BUMP OF CHICKEN「firefly」

アドラー心理学は、ある点において「残酷」な部分に、私たちが直面することを強いる側面がある。それだけに、本当は、私たちはアドラー心理学と正面から向きあうことが難しいのではないか、と思われる。
それは、結局は、私たちが日々行っていることは

  • すべて

「目的」と関係している、という考えである。なぜ、この認識を私たちが認めることが難しいのか。それは、あらゆる「目的」は、必ずしも達成されない、と考えられているからだ。

  • 大学に行きたかったが行けなかった人。
  • 子どもの頃から病弱で、他の人と同じく外で遊びたかったができなかった人。
  • 将来の夢を語っていたのに若くして急逝した人。

私たちは、そういった「目標」がかなえられない人に対して、どのように接すればいいのか分からなくなる。ようするに、「不幸」の問題を、どう考えたらいいのかが分からないのだ。
この問題に対するアドラー心理学のアプローチの方法は、主に二つの命題によると考えられるであろう。
一つが、「人間の全ての悩みは人間関係である」というものである。よく考えると、この表現は奇妙である。私たちは悩む。つまり、目的とは、この悩みに関係する。しかし、それは「全て」人間関係なのだと言う。前回、私たちは

  • 闘う

ということを問題にした。子どもは(カントの言う意味での)傾向性から「闘争」をやりたがる、ということについて言った。勉強で優等生になろうとすることも、この、

  • 周りの人たちに「かまってもらいたい」ために「闘う」

ということなのである。勝つと自分を見てくれる。だから、「闘争」を行うのである。言うまでもないが、ここで問われていることは、子どもが一切の「闘争」をやってはいけない、ということではない。そうではなく、その「闘争」が

  • 何を目的にしているのか

について考えるなら、

  • その行為は、その「目的」にとって、本当の意味で「有効(=正しい)」なのか?

が問いうる、ということである。ここは大事なポイントである。アドラー心理学は、こういった子どもの傾向を「理解」するから、この問題に正面から問いを立てられる。それが、この心理学の優れている側面、と言えるであろう。
例えば、上記で列挙した「夢」破れた人たちの「不幸」をこの、子どもたちの「闘争」をしたがる傾向と比べてみると、興味深いであろう。つまり、その「不幸」は、アドラーに言わせれば、まだ、

  • 手段

だと言いたいのである。なぜなら、「それ」によって、何を実現したいのか、が問われているからだ。そこをアドラーは「人間関係」と解読する。この主張は、正しいか間違っているかに関係なく、私たちが直面するには「つらい」内容だと言えるだろう。
もう一つの特徴が「できるところから始める」である。上記で列挙した「夢」破れた人たちの「不幸」は、一見すると、そのままの意味に思えるかもしれない。しかし、問題は

  • その日、できることをやる

ということだと考えるなら、それはそれで「達成」できていたのではないのか。そして、もしもそれが「人間関係」ということであったとするなら、一見、目標に対しては無念の感情しかないように見えても、多くの現実的な達成を果たせていたのではないのか。
例えば、反原発を掲げて活動した、物理学者の高木仁三郎の意志は、今、福島を始めとして、人々に理解され始めようとしている。彼は生前において、自らの市民科学者としての運動を大きくすることはできなかった。しかし、その活動は、3・11の福島第一の事故を境にして、人々が耳を傾けるようになった。
しかし、そうだとすると、私たちの人生とは、どういうものなのか、という問いが成り立つように思われる。この「構造」は、どういった形をしているのか、と。
掲題の歌の歌詞は、以下のような、一つの人間の人生の「からくり」についての説明から始まる。

蛍みたいな欲望が ハートから抜け出して
逃げるように飛び始めたものが 夢になった
当然捕まえようとして 届きそうで届かなくて
追いかけていたら 物語になった
色んな場面を忘れていく
笑って泣いた頃もあって そうでもない今もあって
どっちでもいいけど どっちでも追いかけていた
分かれ道もたくさんあって 真っ暗に囲まれて
微かな金色に 必死に付いていった
いつの間にか見えなくなっても 行方探している
命の仕掛けは それでもう全部

高木仁三郎は結果として、彼が生きている間、脱原発を実現できなかった。しかし、彼が主張した市民科学の芽は、明らかに、根付き始めている。彼が追い掛けて、追いつけず、「いつの間にか見えなくなっても」、その「からくり」は残り続けた。
上記の引用の中で、重要なポイントは「色んな場面を忘れていく」という所であろう。
私たちは、たんに忘れるだけでなく、自らの体力の衰えも結果していく。どんなに長生きする人でも、100歳も生きればいい方であり、また、それだけでなく、100歳にもなれば、足腰は立たなくなり、思考も衰えていく。
しかし、その人が目指した「芽」は、着実に、この世界に残り続けるのではないか。しかし、それは、どういう意味でなのか?

一人だけの痛みに耐えて 壊れてもちゃんと立って
諦めた事 黄金の覚悟
今もどこかを飛ぶ あの憧れと
同じ色に 傷は輝く

ここで、「同じ色」に輝く傷という比喩を、上記の、高木仁三郎の例で考えることもできるであろう。彼の訴えは、少しも杞憂ではなかった。非常に重要な問題提起であったことを私たちは、今、想起させられる。つまり「同じ色に傷は輝い」ているのである...。