岸見一郎『アドラー心理学入門』

ここのところ、「嫌われる勇気」という本を、本屋で見かけないことがない。それくらい、売れている、ということなのだろう。
この、アドラー心理学という、日本では、あまり聞き慣れない言葉であるが、この特徴を、どんなふうに受け取ればいいのだろうか。そんなことを考えてみたりする。
なぜ、アドラーフロイト心理学で満足せず、こういった独自の取り組みを行ったのだろうか。

以上のことをアリストテレスに即していうと、次のようになります。プラトンは、「真の原因」と「副原因」を考えただけですが、アリストテレスは四つの原因を考えます。彫刻を例に考えます。
まず、青銅、大理石、粘土がなければ彫像は存在することはできません。この場合、青銅、大理石、粘土などは彫像の「素材因」である、といいす。次に、彫像を創る彫刻家が必要です。これを「作用因」といいます。原因の三つ目として、「形相因」があります。彫刻家が像を刻むときには、モデルが必要です。人のこともあれば、もののこともあります。少なくとも、そういうものがなくとも、頭の中で何を作ろうとするかというイメージはあるでしょう。それらを「形相因」といいます。
さらにアリストテレスは、これらの原因の他に「目的因」を考えるのです。彫刻の素材になるものは自然界にたくさんあるでしょうし、作ろうとするもののアイディアを持った彫刻家はいるでしょう。しかし、もしも、そもそもその彫刻家が彫刻を作るということを望まなければ、彫刻は存在しないわけです。何かの目的のために、たとえば、自分の楽しみのために、あるいは、売るために、彫刻を作ろうとするのです。

古代ギリシアの哲学者アリストテレスは、「原因」という言葉を、上記のように、四つの層によって分類する。ここで、注目すべきは、いわゆるフロイト心理学が、なぜか、上記であれば、「素材因」「作用因」「形相因」、つまり、

  • 「副原因」(影響因)

には注目するが(ある意味において、自然科学が、自然界の「原因」を追求する態度と同型であろう)、それに対して、その行動の一つ一つに対しての

  • 目的

が、なんであったのかを必ずしも問いつめない、というところに特徴があるのかもしれない。

たとえば、甘やかされた子どもがいるとします。その子どもが甘やかされているとすれば、そのことの原因は母親である、ということはできません。たしかに母親はアリストテレスのいう「作用因」です。甘やかした母親がいなければ、母親に甘やかされた子どもはいません。
しかし、それでは、その母親に育てられた子どもが必ず甘やかされた子どもになるかといえばそうはいえないのです。子どもが甘やかされた子どもになるためには、プラトンの言い方に従えば、そのことを「善し」とする判断がなければならず、アドラーであれば、甘やかされた子どもになる目的は、各人の「想像力」によって創り出されるのであり、そのような選択や行動に先行する出来事や、外的な事象は「副原因」(影響因)であっても「真の意味での原因」(決定因)ではないわけです。
この場合、親の甘やかすという働きかけが子どもを動かすのではなく、子どもがそのような親の働きかけが自分にとってメリットがある、と判断したとき、その働きかけを自分の目的のために使うのです。

こういった「常に、あらゆる行動に目的を考える」態度には、どういった特徴があるだろうか。
よく考えてみると、私たちが毎日行っている行動は「自分がそうしようと思ってやった」のだ、と言われたら、びっくりするのではないか。どう考えても、自分で、ろくに考えもせず、やっちゃっている行動が、たくさんある。それまでもを、「目的のためにやった」、と言われることを、どう考えたらいいのだろうか、と。
しかし、一般には、私たちが人々の行動を考えるときには、基本的に、こういった判断で問題ないんだ、と考えるのが、アドラー心理学なのであろう。
なぜ問題ないか。
それは、私たちの行動の「ほとんど」が、そもそも「訂正(=コントロール)」の行動だからであろう。ある状態が「不快」であるなら、私たちは、その状態から抜け出ようとする。訂正をしないということは、その状態を肯定している、と考える。そうであるなら、それらの行動の全体を眺めることで、それらの行為の

  • 一連

の「意味」が少なくとも当人の感覚の中では確定しているのに近い、と受けとられる、ということであろう。
いずれにしろ、こういった姿勢には、ある「認識」が関係している、と考えられる。

哲人 たしかにアドラーの名付けた「個人心理学」という名称は、誤解を招きやすいところがあるかもしれません。ここで簡単に説明しておきましょう。まず、個人心理学のことを英語では、「indivisual psychology」といいます。そしてこの個人(indivisual)という言葉は、語源的に「分割できない」という意味を持っています。
青年 分割できない?
哲人 要するに、これ以上分けられない最小単位だということです。それでは具体的に、なにが分割できないのか? アドラーは、精神と身体を分けて考えること、理性と感情を分けて考えること、そして意識と無意識を分けて考えることなど、あらゆる二元論的価値観に反対しました。
青年 どういう意味です?
哲人 たとえば、赤面症の相談に来られた女学生の話を思い出してください。彼女はなぜ赤面症になったのか? アドラー心理学では、身体の症状を心(精神)と切り離して考えることはしません。心と身体は一体のものだ、これ以上分割することのできないひとつの「全体」なのだ、と考えるわけです。心の緊張によって手足が震えたり、頬が赤くなったり、あるいは恐怖に顔が青ざめたり、といったように。
青年 まあ、心と身体にはつながている部分があるでしょう。
哲人 理性と感情、意識と無意識についても同様です。普段は冷静な人が、激情に駆られて怒鳴りつけたとは考えない。われれは、感情という独立した存在に突き動かされるのではなく、統一された全体なのです。
青年 いえ、そこは違います。心と身体、理性と感情、意識と無意識、これらをしっかりと切り離して考えるからこそ、正しい人間理解ができる。当然の話ではありませんか。
哲人 もちろん、心と身体が別のものであること、理性と感情が違っていること、意識と無意識があること、それは事実です。
しかし、たとえばカッとなって他者を怒鳴りつけたとき、それは「全体としてのわたし」が怒鳴ることを選んだのです。決して感情という独立した存在が----いわばわたしの意向とは無関係に----怒鳴り声を上げさせたとは考えせん。ここで「わたし」と「感情」を切り離し、「感情がわたしにそうさせたのだ、感情に駆られてしまったのだ」と考えてしまうと、容易に人生の嘘へとつながっていきます。

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

嫌われる勇気―――自己啓発の源流「アドラー」の教え

上記の指摘における、

  • 「わたし」と「感情」を切り離し、「感情がわたしにそうさせたのだ、感情に駆られてしまったのだ」と考えてしまう

こそ、フロイト心理学における、トラウマであり、無意識であり、本能であろう。しかし、こういったことは、プラトンアリストテレスが言うように、「素材因」「作用因」「形相因」、つまり、

  • 「副原因」(影響因)

なのであって、つまり、こういうことが「いろいろある」中で、じゃあ、実際にどう行動するのか、という私たちが日々「行っている」ことはなんなんだ、と問うときには、その

  • 目的

を考えなかったら、どうしようもないんじゃないのか、という反語的な問いでもあるんでしょうね。
こういった「目的」を問うときに、二元論的な、

  • 心はそうしようとしたけど体が言うことをきかない

とか、

  • 意識はそうしようとしたけど無意識が言うことをきかない

とか、

  • 自分の人間的理性ではそうしようとしたけど動物的本能が言うことをきかない

そういった「副原因」(影響因)を、まるで「主原因」のように語る作法は、事の本質をとらえていない、と考えるのが、アドラー流なのであろう。
(ようするに、あらゆる行動は、その「訂正」がされないのなら、つまりは、「受け入れた」ということなのだから、「言い訳」してもしょうがない、ということなわけである orz。)
しかし、そのことは逆からも言える。

プラトンの『国家』の中に次のような一節があります。
「正しいことや美しいこと(見ばえのよいこと)の場合は、そう思われるものを選ぶ人が多く、たとえ実際にはそうではなくても、とにかくそう思われるものを所有し、人からそう思われさえすればよいとする人々が多いであろう。しかし善いものになると、もはや誰ひとりとして、自分の所有するものがただそう思われているというだけでは満足できないのであって、実際にそうであるものを求め、たんなる思われ(評判)は、この場合には、誰もその価値を認めないのではないか」(505d、藤澤訳)
他のことはともかく、「善い」、すなわち、「幸福である、ためになる」の場合は、いくら人から、あの人は幸福である、と思われても、実際に幸福でなければ何もならない、という意味です。

アドラーが「仮想」という言い方で意図していたことは、絶対の価値というものを状況とは無関係に認めたりはいないということだったのです。何が善で何が悪かは状況に応じてそのつど当事者が合意して決めていくものなのです。

功利主義が、人々の「幸福」を計算する、と言うとき、なぜ彼らは上記のプラトンの言葉を忘れているのか。

  • お前は今幸福なんだ

と言われること(=パターナリズム)は、一体、なんの説得性があるだろう。むしろ、「お前は今幸福なんだ」と言われている、この状況自体が、不幸そのものとさえ言いたくなる orz。)
いずれにせよ、こういったアドラー心理学の特等には、どういった利点があるだろうか。

先の例では子どもが食べ物を飲みこもうとしないのを見て注意を与えますが、その際母親はイライラはしても、本気で腹を立てるということはなかったかもしれません。子どもたちは巧みに親や教師が本気で腹を立てる一歩直前で引くことがあります。しかし本気で腹が立てば、行動の目的は権力争い、アドラー自身の言葉を使うならば、「闘う」ことが目的である、と考えます。
靴を履いたままテーブルに上ったり、いつも汚くして走り回る子どもがいます。母親が本を読みたいと思っても、電気をつけたり消したりして遊びます。親が自分たちの時間を過ごそうと思ったら叫び声をあげます。望むものが手に入らなければかんしゃくを起こします。親は一日中かかりっきりにならないわけにはいかず一日が終わるとぐったりします。
アドラーはこのような子どもは闘いたいのだ、といっています。まわりの人の注意を引き、注目の中心に立たなければ気がすまないのです(『学校における個人心理学』Indivisualpsychologie in der Schule, S.30-2、『個人真理学講義』一八一〜四頁)。

上記の引用が興味深いのは、アドラーが真正面から、「闘争」について言及していることであろう。
人は闘う、「目立ちたい」から。これを、掲題の著者は、カントの言葉を使って「傾向性」と言っているが、ようするに、人は「競争」をしたがる。闘いたがる。つまり、本質的に「かまって」ちゃん、だということになる。
(つまり、こういった傾向性を、「それそのもの」つまり、その人の「目的」と直結させて議論することを可能にしているのが、アドラー心理学だと言えるだろう。フロイト心理学の場合は、こういった傾向性の方を、

  • 病気
  • 本質

と解釈してしまうことで、本人が、その行為を「やろうとした」方の「目的」に正面から向き合うことを避けることを可能にするような、事実から逃げることを「許す」ような構造が、どうしても、内包されてしまう。)
人は、他人に「かまって」もらうために、闘争し「競争」するのであるなら、人間は人にかまってもらうためなら、大学でさえ合格するし、この地球でさえ滅ぼす、ということであろう。そういう意味でなら、子どもを大学に合格「させる」ことは、簡単だとさえ言えるのかもしれない(おそらく、地球を滅ぼ「させる」ことさえ、簡単なのだろう orz)。しかし、アドラー心理学は、子どもを大学に合格「させてはならない」と考える。子どもが大学を受験し、大学に通うことは

  • 子どもの領分

の話であって、親は関係ない、と考えるからである。子どもが大学に通おうとすることは「子どもの人生」であって、親の人生ではない。子どもは勝手に大学に通うのである...。

アドラー心理学入門―よりよい人間関係のために (ベスト新書)

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