白井仁人ほか「量子という謎 第2部第4章 軌跡解釈」

私は、ここのところ、いわゆる「普通革命」なるものを考えていて、これというのは、結局のところ、どういうことなんだろうかと考えている。
一つの特徴としては、ある種の「シンプル」さに、その特徴があるのだが、ここでシンプルと言っているのは、その全体の描像がそうだ、ということではない。たとえば、東京の朝の通勤ラッシュで、多くの人が往来する駅の姿「そのもの」が単純なはずがない。しかし、その一人一人の行動は、

  • 一つの駅から別の駅に向けて移動している

と考えれば、非常に「シンプル」なルートを移動していることが分かってくるし、そのように考えるなら、この「全体」の動きでさえ、おおよそのシュミレーションができるくらいには「シンプル」だと言えなくもない(その集団現象は「シンプル」な個々のルールによって、モデル化できる)、ということである
もう一つは、いわゆる「唯物論」とも関係しているもので、できるだけ「神秘」や、「超越」で説明を行わない、ということである。もちろん、そういった形において「しか」、倫理的に「ありえない」と、どうしても思われて、そう説明せずにはいられないことは、生きていれば、何度かは、この世界にはあるのかもしれない。しかし、私がここで言いたいのは、孔子論語で言っているような、天人や鬼神の話をまるで「有限なる人間の範疇のこと」であるかのように語らない、といった、

  • 倫理

の話をしているわけである。
こういった意味において、私は昔から、気になっていることがあった。といっても、別に個人的なことではなく、世界中のだれでも知っている話なのだが、特に、日本の「教育」において、素朴に思っていた、ということである。
それは、いわゆる、量子物理学における「二重スリット問題」と呼ばれるもので、つまり、量子力学の世界では、光は物としての性格と波としての性格があり、その二面性が「二重スリット問題」という「不思議」な結果となる、という話であった。

かつて朝永振一郎はエッセイ『光子の裁判』(文献[15])において、波乃光子なる被告人に光を擬人化させることで、二重スリット実験によってあらわれる現象の奇妙さを描写し、当時の大多数がの物理学者たちが受け入れていた見解をディラック扮する弁護人に語らせている。

さて、エッセイでは最終的にどのような審判が下されたのかについては書かれていないが、ディラック扮する弁護人が語ったことは、著者の朝永もふくめた多くの物理学者によって受け入れられた、量子力学についての(大多数が受けいれているというかぎりにおいて)標準的な解釈にふくまれることであり、実際のところ読者は弁護側が優勢である印象を受けるであろう。
しかし、はたして判事長は弁護側の主張を認めたであろうか。随所に鋭さをみせていた判事長のことだから、弁護側が結局のところ、両方を一緒に通ったという被告の証言が実際にそうであることを示さないという判事長の要求に直接は答えていないことに気づいたであろう。

弁護側の主張が、検証された事実と論理的な推論によって導かれ必然的な帰結では必ずしもない、ということに判事長が気づいたとしたら、このあとも『光子の裁判』は継続されて、検察側にも挽回のチャンスがあるかもしれない。本章で紹介する量子力学の解釈は、弁護側の主張に反して、いずれか一方を通るものである。

この「二重スリット問題」について、私がずっと気になっていたこととは、光が物と波の二つの性質をもつことを問題にしていたのではなく、その波の性質から、

  • 「二つのスリットの両方を通った」という説明

が、私には、あまりにも「超越」的に聞こえた、ということなのである。そして、学校の授業でも、まるでそれが「常識」であるかのように説明していたように思われる。しかし、それが「物」だと言っているのなら、当然、その物には「位置」があるのであって、両方をすり抜けるという説明は、あまりにも

  • グロテスク

なんじゃないだろうか。つまり、こんな「奇妙」な、まるで、「鬼神」の論理のようなものをもってこなければ、説明できないのか、ということがよく分からなかったわけだ。
つまり、普通に考えれば、「両方のスリットを通った」という説明を使わないで、この現象を説明するような「モデル」は考えられないのか、という方向に話は進むはずではないだろうか?
もちろん、そうしたところで「そのモデルが、この世界の説明として<正しい>という保証はどこにあるんだ」と聞かれれば、ひとまずは、見つからないかもしれない(実際に、この状況の困難さをもたらすのが、いわゆる「観察問題」という、観察行為が観察対象の状態に大きな変化を与えてしまう、というところにあるのでしょうが)。しかし、私が「こだわっている」のは、そこではないのである。証明されていないこと「両方のスリットを通った」を、まるで、ドグマのように受け入れろ、という姿勢なのである。つまり、それは

  • 反証

さえあれば、「別の可能性」を想定することには、一定の根拠がある、ということになるわけであろう。

これから紹介するのは、ド・ブロイが1924年から1927年にかけて考察した、量子力学に対するひとつの解釈である。この解釈は1952年になってボームによって再発見され、あらに練り上げられたことから、「ド・ブロイ=ボーム解釈」と呼ばれることもあるが、2人の見解にはある重要な差異があるため、本書では両者に共通した見解の本質という意味をこめて、「軌跡解釈」というあまり使われない呼称を用いることにする。

詳しくは、この本を読んでもらえばいいと思うが、この解釈の特徴は、一つは、完全なフォーマリズムによって記述してある、ということである。つまり、完全に位置が「決定」している、ということである。つまり、因果的に決定した「モデル」だということである。では、いわゆる、量子力学で言われるような「確率」は、どういった側面であらわれるかというと、「各粒子の相互作用の側面において、一定の正規分布的な動作、つまり、位置の<ズレ>がある」、といった形になるようである。
もう一つの特徴が「非局所」性と呼ばれるもので、つまり、単独系ではなく、複数の粒子の体系を考えるときは、それぞれの軌跡は他方が「どこに存在するか」に、絶対的に依存するため、「閉じない」ということだろう。
難しいことを、ぐだぐだ、ごたくを並べるよりは、下の図を見てもらえば一発なんじゃないだろうか。

もし私が、この図を高校生くらいの頃から見ていたら、私は物理学を嫌いにならなかったのかもしれない orz。それくらいに、衝撃的な印象を受けるのだが、どうだろうか。

第2章に登場したベルは軌跡解釈の支持を公言しており、二重スリット実験のこうした軌跡解釈による分析について、次のように述べている(文献[8]、p.191)。

スクリーン上の痕跡が小さいことから、粒子をあつかっているのは明らかではないのか。さらに、回折と干渉パターンから、波がこの粒子の運動を定めているのは明らかではないのか。ド・ブロイが詳細に示したのは、2つのスリットのうちの一方を通過してスクリーンに向かっている粒子の運動が、両方のスリットにわたって拡がる波によってどのように影響されうるのか、ということである。しかも、そのように影響を受けることで、粒子は波が弱めあるところへは進まないが、強めあうところへと引き寄せられていくのである。この考えは私にとってじつに自然で簡潔であると思われ、このように明快でしかも当たり前の方法で波か粒子かのジレンマを解消するものだから、この考えがこれほど一般的に無視されてきたということは私には大きな謎である...

私は、この説明に賛成だ。世界には説明のつかないことが、たくさんある。そのことに、反対ではない。だからといって、「二重スリットの両方を通った」というような、粒子は波だ、みたいな、きっと言ってる本人がなにを言っているのか分かっていないような説明を、

  • そう考えない方法もある

といった程度の「反証」を許してくれたっていいんじゃないか。まあ、これも一種の「普通革命」だよなあ、みたいに思った、というだけなんですが...。

量子という謎 量子力学の哲学入門

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