R・ハーストハウス『徳倫理学について』

ある人の「徳」というものを考えることには、どういった意味があるのだろうか。
例えば、ある人がある行為をしたとする。その場合、その「行為」と、その人の「徳」について、なんらかの関係を考えることは可能であろうか。もちろん、常識的には、これが可能でないなんてことがあるわけがない、と思うであろう。
では、次のように考えることは可能だろうか。つまり、その「行為」を行った人が自らこの行為の動機について説明したとして、その

  • 内容

によって、その行為の道徳性を考える。という手法である。
この方法は、一見すると非常に説得力のある方法に思えるかもしれない。私たちは、どういった行為が「道徳的」であるのかをリテラルに記述することは可能だ。だとするなら、その「基準」に照らして、本人の言う「弁明」の内容を、たんに振り分ければいい、ということなのだから。
しかし、おそらく、こういった方法ほど「非倫理的」なアプローチはないであろう。なぜか。なぜなら、私たちがここで考えたいのは、「その」行為のことであって、その後に行われる言い訳という「行為」ではないからだ。私たちがここで判断したいのは、あくまでも前者である。ではなぜ後者では不十分なのか。それは、後者には後者の「文脈」があるからだ。「あのとき私はこういう意図で行動した」と発言している人には、その人なりの、その時の「事情」があるはずだ。もしかしたら、誰かの非をかばうために嘘をつくかもしれない。または、単純に気分の問題で、まったく、思ってもいないようなメチャクチャなことを言い出すかもしれない。
大事なことは、私たちが、ここで考えているのは「前者」なのか、後者なのか、ということである。
よく考えてみよう。ある行為の評価は、その行為「だけ」からしか演繹できない。なぜなら、それについての本人による、どんな「言い訳」も、それを行う場面における「文脈」によって、いくらでも「不純」なものになりうるから。
しかし、である。
その人を、その「行為」のみによって考えるとは、どういうことを意味するのだろうか。
ある群れをなして生活をしている部族がいるとする。そのメンバーの一人が、ある軽率な行動をしたとする。敵に自分たちの弱点を教える、というような。それによって、この群れは滅びたとする。このように考えた場合、「その行為」と群れの存続は大きく関係した、と言うことができる。
しかし、だからといって、群れのメンバーになんの行動も行わさせないわけにはいかない。彼らは生きていかなければならないのだから、なんらかの日々の実践を積極的に推奨していくことになる。
しかし、言うまでもなく、その行為は群れの滅びを結果してしまうかもしれない。もちろん、こう考えることもできる。たとえ群れの存続を結果できなくたっていいじゃないか、と。結果的にそれぞれが、どこかで生き延びられるのなら、と。しかし、いずれにしろ、そういった「結果」において、とても満足できない方向に向かってしまう可能性はどうしても存在する。
このように考えたとき、ある人を、たんに「その」行為だけで判断するということは、ほとんどありえない事態だと思われないだろうか。ある人に対する判断は、ある「一つ」の失敗に対してだけの評価では、単純に行うことはできない。一人一人は、さまざまな群れの危機をもたらす可能性をもっているものの、逆に、この群れの存続に大きく「貢献」してくれる可能性も多くもっている。いや。むしろ、こちらの方が大きいと考えることの方が普通であろう。
ある人がある行為を行い、群れに迷惑をかけたとする。その場合、そのメンバーは反省をし、次の機会には、そのミスを挽回する活躍をしてくれたとするなら、私たちはその

  • 最初の借り

を返してくれた、と受けとるのではないか。私がここで言いたかったことは、「ある行為」でも「それとそれに対する、その人の言い訳」でもなく、その人の今までのあらゆる行為を、その

  • 連続

において評価するような地平としての「徳」という言葉なのである。
私たちが、ある人と、今日会う約束をしていたとして、どういった心構えで向かうかは、言うまでもなく

  • その人との今までの「付き合い」の中から、自分の中でつちかってきた「傾向性」

から判断することになるであろう。もちろん、こういった「思い込み」は裏切られるかもしれない。しかし多くの場合は、それで事足りるわけで、私たちはあまりそのことを不思議に思わない。というのは、それが慣習というもので、実際に日々の生活の多くは、その程度で実際に済んでいるからだ。
こういった状況において、実際には何が起きているのだろうか。まず、カントの格率ではないが、そもそも私たちは他者を目的としても扱おうとする。つまり、群れの「みんな」にとっても利益となるように振る舞おうとする。これを、一般的に言えば、つまり、なるべく他人に迷惑をかけない、ということである。
では、逆に迷惑をかける場合というのは、どういう場合であろうか。なんらかの「信念」によって、「そうであるべき」と考える場合だと言える。この態度に回りは最初はウザく感じるわけであるが、その人の信念に理解が浸透すれば、多くの人は受け入れてくれるのかもしれない。
なぜ私がこういったアプローチの重要性を強調するのか。それは、結局のところ、一つ一つの「行為」に対して、私たちはその「事情」を完全に理解することはできないと考えるべきだからである。なぜ、その人は、こんなことをしてしまったのか。もしかしたら、非常に軽率な行為だったのかもしれません、そのままに。もしかしたら、他人にはうかがい知れない、なかなか他人に打ち明けられない特殊な事情がその場合にはあったのかもしれません。私たちは、たとえそうであったとしても、

  • その人の通時的な振舞いの<全体>

において、おおよそ「この人の、その人となり」を理解することで、そういった個々の結果についても忖度するわけであり、多くの場合は、その程度で「群れにとっての貢献度と危険度」を見積り、大抵の場合はそれでうまく行くということなのであろう(実際に、今、人間がこの地球上に存在する、という意味で)。
カントの純粋理性批判において、その「経験」が成立しうる契機は、つまりは「総合」ということをどのように考えるかにかかっていた。しかし、ここで総合とはなんであろうか。
ある連立方程式があったとする。私たちは、このように言う場合、どうせ二次方程式や三次方程式や、まあ、その程度だろうと思う。ではもしもそれが、百次方程式であったらどうなるだろうか。もしかしたら、この程度までだったら、コンピューターを使えば解けるのかもしれない。しかし、一億次とか、さらに大きかったらどうだろう。もう、コンピューターでも、何年たっても答えが帰ってこないと考える方が普通であろう。しかし、それが「総合」なのではないか。なぜ人生の問題は「二次や三次」でおさまると勝手に決めるのだろうか。そう思いたい理由はたんに「そうじゃないと答えが帰ってこないから」という人間側の事情によるしかないわけであろう。このことは、入学試験の問題が必ず回答があり、その時間内に解けることが「前提」になっていることに似ているかもしれない。
ある解けない問題に対して、人々はどのようにアプローチをするのだろうか。ある非常に複雑な事態に直面したとき、私たちはどのようにその状況に立ち向かって行くのだろうか。そのような場合、一般的にはある「モデル」を利用する、ということになります。今の状況を非常に特徴的にとらえている、ある単純化された「モデル」を適用することで、この複雑な事態を代用とするわけです。もちろん、こういったアプローチは、失敗するリスクがあります。そのモデルが、そもそも事態の把握にうまく適合していない場合や、そもそも、そういったモデルの発見がうまくいっていない場合など。
しかし多くの場合、徳倫理学はそういった事態を、あまり深刻に考えません。

もしわたしが自分は決して完全な人間ではないと知っており、しかも、わたしが置かれているのと同じ状況下で有徳な人ならどう振舞うかがまったくわからないならば、なすべきことは明白です。行って誰かに「このことをなすべきでしょうか」と尋ねるべきです。これは決して瑣末なことではありません。なぜなら、わたしたちの道徳生活に見出されるある重要な局面、つまり、わたしたちは必ずしも常に「自律的」で完全に自己決定的な行為者して行為するわけではなく、むしろ自分より道徳的に優れていると思う人から頻繁に道徳的な指針を求めるという事実を、それは単刀直入に説き明かしてくれるからです。自分でも嫌になるような悪事をなそうとして、そのための言い訳を探している時などは、自分より道徳的に劣った(あるいは、もし自分が正真正銘の悪人なら、同じ程度の)人にこう訊いてしまうものです。「もしあんたがわたしと同じ立場だったら、あんただって同じことをやりはしないかい?」という具合に。しかし、何か正しいことをなそうと躍起になっているのに、先の見通しが立たない時には、わたしは日頃から尊敬し、賞賛を惜しまない人たち、たとえばわたし自身より親切で正直で、もっと正しく、賢い人たちのところに赴くのではないでしょうか。そして、彼らに「もしあなたがわたしの立場なら、何をしますか?」と問うことでしょう。

例えば、あなたがサラリーマンとして毎日会社で働いているとします。そうした場合、常に「どうしたらいいか分からない」事態に直面しているのではないでしょうか。しかし、だからといって途方にくれて呆然としているでしょうか。端的に、有識者に聞くだけでしょう。基本的に、ほとんどの事態はこれと変わらないのではないでしょうか。
人生は長く、多くのことが起きる。そして、私たちはそれらから「構成」されているのであって、そのどれも「無関係」ということはない。しかし、それを「複雑」ゆえになにもしない、というわけでもない。
では、こういった事態が、現代の「若者」になにをもたらしているのか、と問うことはできるでしょうか。
以下の本の著者は、いわゆる「ネトウヨ」現象を指して、今の日本の若者が「保守化している」といった言説に反対します。

政治的イデオロギーの文脈で世界観を構築している人々のほとんどは、若者が抱える「靖国神社参拝への賛意」と「戦争になったら命をささげない」を両立しない命題だと思っている。あるいは、「安倍首相が好き」という感情と、「護憲」という思想概念も、両立しない命題だと思い込んでいる。だが、人間はそもそもそんなに硬直的で、単純な生き物なのだろうか。「靖国」と「反戦」、「安倍首相」と「憲法九条」併存しないものだと、勝手に、自覚的に左右のイデオロギーを持つ連中が、そう決めつけているだけではあるまいか。
だから、例えば「若者の間で着物が流行っている」というニュースが流れると、すぐその背後に「保守的課題への賛同」があるはずだと解釈する。実際には和装が安価で提供される製造システムが完備されたり、和装を喧伝する各種のプロモーションの結果であるのに、我々の中で左右のイデオロギーマトリックスがすでに出来上がってしまっていて、そこに若者の行動を強引に当て込もうとするから、話がややこしくなり、大間違いを犯してしまうのだ。

若者は本当に右傾化しているのか

若者は本当に右傾化しているのか

現代という情報化社会において、若者は早い話が非常に真面目だということである。とてもよく、上の世代の話を聞いている。彼らはふざけているように見えて、とても優等生的に、上の世代の言行に合わせようとしている。しかし、だからこそ、若者は行動しない。自分の意見を言わない。なぜなら、私たち上の世代の「メタ・メッセージ」は、若者が自ら「判断するな」と言っているからだ。
若者の特徴を一言で言うなら、「なんの反応も返ってこない」ということになる。そのことから「悟り世代」とも呼ばれている。こういった心理描写の特徴は、村上春樹ナルシシズム的アプローチが典型と言えるかもしれない。
なぜ若者は、一切の自己表現を拒否するのか。それは、どんな自己表現も、上の世代の「メタ・メッセージ」と衝突するからだ。早い話が、若者は「もめたくない」のだ。上の世代の「自己表現」という「自己実現欲望」は、端的にウザいわけである。
若者の言っていることを一言でまとめるなら、「是是非非」ということになる。若者は端的に上の世代ともめないために、なんらかの「バランス」を語る。このことは一見すると、上記の「なんの反応もしない」悟り世代の特徴に反しているように聞こえるかもしれない。しかし、そうではない。一見反語的に聞こえるかもしれないが、「なんの反応もしない」ことが「行動しない」ことを意味しない。それは

としての行動なのだ。若者は上の世代から、若者は「なにもしないべき」ということを求められているわけではないことを知っている。つまり、なにもしなかったらしなかったで文句を言ってくることが分かっているので、ウザいから、なにかはするわけである。
こういった若者像は、そもそも「上の世代」が、メタ・メッセージ的に若者に求めている姿だと言えるであろう。それを

  • 気持ち悪い

と感じる上の世代は、その「感情」によって、そもそも自分が何をしているのかのその行為が「気持ち悪い」と言っていることと同値であることに気付かさせられる、というわけである。
さて。私たちは、こういった若者たちの現代における姿を、どのように考えたらいいのでしょうか。
アニメ「四月は君の嘘」は、そんな若者たちの今を教えてくれる内容になっているのかもしれません。主人公の中学三年の有馬公生(ありまこうせい)は、幼い頃から母親のスパルタ教育によってピアニストとして国内の数々のコンクールで優勝していたが、母の死を境にして、生前の母との感情の軋轢がトラウマとなり、それ以降ピアノが弾けなくなる。ピアノをひこうとすると、その音が聞こえなくなる謎の病気に悩まされることになる。
そんな彼の前にあらわれたのが同じ学校の同級生のヴァイオリニストの宮園かをり(みやぞのかをり)である。彼女はひょんなきっかけから、彼を自分のヴァイオリンのコンクールでの演奏の「伴奏」としてピアノを弾くことを彼に求める。
有馬公生(ありまこうせい)のトラウマは、母親のトラウマである。母親は彼に「正確」であることを毎日のスパルタ教育で彼にたたきこんだ。有馬公生(ありまこうせい)はなぜ母の死の後、ピアノが弾けなくなったのか。それは、彼にとっての「罰」だと受けとったからだ。つまり、自分の罰が母親を死においやった。自分が母を殺した、と受けとったわけである。
そのことは、つまりは、自分には「資格」がないことを意味する。つまり、自らの罪そのものが母の願う自分の理想と釣り合わない、ということである。
それに対して、宮園かをり(みやぞのかをり)は彼の想像を超えた存在であった。彼女は、厳粛なコンクールにおいても、なにかの「正確性」、大人たちの「評価」に興味がない。それは端的に「自らの表現」なのだ。彼女の短い人生において、多くの人の目に自分を焼き付けたい、という欲望なのかもしれない。そしてそれは、有馬公生(ありまこうせい)との演奏でも変わらない。
彼女にとって、コンクールでの演奏などどうでもいいのだ。
大事なのは、有馬公生(ありまこうせい)なのであって、自分がどうなるかなんて、どうだっていい。観客がどう思うかなんてどうでもいい。端的に今、同じステージの上で苦しんでいる彼を思いやることしか考えていない。
有馬公生(ありまこうせい)は、自分がこの母親のトラウマから解放されていく過程において、彼女が非常に重要な存在であったことを理解していく。なぜ彼は母親のトラウマに悩まされたのか。それは、彼の二つの感情(母親を憎む感情と、母親を愛する感情)の両方がそれぞれにリアルだったからなわけであろう。彼と母親との関係は幼い頃からの、非常に長い濃密な関係である。彼にとって他人がどう言おうが簡単に否定できないわけである。彼は子どもの頃の、とても優しく彼を育ててくれた母親の姿を思い出していくことによって、少しずつ回復していく。つまり、母親はたんに彼にスパルタであること「だけ」を刷り込んだ存在ではない。母親も

  • 宮園かをり(みやぞのかをり)

と同じように、音楽が人生において楽しくあることを教えてくれていたことを、彼女と重ねることによって、記憶の裏側から、少しずつ思い出していくわけである...。

徳倫理学について

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