BUMP OF CHICKEN「ラストワン」

私たちは、ある倒錯を生きている。それは、私たちは誰もが生まれた最初は

  • 弱かった

ということなのである。しかし、これは「事実」である。子どもの頃、私たちは間違いなく、一人では生きられなかった。その証明か過去をさかのぼって想起すれば、いくらでも証拠がでてくる。フロイト心理学的に言えば、

  • いくらでもトラウマの事実は見つかる

わけである。だから、その弱さと整合性をもった

  • 作法

を身につけて生きてきたし、このことは、まぎれもない事実である。しかし、私たちは時間の経過と共に、大人になっていく。ところが、その身につけた「作法」は変わらない。つまり、変わるための、なんのトリガーも、この世界の中「自体」には、存在していない、ということである。

子どもはライフスタイルを固定するまでに試行錯誤的にいろいろんことを試みたはずなのですが、いつのにかこのような状況ではこうすればいいのだという体験を繰り返す中で、自己や世界についての信念を身につけ、固定することになります。
ときに自分のライフスタイルが不便であるということに思い当たるような経験をしたとしても、一度身につけたライフスタイルを容易に変えることはありません。不便でも慣れ親しんだライフスタイルで生きるほうが、次に何が起こるかという予想もできますから、実際には変えようとしません。
見方を変えるならば、人は不断に変わらないでおこうという決心をしているのであり、そのような決心を取り消せば、ライフスタイルを変えることは可能です。

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しかし、これは何を言っているのだろう? 自分とは、このように「ある」存在ということの意味であったはずであるのに、どうしてここで、「変える」という話がでてくるのか。
「弱かった」のは事実であり、過去をさかのぼれば、いくらでも、その「証拠」はでてくる。フロイト心理学的な「トラウマ」の事実は、いくらでもある。これほど「リアル」なものはないであろう。つまり、これこそ、

  • ホントウ

なのだ。まさに、証明なのだ。私たちは、「経験」的である限り、「変わる」ことはありえない。なぜなら、変わることは「間違い」だからだ。つまり、自らの「経験」で「自ら」を実証しようとする限り、自分から自分で変わることはない。それは「成功した範例」であって、そのタブーを犯すことは、以前の失敗を繰り返すことを意味するからだ。
しかし、である。
私たちは、実際は、どんどん変わってる。ここで言う、変わっているという意味は、年月の経過と共に、同世代の人たちは、まるで、同期をとっているかのように、「経年変化」していく、ということである。子どもの頃の発育の段階を経て、老化へと向かっていく。
この場合、気をつけなければいけない点は、上記で指摘した、「弱かった」子どもの頃の傾向性は、相対的に、発育段階の後半で、解消に向かうということである。つまり、自分もその相対的に弱者であったのと反対の側のグループの方に含まれるようになる、ということである。
問題はここにある。
自らの「体験」という、本人が、ありありと「リアル」に思っている「常識」に従うなら、

  • いつまでたっても

私たちは「弱い」側である。それは、明確な自らの「体験」という感覚が残っている限り、どうしても<間違いない>と思ってしまう。しかし、その「自明性」は、いわば、

  • 非常に長い時間をかけて少しずつ「変わってきた」

と考えるのが正しい。この場合に、もっと大事なことは、自分が「弱い」と思っている限り、「その証拠はいくらでもある」ということである。つまり、頭のいい子どもであればあるほど、小さい頃の「作法」をずっと続けることになる...。
掲題の歌の歌詞は以下から始まる。

約束が欲しかったんだ 希望の約束が
そのためなら 全てを賭けられる様な

この後、この「希望」ということの意味が問題となるだろう。しかし、その前に、「今」自分がどうなのか、とも、この話は深く関係している。
つまり、「それ」がない自分は今、一体、どういった「作法」を繰り返しているのか、ということになる。

それがある誰かさんは ぎりぎりで大変なんだって
それがないからといって そんな風に見ないで
一日中何してたんだっけ イライラしたのは何故だっけ
受け入れたような顔をして 欲張っているんだろうな きっと

どうでもいいという言葉 どうにも主張しがち
傷付けたいのかもしれない 仲間探しかもしれない
何もない誰さんが 何かを見つけたんだって
くだらないって誤魔化した その時間がくだらない
動こうとしない理由並べて 誰に伝えたらどうなるの
周りと比べてどうのじゃない 解っているんだ そんな事は

自分が毎日、「イライラ」したり、「どうでもいい」と主張してみたり、誰かの行動を「くだらない」と言ってみたり、自分が動かないことの「理由」を人に伝えようとしてみたり、つまり、ここのポイントは、これらみんな

  • 他人に関係のない

ことだってことなんですよね。これら全部、「自分」の領分の話であって、他人に関係ない。そうであるのに、「そのこと」の「正当性」を、どこか他人の承認に求めている。最後のフレーズは、結局は「それ」は周りとは関係なく、自分の領分の中でなんとかしなきゃいけないし、そんなことは分かっている、と。
しかし、だとすると、最初の「約束」って、一体、どういうことなのか、ということになるであろう。なぜなら、約束とは二人の人が行う行為なのだから。

きっと 何度でもなんて無理なんだ 変われるのは一度だけ
鏡の中の人に 好きになってもらえるように
笑ってもらえなくてもいい 笑えるようになれたらいい
嫌いな自分と一緒に 世界まで嫌わないように

どれだけ傷付いたって 誰にも関係ない事
鏡の中の人とだけ 二人で持っていける

何度でもなんて無理なんだ 変われるのは一度だけ
鏡の中の人と 交わした希望の約束
変わらない中の人と 鏡の前で向き合えるように

この歌詞の特徴は、なぜか、この「変われる」ということが、たった「一度」だけのことだと主張しているところにあるのだろう。
なぜ「一度」なのだろう?
上記で述べたことに気をつけてほしい。それらは、結局は、「自分」の領分の話であった。つまり、それらが結局の最後のところで、絶対に他人は関係ない、ということが、はっきりしている、ということである。つまり、

  • どれだけ傷付いたって 誰にも関係ない事

自分が「傷付い」ているという事実が、最後の最後では、他人の方の問題にできない、ということなのである。
ここで言っている「鏡」が、なんの比喩かはこれで分かるであろう。それは、いわば「今の自分」の状態である。それに対して、この鏡を見ているのは、これからどうしようかと選択しようとしている自分だと言えるだろう。
変わる前の自分は、「笑っていない」し「自分が嫌い」なのである。よって、私たちは子どもの頃からの作法として、そういう相手に対して、笑いかけないし、「相手を好きになろうとしない」わけである。これは、絶対の真理である。しかし、私たちが生まれてから生きていく中で、

  • 一度だけ

その作法を犯さなければならない。自分に向かって、一度だけ、この「愚行」を犯さなければならない。自らが身につけてきた、子どもの頃からの作法を犯して、自分が笑ってくれないとしても、自分から笑えるように「なければならない」のだ!
なぜ一度だけだったのかは、これで分かったであろう...。