に真実に気付かれないようにするための「戦略」なのだ。

  • 言わない

ことが、真実に気付かれない、最も一般的な「パターナリズム」の手法であると言えるだろう。
饒舌であることは、「具体的」であることを意味しない。いつまでも、延々としゃべり続けることが、真摯に取り組もうとしていることを意味しない。ただただ、「具体的」であるかそうでないかだけが倫理的なのだ。

そうした若者状況に、いまだ大きな変化はない。古市は他の調査の結果も合わせて、今の若者の「気分」を次のようにまとめる。
「若者の生活満足度や幸福度はこの四〇年間でほぼ最高の数値を示している。格差社会だ、非正規雇用の増加だ、世代間格差だ、と言われているにもかかわらず、当の若者たちは今を『幸せ』と感じている。一方で、生活に不安を感じている若者の数も同じくらい高い。そして社会に対する満足度や将来に対する希望を持つ若者の割合は低い」(前掲書)。
この、いささか混乱した印象をもたらす結果について、古市は社会学者・大澤真幸の論に依拠しつつ説明を試みる。
大澤によえば、人が不幸や不満足を訴えるのは、「今は不幸だけど、将来はより幸せになれるだろうと考えることができるときだ。逆にいえば、もはや自分がこれ以上は幸せになると思えないとき、人は「自分の生活が幸福だ」と答える。若者はもはや将来に希望が描けないからこそ、「今の生活が満足だ」と回答するのではないか。

もしも、この分析が、一定の「説得力」をもつと考えられるとき、一体、どういった問題が考えられるだろうか。
まず、若者が、もしも、今、「幸せ」だとするなら、それは、時の政権への「信任」を与えている、ということを意味するだろう。つまり、現政権の「正当性」を与えている、ということを意味する。
古市は若者が幸せと「語る」ことを、若者が幸せで「ある」ことと読み替える。しかし、この二つに違いがあることぐらい、少し前の知識人であれば、あまりにも常識だったのではないだろうか(例えば、戦中において、赤紙招集される子どもを取られる親たちが、どうして、その憎しみを、国家権力に語れただろう)。
古市は、若者の「幸福」化が、若者の「保守」化を結果すると同時に、若者の「保守」化は、<正しい>というところまで、つき進む。つまり、古市は、若者は「政府に文句を言うべきでない」という

  • 道徳

に結果する。つまり、変な話であるが、古市は若者が「幸福」で

  • いてほしい

ということになるのだ。
しかし、現代のSNS時代において、だれもがケータイを肌身離さず持ち、瞬時に、トモダチからのメッセージに

  • 応答

することを強いられる現代社会において、上記の「分析」は、あまりにナイーブではないだろうか。
なぜ、若者は「幸福」と答えるのか。それは、「幸福でない」という「回答」が、そのまま、

  • 今のトモダチの<態度>への不満の表明

とトモダチたちに解釈されることを分かっているからだ。もしも自分が「幸せ」でないと「言う」なら、それは、そのまま、「トモダチ批判」に直結する。大事なポイントは、彼らは、

  • まだ

トモダチを降りていない、ということである。まだ、彼らは「今」のトモダチ関係を「継続」することを目指している。そうである限り、彼らが、今の状態を「幸せでない」と答えるはずがないのだ(もしそうなら、今のトモダチ関係の解消を図ろうとしていることと同値なのだから)。
他方において、社会への満足感や、将来の希望といったことは、

  • トモダチに関係のない

ことであることが分かるであろう。これらは「トモダチがどうであろうと関係のない」領分の事実なのである。だから、彼らは、こういったことについては「ホンネ」で語るわけである。
例えば、ヘーゲルの言う「承認」という言葉を、なにかの「行為」と対応させて考えるべきではない。これは、むしろ<状態>に対する用語ととらえるべきだ。たとえば、ある子どもが、あるナカマグループの一員であると、自分が思っていたとして、承認とは、まだ、自分が自分でそのグループから「降りていない」と自覚している状態をあらわしている、と解釈することが、自然なように思われる。
つまり、これは「自分の態度」に関係した概念だということである。次のような例を考えてみよう。ある日、そのトモダチグループは、当人を除いて、この人を「仲間外れ」にしようと、シカトを始めたとする。しかし、それを知らない当人は、最初はまだ、いつものまま、彼らに対して、挨拶や「ちょっかい」のような行為を、いつもの「ノリ」で繰り返す。しかし、次第に「様子が違う」ことに気付き始める。彼らのデタッチメントが、たんに、いつもの延長にある「悪ふざけ」程度のものでないことに気付き始める。そして、それと同時に、今度は、当人自身のデタッチメントに対しての

  • 決意

が始まるのである。この場合、往々にして当人は、別に、トモダチ関係を解消したかったと思っていなかった場合が考えられる。それは、そうであろう。急に、彼らからの「攻撃」が始まったのだから。しかし、その正当性がどうであれ、その「きっかけ」がどちらにあったのかを議論することは難しい。例えば、上記の例において、その当人はKYにも、「自分は不幸だ」とアンケートに答えていた、としよう。このインプリケーションを、ナカマ批判を受けとった「トモダチ」たちが、自分たちで、彼らに対する関係性を後退させることを選んでいったとして、簡単に彼らの「道徳」性を責められるものだろうか。
大事なことは、「その」関係は、例えば、フェースブックにおける関係であったとして、相手の立場も考慮して、「おせじ」の一つも言えなければ、相手の職業的立場を危うくすると考えるなら、ゴルフ接待の太鼓持ちのようなもので、NOでもYESで丸めこむような腕力がなければ、続かない「トモダチ」なのかもしれない。
いずれにしろ、リアルな人間関係が、そんな理想的な「トモダチ」関係を、パブリックの場で続けられるわけがないのだ。お互いが「トモダチ」でありたいなら、なにかしらの

  • デタッチメント

をお互いが「倫理的」に内包していなければならない。それは、ある一線においては、相手のプライバシーに介入しようとしない、といったような(なんらかの、相手が自分が言い始めるような、きっかけなしには、「基本的」には、その原則を守る、といったような)。
もちろん、これは矛盾である。真のトモダチ関係は、そういった「遠慮」は、正しくないように思われる。しかし、往々にして、私たちは、相手のプライバシーを守ろうとする。それは、倫理的に求められていることを意味するが、もっと言えば、むしろ、この垣根は「緊急事態」においては、破ることを恐れない、といった決意でもあるわけである。
つまり、上記の例において、そもそも、当人における「デタッチメント」とは何か、という話でもあるわけである。ある日を境にして、トモダチたちがシカトを始めていたとする。しかし、ある日。なんの前触れもなく、彼らが「コミットメント」をしてきたとき、当人は、一体、どう振る舞うだろうか。これこそ「倫理的」問題である。
最初のトリガーはトモダチたちが離れていったことであって、当人自体には、どこにも主体性がなかった。だとするなら、このデタッチメントを貫くことにも、そもそも、この人には主体性がない。だとするなら、別に、また元のようにトモダチを続けてもいい。
人にはそれぞれ、さまざまな「事情」がある。それは、「正義(=ルール)」より重要なのだ。相手の「事情」を考慮することは、最も重要な倫理的態度だと言えるだろう。

ところで現在、フランクルに学ぼうとする精神科医は、あまり多いとは言えない。これはなぜだろうか。
彼が批判の対象とした精神分析すらもはや顧みられなくなり、実存分析や人間学派といった言葉もとうに古色蒼然とした色合いを帯び始めている。しかし、なにもそうした古さばかりが問題なわけではない。
例えばフロイトはいまなお再読する価値があるし、複数の視点から精読することで新たな発見がいまなお報告される。フランクルが提唱した実存分析の手法は、精神分析への批判からもたらされたものではあるが、こう言ってよければいささか素朴すぎるのだ。その言葉は明晰で力強いがおおむね一義的であり、フロイトの複雑で多義的な文章に比べれば、解釈の余地はあまりない。
フランクルは当初、フロイトアドラー精神分析に学びながらも、後年それらを批判している。批判はおきまりの汎性説批判に始まり、神経症を無意識に還元すること、夢判断においても性衝動が強調されすぎていること、精神性、すなわち道徳性や宗教性に向かう志向性を無視していること、神経症における身体因(器質因)の無視、などに及ぶ。
正直に言えば、こうした批判は精神分析批判としては紋切り型の域をそれほど出るものではない。人間にとって何が意味や価値を可能にしているか、その根源をラディカルに問うのが本来の精神分析であるとすれば、フランクルの態度はそのラディカルさを帳消しにしかねないという意味で反動的ですらある。もっとも、フロイトの弟子の多くは、精神分析という劇薬に耐えられず、ほとんどがこうした反動に走って分派を形成したわけで、フランクルもまたその一人であったということなのだろう。
フランクルの理論は、「責任」「意味」「価値」といった、いわば大文字の言葉へのナイーブとも言える信頼が常に前提となっている。素直に読めば勇気づけられもするが、批判的な視点から読めばいささか不満が残る。私は性格が悪いので、現在のフランクル受容が、いささか「相田みつを」的なものになってはいないかとの懸念がどうしても捨てきれない。
ロゴテラピーの理論にしても、表層的に読む限りでは、ラカンが批判してやまなかったアメリカ流の自己心理学、つまりストレートに「幸福」を追求するための自己整形術に取り込まれてしまうおそれは十分にあるだろう。
いや、ラカン派の立場から見れば、フランクルがきわめて重視する「意味」や「価値」などは単なる幻想にほかならず、「人生にYES」などと言っている人間は、自分がどれほどナルシシズムに浸り込んでいるかすら自覚できないナイーブな人間、ということにされてしまうだろう。断っておくが、これは私が言うのではなくラカン派が言うのである。
しかしそのように切り捨ててしまえば、今度は別のためらいが生ずる。果たしてフランクルの可能性の中心はそこなのだろうか。
フランクルにおいて奇妙に思われるのは、「どんな人生にも意味がある」と全面的な肯定を与えつつも、その一方で人生らの問いに答えるよう努力を促してい点だ。彼は決して「あるがままで」と、「あなたはそのままでいい」などとヌルいことは言わない。より高い価値を求めて邁進せよ、とわれわれを鼓舞する。それは果たして矛盾ではないのか。

上記は、3・11を境にして、フランクルの『夜と霧』が読まれていることに対して、掲題の著者がラカン精神分析の立場として、

  • 無意味

であることを党派的に主張している個所であるが、その内容は少し微妙である。つまり、ここでは掲題の著者自身が自らを、ラカン精神分析の立場との「差異」を、違和感を表明している、とも読めるからだ。
しかし、上記のフランクル批判は、少し奇妙な印象を受ける。なぜなら、私にはフランクルの言っていることは、むしろ、アドラー心理学に非常に近いように思われるからだ。上記の引用の最後に示唆される矛盾も、むしろ、アドラー心理学の特徴であり、またそれは、上記の引用で、ラカンがボロクソにバカにした、アメリカ的プラグマティズム流の「自己整形術」こそ、

そのものなわけで、なぜ、掲題の著者は、そこまで言うんだったら「アドラー心理学」を批判しないのだろう?

人間--非人間の問題に関連して言えば、もう一つ、東浩紀の確率と動物化をめぐる議論も無視できない。
アウシュビッツについて、例えば東は次のように述べている。

あるひとは生き残り、あるひとは生き残らなかった。ただそれだけであり、そこにはいかなる必然性もない。そこでは「あるひと」固有名を持たない。真に恐ろしいのはおそらくはこの偶然性、伝達経路の確率的性質ではないだろうか。ハンスが殺されたことが悲劇なのではない。むしろハンスでも誰でもよかったこと、つまりハンスが殺されなかったかも知れないことこそが悲劇なのだ。リオタールとボルタンスキーによる喪の作業は、固有名を絶対化することでその恐ろしさを避けている。(東浩紀存在論的、郵便的----ジャック・デリダについて』新潮社、一九九八年)

この問題意識は、東がサブカルチャーを語る場合にも一貫している。例えば東は、マルチエンディング・ノベルゲームにおける唯一の「トゥルー」エンドを否定する。あり得たすべての可能性を肯定することがこうしたゲームの魅力を創り出していると、東は主張する。こうした主張は動物化をめぐって、あるいはキャラをめぐって、幾度となく繰り返されてきた。
殺されるのが誰でもよかったとすれば、その死に固有の「意味」はない。よってそこには固有名もない。果してそうだろうか。むしろまったく偶然で無意味に見える選択の過程を生き延びてきた事実を事後的に意味づけ物語化すること、それもまた歴史の作用ではなかったか。
アガンベンと東の議論は、つきつめれば個人の固有性を、なんらかの記述可能性によって支えることが前提とされているようにみえる。もしそうだとすれば、それは固有名とはもはや無関係だ。それは柄谷行人の言う意味で、「固有性」ではなく「特殊性」をめぐる議論に近づきつつある。そしてフランクルの言う「唯一性」を支えているのは、言うまでもなく「特殊性」ではなく、「固有性」のほうなのである。

ここの引用は、なぜ東浩紀さんの議論が「つまらない」のかの、非常にいい「まとめ」になっているように思われる。彼は、論壇への登場を、柄谷行人の「固有性」批判から始めた。つまり、柄谷行人の言う「固有名」は、一種の

だ、というのを、いわば、デリダハイデッガーを使って、議論した。つまり、彼は、それ以降、柄谷行人の示唆する「固有名」性を自らの議論で使えなくなる。つまり、自分の議論の手足を縛った、ということになる。
この状況は、どこか、マルクスによるホイエルバッハ批判に似ていなくもない。マルクスはホイエルバッハの唯物論が、ヘーゲルの唯神論を「反転」したものにすぎないことを解明することで、それは、もう一つの「神秘主義」として同型なものになっていることを分析した。
同様に、東浩紀さんは、実際には柄谷さんが何が言いたかったのかには「関係なく」、自分の主張のために、柄谷さんの「固有名」を神秘主義

  • ということにしてしまった

ために、今度は、東浩紀さん自身が、自分の議論において、「唯一」性を使えなくなる。つまり、なにもかもを「特殊」性の範疇においてしか、話せなくなる。つまり、一種の「特殊」性の神秘主義化を手放せなくなる。その典型的な例が、一般意志2.0 で、ここにおいては、すべては、コンピュータ上のクラウドに記録されたログ情報に対する「統計」的な結果しか「存在」しないのと変わらなくなる。
あらゆる議論を、「一般 - 特殊」の層でしか考えられず、あらゆる「固有名」性を「神秘主義」として非難する東さんの姿勢は、一種の、柄谷さんの「可能性の中心」への哲学的テロと考えられるだろう。
しかし、それは成功しているのだろうか? 彼の議論が、さまざまに反発を受けてきたのは、例えば上記の引用にもあるように「アウシュビッツで殺されるのが誰でもよかった」といったような、まるで、オウム真理教での地下鉄サリン事件や、アキバナイフ事件や、AKBノコギリ事件など、絶えず繰り返される「だれでもよかった」と同じ

  • 特殊性(=一般性)

の層で常に語ろうとすることの非倫理性にある、ということなのだろう。この場合、「アウシュビッツで殺されるのが誰でもよかった」という言葉は、一体、だれが、だれに対して、どういったコミットメントにおいて、「判断」したものなのか。「誰でもよかった」とは、どういう意味なのか。どうしてこれが「正しい」と著者は思って、こう語っているのか。いずれにしろ、だれが、どういった「関係」性において、アウシュビッツのこの事件にコミットメントすることにおいて

  • 誰でもよかった「というのは政治的真実なんだ」

と言っているのか、という政治的倫理性が問われているはずなのだが、おそらく、こういった人たちは、どうもそういうことは関係なく、「正しいことを言っているだけなんだ」という(なにか自然科学と同型の)感覚なのかもしれない...。

承認をめぐる病

承認をめぐる病