渡邉浩一『『純粋理性批判』の方法と原理』

カントが純粋理性批判において行おうとしたことを、簡単に整理することは比較的、難しくはないのではないか、とは思っている。
まず、この本で、どんな事象の解明に取り組みたかったのかということでは、コペルニクスニュートンが、なんらかの「つじつまを合わせる」作業が、見事なまでに「成功」したその理由、ということになるであろう。
まさに、「合理性」の究極的な成果として、コペルニクスニュートンの仕事を考えるなら、そういった人間の「作法」を成立させているものはなんなのかと問うことになるであろう。これが、「純粋理性批判」における「理性」の意味になる。
では、「批判」とは、なんだろうか。すでに、カントは純粋理性批判の執筆以前から、批判という言葉を使うようになっている。それは、論理学の授業において、ある「対立」に対する第三の道としてであった。
・ドグマ的
・懐疑的
カントは従来の哲学は、この二つの対立によって成立してきた、と言う。その場合に、カントは自らの考える「批判」に近いものいて、後者を考察しているが、より明確にその「意図」を書いたのが以下となる。

この点でさらに興味深いのは、一七七二年の----つまりヘルツ宛書簡と同年の----『フィリッピ論理学』の記述である。やはり哲学の歴史を語るなかでカントは「哲学の方法」に関してヴォルフとロックの立場を対比しつつ次のようにいっている。

哲学の方法に関して、ヴォルフはこの点で卓越した功績を帰せらえなければならない人である。[......]判明性、説明の正確さ、証明の秩序、彼が哲学に導入したこうしたすべてによってヴォルフという名は記憶すべきものとなっている。[......]
しかしながら、彼はすえてをドグマ的に決定し、すべてを不可疑のものとみなしたことで理性に大いに不利益をもたらした。彼は哲学が数学的方法でできると信じ、実際にまたそれを採り入れたのだった。
ロックはとりわけ人間の全認識の起源その制限を発生的[genetisch]に見出すことに努めたひとである。彼は主体に即して哲学をうる[Er philosohirt subjectiue]

ところで、同じ『フィリッピ論理学』でカントはこのことを次のようにもいっている。

ロックは知性に道を拓くのに何にもまして重要な歩みを踏み出した。彼はまったく新しい基準を告知した。ヴォルフや彼以前の人がみな対象に関して哲学していたところで、彼は主体に即して哲学している[Er philosophirt subjectiue, da Wolf und alle vor ihm objectiue philosophirten]。ロックは概念の由来、素性および起源をたずねる。彼の論理学はドグマ的ではなく批判的である。ヴォルフが問うたのは霊魂[Geist]とは何か」ということだった。ロックは問う。「どこから霊魂についての観念は私の魂[Seele]へとやってくるのか。私の魂は一度も霊魂なるものを見たことがない。とすれば、どこからこうした考えはやってくるのか」。

カントが、「批判」という言葉を使うとき、つまり、コペルニクスニュートンの行った行為の「意味」を考えるとき、そもそもそれは、「人間の活動」について、考察するものであって、ということは、「人間は何をしているのか」を問うことなしに

  • あらゆること

について考えることはありえない、という姿勢が明確になっている。ロックは純粋理性批判の中では、カントによって徹底的に批判されているし、ライプニッツによる分厚い批判書もあるくらいで、ロックの『人間知性論』は、ほとんど読まれていないのではないか。しかし、この本は、上記のような、カントの基本的な哲学の「姿勢」を理解する上で、非常に重要なわけである。
(もっと言ってしまえば、多くの哲学研究者は、ロックの『人間悟性論』なんて、哲学書じゃない、と思っている。こんなもの読む価値がない、と思っている。なぜなら、「ドグマ的」じゃないから、である。ドグマ的じゃないものは、哲学的じゃないから、哲学萌えしないので、かっこ悪い、というわけだw)
哲学という言葉が使われるとき、その言葉を使う著者の「意図」には、たんに、その主張している「内容」を超えて、

  • こういったことを「やっている」

こと自体、つまり、その自らの「姿勢」に対しての自己主張があるように思われる。つまり、「どういった姿勢において哲学をしているのか」は、決定的にその仕事の内容を決定する、という考えがあるのではないか。
上記でわざわざ、既存の哲学を「ドグマ的」と言っているのはそういうことで、カントは明確にその「問題意識」のもと、批判書を書いている。
こういった意味において、批判書は、いわば、ライプニッツ-ヴォルフ哲学という「ドグマ哲学」との「闘い」の書である。もちろん、そのカントの闘いが成功したのかどうかはともかく、批判書は、そういった「構成」によって記述されている。
カントは、ライプニッツ-ヴォルフ哲学では「自明」とされていたものを、一歩一歩、その牙城を崩していく。例えば、物自体という言葉があるが、これはカントに言わせれば、ライプニッツ-ヴォルフ哲学が「自明」としてる場所ということになる。カントは、それに対して、「現象」一元論を主張する。つまり、カントの最終的な批判書の到達点においては、そもそも、物自体という言葉は不要になる。つまり、ライプニッツ-ヴォルフ哲学が自明視している「物自体」を保持すると、さまざまな側面から不都合があることを示していく過程が、批判書の内容そのもの、となる。
よく考えてみると、それは理解できるのではないか。というのは、観念論とはそういうもので、私たちは、「感覚器官」という、よく分からない所から、時々刻々と送られてくる何か

  • 以外

を知らないからだ。私たちの「全て」は、それだからだ。これは、次のような比喩で考えてみるといいであろう。ある科学の発展した世界で、ある病院に隔離されている子どもがいるとする。この子どもは産まれてからずっと、病院のベットに寝ていながら、医者によって、脳に、さまざまな「普通の家族が行う子育て」の「経験」の情報を毎日毎日、脳に書き込んでいた、とする。つまり、この子どもはずっと病院で寝ていたのに、まるで、家族が家で子育てをするように、毎日を過していたかのような「現象」を生きている、というわけである。
もちろん、こういった主張が非現実的だと言うことは可能だ。しかし、重要なポイントは、いずれにしろ、私たちは「なんだか分からない」が、とにかくも、この感覚器官が毎日、時々刻々と運んでくる「何か」

  • だけ

を前提に生きている、ということであって、それ「以外」を想定すること自体が、すでに「人間の哲学」を逸脱している(ドグマ的)ということになるわけである。
(もちろん、このように言ってきたとき、人によっては、物自体を現象と言い変えたにすぎないんじゃないのか、つまり、そこに本質的な差異はないんじゃないのか、一つのモデルとして、言語は使われるんだから、あまり気にしてもしょうがないんじゃないのか、という主張はありうるであろう。だとするなら、私たちは、なぜカントはこのような微妙な差異にこだわったのか、と問わなければならない。つまり、それによってカントの批判書は、生産的になったのか、と問わなければならない。)
では、最後に純粋理解批判において、わざわざ「純粋」という言葉が使われている意味ということになるであろうが、ここまでくると、実際に純粋理性批判という本に何が書かれているのか、を考察することになる。
この本の構成は、基本的にはシンプルにできていて、その前半を見ると、まず、最初に、超越論的感性論といった、私たちの感性の話があって、その議論が終わった後に、超越論的分析論というものがある。カントの戦略は、基本的に、この二つによって成立していて、この関係を、脳の構造に当てはめるなら、超越論的感性論は、小脳や感覚器官を指し、超越論的分析論は、大脳の働きを指している、となる。
カントは、この議論の成果を、

  • 感性の純粋形式は、空間と時間
  • 悟性の純粋形式は、カテゴリー

という形で整理する。つまり、ここで出てくる純粋形式の「純粋」が、純粋理性批判の「純粋」につながっている、と考えられる。
では、この議論の何が問題なのであろうか? よく考えてみよう。カントはここで、一体、何にこだわっているのか、と。
私なるものは、産まれ落ちてから、さまざまな「諸感覚」を、人間の五感なりなんなりの感覚器官から受けとって、記憶として蓄積していく。それは、言うまでもなく

  • 多様

である。実に、さまざまなものである。このことは間違いないわけである。しかし、それは、まったくの「カオス」なのだろうか。カントはそれに対して、「人間の側の、そもそもの、存在のあり方」、つまり、受動するあり方に依存する「制限」があると考えた。そういう意味では、ある種の「定型的」な受動の仕方を人間は行っていると考えるわけである。つまり、この場合、二つの「多様」がある。受動する主体の側と、受動される対照の側に。カントはその「感性」の「制限」を、

  • 空間と時間

と、とりあえず言った、ということである。ここでのポイントは、こう言うことは、いったい「どういった根拠」から言っているのか、といった場合に、うまくその証明の根拠を探せない、という特徴があるわけである。つまり、これは実際に、私たちが行っている、その姿を自分で眺めてみて、「それくらいのことは言えるのではないか」という「観察」に関係して、ひとまず「言ってみた」といった色彩が強いわけである(こういった姿勢の、どこか現実の指示対象に対しての指示から遊離したような思考のスタイルを超越論的と言っているのかもしれない)。
興味深いのは、つまりはこの姿勢が、私たちの「感覚」という、あまりにアナーキーに流れ込んでくるものに対して、なんらかの「抽象」とでも言うような、「共通性質」を抽出しよう、という姿勢なわけである。
人間は言うまでもなく、生物の一種であり、どういった進化の過程を経て今に至るのかは知らないけど、この地球上にあるさまざまな生物と同じように、進化して今に至るなにものかなのであって、つまりは、「どんどん変わってきた何か」だというわけである。そうした場合に、それに対して「なんらかの共通性質をもっているのではないか」と想定することは、ある意味において常識的だったとしても、じゃあ、それは具体的になんだと言えるのか、と考えてみると、そんな簡単な話じゃないことが分かってくる。
このように言った場合、じゃあ、それは、他の生物においては言えるのか、といった疑問はあるだろう。また、人間の以前の今に進化で至る前はどうか、という疑問はあるだろう。人間のはるか未来においてはどうか、という疑問もあるだろう。また、どんなに自分にとって自明に思えたとしても、どうしてそれを他の人も自明だと思ってくれると思えるのか、という疑問もあるだろう。
なにかを「共通」だと言うことは、ある種の「危険」をもたらす。それは、「自分」にとって自明に「思える」ことが、どうして他人にとっても自明なのか、ということに関係する。
しかし、いずれにしろ、ここでのカントの関心が、コペルニクスニュートンといった学問の発展に関するものであることを考えるなら、ひとまずは、その「整理」の到達点を確認する、ということになるであろう。
カントは、超越論的感性論の後に、超越論的分析論を置いたのは、人間の活動が感性で終わっていない、という事実認識にあったと言えるわけだが、それというのは、ようするに、人間の「思考」と呼ばれるような活動に関係している。
つまり、なぜカントは、この感性と悟性を二つに分けるのか。

実験との類比に際してこの点をカントは必ずしも十分明確に説明しているわけではないが、手掛かりがないわけでもない。やはり序文でいわれる次のような実験、すなわち、先の形而上学の「第一部門」と「第二部門」の区分に関わる実験についての次のような叙述がそれである(用例五)。

しかるに、ここにまさしくあの実験[das Expriment]が----われわれのアプリオリな理性認識のあの第一[=形而上学の第一部門]の評価の結果、すなわち、われわれのアプリオリな理性認識はただ現象にのみ関わりそれに対して諸事物自体そのものを、それ自身としては現実的なものではあってもわれわれには知られないものとして置いておくということ、そのことの真理性を再吟味する[eine Gegenrode der Warheit]----実験がある。[......]そこで以下のことが明らかになるならば、すなわち、われわれの経験認識が物自体そのものとしての諸対象にしたがうと想定される場合には無制約者[das Unbedingrte]は矛盾なしには決して思考されえないということが、これに対して、われわれに与えあれるがままの諸物の表象が物自体そのものとしての諸物にはしたがわず、そうではなくて却って現象としてのこれら諸対象がわれわれの表象様式にしたがうと想定される場合には矛盾が解消するということが[......]明らかになるならば、われわれが初めただ試みに想定しただけのものが根拠づけられていることが示されたことになる。

注目されるのはここで----「以下のことが明らかになるならば」として語られる----「無制約者」の位置づけである。これは定義的には「われわれを必然的に経験およびすべての現象の限界を超え出て行くよう駆り立てるもの」を指し、具体的には「神、世界、および不死性」という形而上学的概念として定式化されるが、引用に示されるように、カントはこの無制約者についての「思考」が現に可能であるということを形而上学の実験の検証基準として位置づけている。というのは、まず、これら無制約者は『批判』本論で縷説されるところにしたがえば、「認識」不能ではあるが、その際も「思考」はされうる(また現にされている)。それゆえにこそ、われわれの理性は不可避の矛盾(弁証論的仮象)へと巻き込まれることにもなる。しかるに、これは逆からみれば、その認識不可能性にもかかわらず、そうした超経験的なものについての思考そのものは否みがたい事実としてあるということでもある。そして、そのようなものとして、形而上学的対象の思考可能性は、自然科学的認識にとって経験がそうであるように、当該領域における認識の原理の実験的検証の基準としての役割を担いうる。つまり、この「事実」を矛盾なく説明できるか否かという点が形而上学の原理の可否を判定する基準となる。

私たちが素朴に言語を考えるとき、まずその「固有名性」に注目する。それは、アニミズムがそうであるように、具体的にその言葉が「指示」しているものとの一対一の関係が想定されている。ところが、それらの記号群は次第に、そういった指示対象と遊離していく。亡霊のように彷徨っていくのだ。それがここでカントが言っている「思考」の無双っぷりなわけである。しかし、そもそも、こういった特徴がなければ、コペルニクスニュートンのような仮説を経た主張というのは、ありえないわけであろう。
こういった意味においては、カントが感性と悟性を「区別」するのは、その探求対象との関係を考えたとき、むしろ、当然だとさえ言いたくなるわけだ。
例えば、このように考えてみよう。私たちは、感覚器官を通して、実にさまざまな情報を、どんどんと脳に書き込んでいる。この状況は、まったくもって「多様」である。いろいろ、である。しかし、それらは、なんらかの「規則」にもとづいて、処理

  • している

のではないか? これも超越論的な問いである。カントの言う「経験」は、たんなる「感覚の束」ではない。経験とは、言わば、サイバネティックに、リカーシブに、それらの感覚を「大脳」を通して思考し、行動し、そして、再度受ける「感覚」に対しても同じことを繰り返す、その営みにおける、感覚と思考をセットにしたものであるわけであって、だからこそ、カントはその「経験」についての、「唯一性」のようなことが考えられたわけである。

しかし、ともあれ、基本的な枠組みに関しては一貫している。問題の「総合」に関しても、これが感性と知性の協働(感性的直観に対する純粋知性概念の適用)における「想像力」の所産であるという点に変わりはない。第二版で「知性的総合」との対照においていわれる「形象的総合」も、基本的にはこの想像力による総合をより具体的に説明するための表現であるといえる。そのことは、第二版演繹論の第二四節の続く箇所で「想像力の超越論的はたらき(内感に対する知性の総合的影響)」を意味するものとして、この総合をカントが具体的な事例に即して説明する次の記述によっても確認される。

このことをわれわれはやはりつねに自らの内で知覚している。われわれが線を思い受かべるには、それを思考において引か[ziehen]ないわけにはゆかず、円を思い浮かべるにはそれを描か[bescheiben]ないわけにはゆかず、空間の三つの寸法を思い描くには同じ点から三本の線を互いに垂直に立て[setzen]ないわけにはゆかず、そして時間すら[思い描くには]われわれは一本の直線(これは時間を外部に象る[figurlich]表象たるものである)を引くなかで単に多様の総合のはたらき----これによってわれわれは内感を継起的に規定する----に、そしてそれによって内感におけるこの規定の継起に注意することによらないわけにはかない。

想像力による「形象的総合」の内実は、このように「線を引く」という継起的な活動に即して語られる。

上記はいわゆる、中学のときに数学の授業でやった図形問題の「補助線」のことを言っているのだろうが、あの問題を考えてみると、明らかに、その図形の「そこ」に補助線を引いたから「見えてきた」回答なわけである。これが、具体的に私たちが今を生きているということの意味なわけであろう。
つまり、感覚は感覚で閉じていない。常に、私たち自身の働きかけによって、その有り様にも影響を与える。
感覚に対しての純粋形式が、時間、空間であったのに対して、悟性に対しては、カントによって「カテゴリー」と呼ばれている一種の論理学や言語学における諸要素が言わば私たちの思考の「型」を与えることによって、その外貌を制限しているとカントは考えた。
この場合、カントはそれを「アプリオリ」と呼んだ。しかしそうなのか、という疑いはある。もちろん、カントがそう名づけたものは、かなり、人間がなにかを思考しようとするときには、なくてはならない概念のように思われる。しかし、そもそも言語とは、自然史的な成立の背景をもつものであろう。つまり、そもそも、カントが与えたようなカテゴリーを使わない、というか別のものによって代替している場合さえありうるであろう。
上記でも言いかけたが、カントは「経験」という言葉と、諸感覚を分ける。その場合に、ある種の「総合」ということを考えている。言うまでもなく、人それぞれには諸感覚があり、諸思考があり、その内実はまさに「多様」と呼ぶしかどうしようもない、膨大なものがあるわけであるが、カントはある程度、そういったものには「共通」性のようなもの、特に、人それぞれの行っていることには似た側面があるんじゃないのか、と考えた。これが「経験」ということになる。もしも、人それぞれの経験がまったく意志疎通のできないものであれば、まったく違っている可能性があるが、私たちは実際に生きてきて、それなりに伝わったりもするわけで、だとするなら、ある程度の、経験のパターンがあるのではないか、ということになるであろう...。

『純粋理性批判』の方法と原理:概念史によるカント解釈 (プリミエ・コレクション)

『純粋理性批判』の方法と原理:概念史によるカント解釈 (プリミエ・コレクション)