神野慧一郎『我々はなぜ道徳的か』

安倍首相が以前、従軍慰安婦問題の番組の改変をさせるために、NHKを脅したことについては、今では多くの人が覚えていないようであるが、しかし、今週の videonews.com で、あらためて、神保さんが、この問題をとりあげている。というのは、つい最近、安倍首相が、国会の答弁で、この問題で自分は無実だと、朝日新聞を非難したからである。
安倍首相は、自分は朝日新聞による、完全な被害者だ、というようなことを言っているが、そもそも朝日新聞のある記者が、安倍首相の自宅を訪れ突撃取材をしたとき、彼自身が、自慢げに、そのことを吹聴しており、その録音テープが存在することが分かっているわけであろう。
ところが、朝日新聞は、その記者のその取材内容を、社内の内規に違反しているという、ただそれだけの理由で、もみ消した。
しかし、話はそれで終わらない。
驚くべきことに、このことをいいことに、安倍首相は、自分で言って、テープまであるにもかかわらず、朝日新聞がデマを言っている、と今だに、人前で吹聴しているわけである。世界中のリーダーが、安倍首相と席を共にしたくないのは、これが理由だと言ってもいいであろう。
ひとたび、安倍首相と対談を行うと、必ず、安倍首相が「NHKを脅していない」ということに同意させられる。つまり、安倍首相と対談をするということは、安倍首相の「嘘つき」の

  • 共犯者

にさせられることを意味している。
日本の首相は嘘つきである。
彼は今だに、この事実を「でっちあげ」とのたまって、なんの良心の呵責もないわけである。
恐しいことである。
安倍首相は日本のリーダーである。日本を代表する人である。子どもたちがみんな見ている人である。そんな人が、人前で平気で嘘をつき、総理大臣になっても、まったく悪びれず、この問題は朝日新聞が自分があたかも原論弾圧をしたかのように脅した、と非難し続けているわけである。
こんな人が、日本のリーダーなのである。
恥ずかしくないだろうか。
いや。
国民は、そうではないんじゃないのか。
本当は、国民は分かっているんじゃないのか。
このことの意味については、後で再びとりあげるとして、掲題の本に話を移したい。この本は、タイトルにあるように著者による「道徳」の起源を問う構成になっている。しかし、基本的には掲題の著者は、それをヒュームの考えを基底に置いて行っている。ヒュームの考えは基本的に、経験論と呼ばれているもので、現代的な言い方にすれば、ようするに、功利主義ということである。この功利主義は、カントの義務論に対抗する形で提示されてきた。
掲題の著者は、道徳は私たち人間が後天的に獲得してきたものだ、と考える。それは、進化のどこかの過程で、人間が使うようになったものであって、人間の生物の起源としての「最初」からあったとは、どう考えても思えないから、と言う。
他方において、彼は、非常に緩やかなものであるとしても、いわゆる「憐れみ」の心などの、「弱い道徳心」が人間は持っているのではないか、と考える。こういった姿勢は、どこか、リチャード・ローティの「寛容」に似ているが、ようするに、これは基本的な「リベラル」であり、功利主義の姿勢を取る限り、とることにならざるをえない姿勢だと言えるのかもしれない。
この本のおもしろいところは、こうやって一方において、ヒュームの哲学に大きな共感をもっている掲題の著者が、その延長としての道徳を語りながら、他方において、まさに、そういった「文脈」とは違ったところから、

  • 最近の流行の理論

という形で、アリストテレス以来の「徳倫理」について、考察せざるをえなくなっている、ところになると思われる。

「徳」論に立つ倫理学的考察は、近世において長い間顧られなかったが、最近とみに注目を浴びている。道徳や倫理の問題には、一般的な扱いでは処理できず個々の具体例に即してしか考察しえない問題が多々ある、という現実が、この情勢を導いたとも考えられる。実際、法律や規則で処理できないケースには、心理学的な考慮が大きくものを言う場合が多い。つまり人によって選択が異なるということが十分考えられる事例が多く存在する。それ故、哲学的心理学が必要であるとされる。
もちろん、「徳」とは何かについては、いろいろな議論と立場がありうるであろう。実際、「徳」や「性格」は、学問的な扱いになかなか馴染みがたいところがある。例えば、文化が異なれば「徳」も異なる。それゆえ、「徳」や性格を扱うのは、これまで哲学者よりも文学者の得意とするところであった。カントでは、「徳論」は倫理学の中ではっきり二次的な地位に置かれている。
しかし、これらの点については後に論ずることにし、ここでは次のことに注意を引いておきたい。すなわち、徳論的倫理説は行為の与件として行為者の性格を重視するものであること、それは我々の上記分析方針に悖るものではないこと、に。言うまでもなく徳論的倫理説は、人間の持つ性格を明らかにし有徳・不徳とはいかなるものかを見ることを、その基本的な課題とするものである。そして徳論的な倫理ないし道徳では、我々の行動規範は、「最も有徳な人の為すであろうごとく判断し行為するごとく、判断し行為せよ」、ということになろう。「徳論的倫理」は倫理的行為を現世的なものの中に見るが、しかしそれは、功利主義のようにそれを社会の中にのみ見るのではなく行為者主体の中にも見る立場である、と言ってもよいであろう。ここで更に「徳論的倫理学」の見地を推進する理由を付け足すことができる。それは倫理的問題を扱うのに、功利主義のように行為主体の問題を等閑に付すのは不当である、ということである。

ここで「徳倫理」と言っているのは、言うまでもなく、マイケル・サンデルに連なる、一連の主張を意識している。こういったアプローチがさかんに行われるようになった理由はなんであろうか? 上記に指摘があるように、いわゆる、この社会の「フラット化」が、こういったインテリが考えるほど、実際には実現していない、という冷静な分析があるのではないか。
冷静になって考えてみよう。あなたが、電車の中の椅子に座っているとする。あなたの目の前に座っている人は、一体、どんな半生を生きてきたのだろうか。というか、このことを、相手の表情を見るだけで、どうして分かるだろうか。
このように考えてみたとき、インテリだろうがだれだろうが、あまりにも、この世の中の「ほとんど」のことを私たちは知らないのだ。そして、なぜインテリはそういった自分が知らない人に対して、なにか分かったような説教を始めるのか。
いわゆる功利主義でもいいし、リチャード・ローティの言う「寛容」でもいいが、どっちにしろ、

  • 分からない

のであろう? だというのに、どうして、そういった「抽象的」な命題を主張したがるのだろう? 一体、お前は何を知っているのだ? 上記で、

  • 一般的な扱いでは処理できず個々の具体例に即してしか考察しえない問題が多々ある、という現実が、この情勢を導いたとも考えられる

と分析しているのは、慧眼だと言えるだろう。早い話が、人にはそれぞれ「事情」があるのであって、そう簡単に「なにが正しいか」とか「なにが幸福か」なんていうことを、他人が決定できない、ということなのである。
では、徳倫理においては、具体的には、どのような「判断」が、どのようになされるのであろうか?

道徳判断における情念の優位の根拠になりそうなことを更に挙げておこう。例えば、人間を群棲動物の一種と見るとき、次のようなことがその特性と見られるそうであるが、これらはいわゆる動物にも見られるものであり、それ故それらは知性的でもなければ規約的なものでもない。しかもそれらは、道徳や倫理への萌芽を含んでいるものであり、いわば道徳の元素である。これらのことに基づけば、人間の道徳、倫理的な特性の基本は、情念的なものであるとするのがより適切であろう。群棲動物の基本的特性とされるのは次のようなものである。すなわち(1)社会的階層、(2)幼きものの養育、(3)群れの成員は互いのに助け合うこと、(4)余剰の食べ物は分け合うこと、(5)群れの掟を犯したものに対しては、社会的な怒りが感ぜられることなどである。もちろんこうした感情の発生や、利他的感情や行為の成立は、社会の最小単位としての性的結合や、家庭、血縁関係を通して増幅され意識化されたであろうが、そうしたことの詳しい研究は実証的研究の課題である。

私は、掲題の著者が考えるような

  • (後天的ではありながら)弱い「道徳」の存在証明

という考えに違和感をもつ。それは、いわゆる、リチャード・ローティリベラリズム的な「寛容」に対してもつ違和感に近い。こういった、経験論者や功利主義者が考える「アプリオリな道徳」という主張には、どこか、

  • 中庸

のような「真ん中」をとって、大衆に無理なルールを強要するエリートたちのパターナリズムを感じなくはない。
決定的に重要なポイントは、私たち人間が「群棲生物」だということである。人間は群れて暮らす生物なのだ。こういった存在の間で生まれる「倫理」とは、どういった性質をもったものになるだろうか? それが、上記で列挙されたものである。
この場合に、いわゆる「エリート」は、ある「勘違い」をしている。それは、上記の引用にも、よく現れている。つまり、こういった「群棲生物」としての人間の特徴を、なぜか、「家族か親族といった単位」で考えがち、だということである。
なにか、家族という単位に、神聖な「功利主義的な境界線」があるかのように振る舞うわけである。
アホか、と思うわけである。
なぜそう思うかと言うならば、こんなことは毎日汗水たらして働いている大衆には自明そのものであろう。通勤に電車に乗れば、回りは知らない人ばかりである。しかし、そういった人たちと毎日、「平和」に、その空間を共有する生活を営んでいるわけであろう。仕事場に行けば、さらに、多くの知らない人と今度は「一緒」に、一つの目標に向けて、力を合わせなければならない。
これが「群れ」でなくて、一体、なんだというんだ?
この日本列島に住んでいるすべての人と、私たちは「群れ」をなして生活している。
当たり前ではないか?
そういう意味では、国民は全員「仲間」なのだ(外国人は「お客様」だとしても)。
ここで、最初の問題に戻ろう。
なぜ、大衆は安倍総理を「バカ」にしているのか。それは、リーダーが、あの程度の「倫理観」だから、

  • 自分もその程度でいい

と考えるからだ。安倍総理が、朝日新聞に対して、嘘を言っても許されるんだったら、リーダーがそれで「いい」ということを

  • 態度で示している

んだから、自分たちだって、それくらいの低劣な振舞いをしても、許されるべきだろう。と(これが、在特会ネトウヨが、在日の人たちを「死ね」だの「殺せ」だのの発言をしておきながら、まるで「左翼」のように、「言論の自由」とか自分のプライバシーは保証されるべき、とか言っている「ヘタレ左翼」っぷりによくあらわれているわけであろう。)
しかし、である。
このことは、いわゆる「リベラル」を自称している連中についてだって言えるのだ。彼ら、自称「若手の論客」の多くは、小泉新自由主義以降、その多くが「経営者」になっていった。その一番の例は、ホリエモンだと言えるのかもしれないが、いずれにしろ、彼らは

  • 資本家

を目指した。リベラルとは、そのリレラルの通り「自由主義」という意味であり、左翼ではない。つまり、彼らは「平等」に、なんの関心もない。いくらでも格差が開けばいいと思っている。
しかし、そのことは何を意味しているのだろうか?
今の政権は、明らかに、大企業優先で、生活者からお金を絞りとって、大企業に渡そうとしている。はっきり言えることは、リフレ政策がとられたのも、その方が

  • 消費税増税を行いやすい雰囲気にすることが可能

という理由からにすぎない。このことは何を意味しているのか。つまり、現政権だろうとリベラル勢力だろうと、

には「賛成」なのだ。つまり、彼らは一種の「差別主義者」なのである。こういった品性下劣な「リーダー」たちを見て、大衆はどう思うだろうか?

  • ああ。お偉いさんたちは、貧乏人を「差別」するんだw だったら、俺たち貧しいけど必死に社会にくらいついて生きている大衆は、一体、「誰」を差別して生きろ、と、お偉いさんたちは暗に言おうとしているのかね。言うまでもないよね。「より弱者を差別しろ」って言ってるんでしょ。つまり、大衆は「自分より弱い弱者」、つまり、外国人を「差別」することで、少しでも「楽」な生活を勝ち取れ、と言っているんでしょ。

これが、現政権や、いわゆる「リベラル知識人」から大衆が受ける

  • メタ・メッセージ

なわけでしょう。それは、実際に差別に反対しているかどうかなんて、「なんの関係もない」わけです。どんなに自分が「外国人を差別するな」と言っていても、自分が貧乏人差別が「正しい」と言っているわけですから(それが、リベラリズムなわけでしょw だって、リベラルって、新自由主義「容認」なんですからねw)。
ようするにさ。
一体、いつから、日本の「左翼」は、ここまで弱体化されちゃったんですかね。

そうですね。日本で最初に新自由主義政策をやろうとしたのは、中曽根元首相だと思います。彼がやったことで、一番大きいのは国鉄の民営化ではないか。これは日本の労働運動にとって決定的に大きな打撃でした。日本の労働運動を支えたのはなんといっても国労国鉄労働組合)でした。それた要の位置にありました。
たとえば、ゼネストというのも、人と物の交通・輸送を一手に引き受けていた国鉄がストをやってこそ、初めてゼネストらしいものとなります。私の記憶では六〇年安保闘争のときに国労は二度ストライキをしています。全国で鉄道が止まった。これが、安保闘争を支配階級にとって深刻なものにしたと思います。だから、中曽根の進めた国鉄の民営化は、国労の解体を目標としたものだった。その上に、九〇年代の細川政権の成立、そして社会党の消滅があったといえます。
世界的な米ソの対立構造は、国内レベルで見れば、自民党社会党与野党対立構造となっていました。つまり、自民党社会党は対立しているように見えて実は結託していたわけです。それが一九五五年体制と呼ばれるものです。これが四〇年ほど続きました。その間に、日本は福祉国家となった、といえます。貧富の差も少なくなった。
しかし、米ソの二元体制(二項対立)が崩壊するとともに、日本でも二元体制が崩壊しました。それが、九〇年代の政局にあらわれています。それを可能にしたのは、国労の解体ではないでしょうか。国労がなくなれば、総評がなくなる、故に社会党もなくなる。実際に消滅してしまった。さらに九〇年代には、まだ残っていた日教組部落解放同盟、大学教授会あどが袋だたきにあい、創価学会も取り込まれてしまった。こうして、日本には「中間勢力」がなくなってしまった。それによって、資本の独裁、つまり新自由主義が始まったといえます。
柄谷行人「NAMを語る----第一回積極的なものへの態度変更」)

私が思うのは、いわゆる「全共闘」以降の、70年代以降に産まれた第二ベビーブーマー世代(私もそこに入るとは思っているが)以降の論客には、まったく批評性を感じられないわけですよね。ようするに、この世代の知識人って、もう、米ソ冷戦が「当たり前」で、その延長で考えることを一切、懐疑することをやめた世代なわけで、そもそも、なぜ前の世代は、ここまで左翼に

  • 存在感

があったのかを、まったく考察したこともないんだよね。それで、経営者気取りで自分を「資本家」かなんかと勘違いして、なにかを言った気になってるんでしょうね。
まずさ。道徳は「存在」するのか、とか平和ボケしたことを言っている前にさ。人間は「群れで生きる」動物だっていくことを、よくよく考えたらどうなんですかね。そうすれば、パブリックな場で、他人の神経を逆撫でするようなことを言えば、必死にしがみついて社会の荒波を生きている大衆を不快にさせて、それが社会的な不穏要因になることぐらい分かるわけでしょう。そうやって、大衆を

  • 挑発

しておいて、「暴力は社会のルールで、やってはダメに決まっている」とか言って、バカじゃないかね。そんなこと言って、朝から晩まで、椅子に座って、空想文学を読んで、インテリぶっている間にも、右翼が

  • 行動

で、次々と、リベラル勢力の牙城を崩してきたんじゃないんですかね。だったら、左翼側も「カウンター」で彼らの「暴力」を

  • 体を張って

止めようとしないと、どこまでも、左翼勢力なんて後退して縮小していくんじゃないんですかね。左翼が「理想」とする社会のプラットホームなんて、こんな感じで、あっという間に、雲散霧消するし、事実、そうなってきたんじゃないんですかね。どうして、そのことに、誰も危機感をもたないんですかね orz。

我々はなぜ道徳的か―ヒュームの洞察

我々はなぜ道徳的か―ヒュームの洞察