菊池誠『不完全性定理』

世の中には、人それぞれ、生きて行為していることの「動機」が違う。つまり、人それぞれ「事情」がある。そのことが、人それぞれの行動を、ある意味、決定しているとも言える。例えば、こんなふうに考えてみよう。子どもの頃の学力競争社会において「勝ち組」となった人が、その後、毎日考えることはなんだろうか。また、その逆はなんだろうか。
上記の「勝ち組」の人にとって、その競争が与えてくれた「権威」を疑うという意識は小さくなる。なぜなら、この権威は自分の「価値」や「正当性」を与えてくれるように思われるから、そのことはひとえに「ストーカー」による、営業妨害的な、いわゆるハイデガー的な意味における「不安」の対象と受けとられる。
反対に「負け組」にとってはどうか。負け組は、いわば、上記のような権威の「立場」に自らが置かれる状況を「あきらめた」人たち、つまり、ほとんど全ての大衆と同値となる。彼らにとって大事なことは、

  • 勝ち組による「理不尽」な要求

に、どうやって立ち向かえるのか、ということになる。彼らがたんに、権威者であり、成功者であるという「だけ」の理由で、あらゆる権威的「暴力」が正当化されることが耐えられない。こういった方法の、もっとも原初的なものとして、イエス・キリストによる、当時のユダヤ権威社会に対する「プロテスタント運動」に見出すことができるかもしれない。
この場合、大事なことは「反論の<正当性>」ということになる。負け組が求めていることは、勝ち組の「理不尽な要求」に対しての抗議であるわけだから、その主張を、たんに「成功者だから聞かれる価値がある」といった権威的な文脈から離れて

  • それ自体

において、人々がそれに耳を傾けることの「理由」を与えるような「正しさ」を主張できる手段の探求が要求されているわけであり、人類の近代化の過程とは、このことへの問題意識と共に進展してきた、と言うことができるであろう。
小保方さんのSTAP細胞についての事件が問題となったとき、そこで「想起」されていたのは、ソーカル事件であった。そのことの意味は、どこか逆説的であったが、彼女の「人間性」を批判する方向で議論されたことが特徴であった。一般にソーカル事件は、その論文を受理する側の

  • 問題

と捉えられている。しかし、である。もしもこの問題の解決の手段をもっていないと思っているなら、その人はどう思うだろうか。

  • 不安

にならないだろうか。よって、こういった問題の一番「効果的」な対処法は「脅し」ということになる。
しかし、ソーカル事件の「解決」とは、そういったものだったのであろうか。ということは、このことを逆に言うなら、

  • ほとんどの論文は「いいかげん(=適当)」なんじゃないのか?

ということになるわけである。どんなに偉い学者で、東大で学位を取得していても、その書かれた論文の内容の「評価」なるものがどのように可能なのかは、はなはだ疑わしい、ということになる。
このように考えたとき、前回紹介したスピノザについての学術論文で、スピノザが非常に

  • 方法

というものにこだわっていることは、印象的であった。というか、方法にこだわっていたのは、デカルトなのである。おもしろいのは、ソーカル事件が示していたことが、「方法」という手段に対する「軽視」、つまり、

  • 勝ち組という、属人的な「権威」

に、もう一度、現実社会のストラクチャーを取り戻したいという「欲望」なのではないか、と疑われることである。「方法」をあきらめることは、勝ち組という権威に無条件の「権威」を与える一方、負け組にっての「反論」の窓口を塞ぐという

  • 隠微な欲望

を示すことになる。言うまでもなく、負け組を負け組として、いつまでもはい上がれないようにしておけば、勝ち組の「ポジション」は安泰というわけである。私がデカルトスピノザに興味をもつのは、そういった意味であるし、こういったポテンシャルは、カントにおいても、まだその萌芽を感じられる。ところが、こういった「方法」への意識を急激に失っていった出発点として、プラグマティズム分析哲学があるのかもしれない。
というか、もっと一般的に、ポストモダンでもなんでもいいが、現代におけるさまざまな言説には、徹底してこの

  • 方法

という問題意識が感じられない。言ってしまえば、哲学はもはやそういった「動機」を失ったのではないか、という印象をまぬがれない。いわば、哲学は「勝ち組という<貴族>たちの、趣味としての嗜み」に堕してしまったのではないか。
今や哲学は生きることと関係なくなってしまった。一種の「趣味」の問題でしかなくなった。オタクが、好きなフィギアを集めて、刹那的に萌えている「快楽の道具」でしかなく、なんらかの社会運動としての抵抗の「ツール」としての意味を見出されなくなっていく。
今、哲学と言うことは「芸術」と区別をされなくなった。つまり、哲学運動は芸術運動と同値となった。つまり、それは「意味がある」のではなく、「感性の違い」ということでしかなくなった。つまり、カントの正当な意味における

  • 批判

は、もはや哲学の中から駆逐されたわけである。
こういった状況において、私が大学生くらいの頃、ゲーデル不完全性定理を知ったとき、私を深刻に考えさせたのは、その不完全性定理の主張「そのもの」ではなく、

  • Hilbert のプログラム

と呼ばれているその「内容」であった。私がよく分からないのは、いわゆる哲学畑の人たちにとって、あまりこの問題について、深刻に考えたことがないんじゃないのか、と思われることである。
正直に言って、数学だとか哲学だとかの、その「内容」に私はなんの興味もない。そういった命題があったとして、「ああ何か言ってるな」といったくらいの、うすっぺらい関心しかもてない。だから、いわゆる「哲学」の

  • 内容

に対して「オタク」的なフェティッシュを語っている人を見ると、なんらかの「営業的動機」を疑ってしまう。
しかし、そのことと「Hilbert のプログラム」は、まったく別の問題を言おうとしているわけで、言わば「負け組」の主張する論拠の「正当性」をどのように調達するのか、を与えているように思われたわけである。
ヒルベルトの言う「有限の立場」とは、言うまでもなく、数学自体が「有限」でなければならない、と言っているわけではない。そうではなく、もしそれが「正しい」と言いたいのなら、そのことを証明する手続きは、なんらかの

  • 人間的な有限の手続き

の範囲において「行われなければならない」よね、という、ある意味において、しごくまっとうな主張だったわけである。
大学生の頃読んだ、数学の教科書に書いてある「証明」とは、いわば「自明」性によるものであったと言える。それは、常識的に考えれば、そういった科学者集団のトレーニングを受けている「科学貴族」には、

  • 説明がいらない

と言っているにすぎず、実際に、その証明を読んでいる学習者が「納得がいくかどうか」とは関係のないものだったと言えるだろう。つまり、ここで言っている「証明」とは、

  • 大衆とは関係のない

ものである可能性がある。どこかしら、素人には超えられない「壁」が、むしろその「記述レベル」において設けられている印象をもたらす。
こういった意味において、私が考えていたことは徹底して「シロート革命」ということになるんじゃないのか、と思っている。しかし、こういった「動機」を共有しない人たちにとっては、私が考えているようなことは、たんに「社会的危険要因」ということを意味するしかなく、公安などの国家機関によって、東京にあるような高級住宅街の「安全」を確保するための

  • 危険除去

の対象でしかないのであろう。

さて Hilbert のプログラムは破綻し、数学の危機を解消する明確な証拠は見つかっていないにもかかわらず、数学の危機が真面目に論じられていた「不安の時代」は意外に簡単に終わった。現在、数学の基礎を本気で心配している数学者はまずいない。これは、集合に関する逆理の発生のメカニズムが解明され、公理的集合論が整備されて、その公理的集合論は無矛盾であると信じられるようになったこと、数学の世界の一部分である算術の世界の無矛盾性が数学的に証明されたことなどによって、数学の基礎に対する危機感が徐々に薄れていった結果であろう。

さて。なぜ「数学の危機」は終わったのか。それは、公理的集合論が、いろいろな意味で「信頼できる」と人々が考えるようになった、というところにある。公理的集合論は言うまでなく、不完全性定理によって、不完全である。しかし、だからといって無矛盾でないことが証明されたわけではない。つまり、無矛盾でないことは、まず、証明されない、とみんなが思い始めたのだ。
あとは話は早い。ペアノ算術が無矛盾であることは、もし「公理的集合論が無矛盾ならば」と仮定すれば、簡単なモデル論の話によって、自明となる。
いわゆる、Gentzen の無矛盾性証明とは、「公理的集合論」なんていう大袈裟な道具を使わなくても、たんに、「高階のオーダーでの帰納法」を認めれば、「その範囲」で示せる、と言っているわけで、いわば「その程度」の

  • 道具

だけで、無矛盾性が言えるのだったら、相当に自然算術は信頼できる、ということを示唆している、というわけである。
では、次になぜ「Hilbert のプログラム」は、人々の関心から離れていったのであろうか。その最も大きな理由は、いわば、ここで言う「有限の立場」について、基本的なコンセンサスが生まれてきたから、と考えられるであろう。

有限的で具体的な数学的命題についても、一般に有限的な証明は長く複雑であるので、有限的な証明よりも超越的手法を用いた証明のほうが簡単で見通しがよい場合がある。したがって、話題を有限的で具体的な数学的命題に限るとしても、超越的手法を用いて構わないのなら、超越的手法を用いたほうがよい。そして、もしも超越的手法を用いて証明された具体的な数学的命題は、超越的手法を用いないでも証明可能であることを示すことができれば、超越的手法を用いて証明しても構わないことが保証されることになる。これが還元性プログラムの考え方である。
還元性プログラムを数学的に定式化するためには、具体的な数学的命題という概念を数学的に定義する必要がある。もちろん、この概念を数学的に定義することは容易ではない。ただし、\varphi(x_1, ..., x_n) を原始再帰的な集合を定義する論理式とするとき、\forall x_1 ... x_n \varphi(x_1, ..., x_n) という形の論理式で表せる命題は、真である場合には原始再帰的な集合に関する数学的帰納法によって証明できることが期待されることから、数学的命題が具体的であるとは、この形の論理式で表せることであると考えることができる。
そして、このように考えるとき、原始再帰的な集合は N 上で \Pi_1 論理式で定義可能であるので、具体的な数学的命題は \Pi_1 文で表せる。逆に \Pi_1 文はすべて、\varphi(x_1, ..., x_n) を \Delta_0 論理式として \forall x_1 ... x_n \varphi(x_1, ..., x_n) という形をしていて、N 上で \Delta_0 論理式が定義する集合は原始再帰的なので、\Pi_1 文で表せる命題は具体的な数学的命題になる。よって具体的な数学的命題とは \Pi_1 文で表せることであると考えることができる。

「有限の立場」とは、その証明の「安全さ」を示すものとして考えられてきた。しかし、これってなんだろう? ようするに、これって

  • 計算可能性

のことなのだ。早い話が、コンピュータがその「証明」を行うことができるなら、その証明は、

  • モノ

としての証明が存在するんだから、一種の「唯物論的」な意味において、安全だ、というわけなのである。

なお、数学的命題が具体的であることは、必ずしも初等的であることと同義ではない。例えば、素数が無限に存在することは \Pi_2 文で表現される初等的な数学的命題であるが、自然数 a に対して、a より大きな素数がどの範囲に存在すると主張するのかを特定しなければ具体的な数学的命題ではないと考えられる。

一応注意しておくと、あくまでも「有限の立場」における有限は、その証明「自体」に対してしか興味をもたない、ということであった。つまり、上記のように「素数」のことを考えない、ということではなく、その証明の演算規則に、「有限の立場」からの安全な事実しか使わない、と言っているにすぎない。
ここで、もう一度、「ゲーデル不完全性定理とは何だったのか」を考えておこう。
ツェルメロ・フレンケルの公理的集合論を見たときの、最も「驚く」べき特徴は、無限公理(自然数の集合の存在証明)と、冪乗公理(実数の集合の存在証明)なのではないか、と思っている。つまり、自然数と実数の「存在」を

  • 公理

によって「<ルール>によって」あることにされている「だけ」というところなのである。自然数や実数といった、あまりにも「自明」なものの存在でさえ、それは「ルール」によって「そうなっている」と言わざるをえなかった、というところにあるわけである。
どうして、こんなことになってしまうのか。言うまでもない。これが、不完全性定理の結果ということになる。
不完全性定理とは、なんらかの基本的な「自然算術(=ペアノ算術)」を含んでいる理論は不完全だ、ということになる。つまり、問題は常に「自然数」とはなんなのか、というところにある。
自然数は、0、S(0)、SS(0)、SSS(0)、...。つまり、

  • これを「ずっと」続けていく

という形で示される。しかし、ここで言う「ずっと続ける」とは何を言っているのだろうか(また、「それ」についての足し算、かけ算、とは?)。同じことは、実数についても言える。自然数全体の「すべての部分集合」と実数は対応する。しかし、ここで「すべての部分集合」なるものを考えるとは、何を言っているのだろうか。つまり、「どこまでも続ける」という表現から、その「全体」なるものを考えることそのものが、どこか非形式的なのだ。
例えば、超準解析のように、ここで言っている「自然数」にもしも「無限大」という「記号」が含まれていたとしても、「それに関する」すべての論理式(すべての自然数に対してその無限大の方が真に大きい)というのを含んでいると考えれば、それでも問題なく議論が続けられるように思われる。だとするなら、ここで言う「無限大」は最初から入っていたと考えてもいいのだろうか?
つまり、問題は「自然数の定義とは何なのか」ということになる。
上記に関連して、とても面白い事実が知られている。Presburger算術と言って、上記の自然算術を「プラス(足し算)」に限り、かけ算を含まない体系としたとき、こちらは完全であることが示せるのだ。また、この逆(かけ算を含むが足し算を含まない)の場合においても、それが完全であることが示される。つまり、どちらの理論においても、他方。つまりそれぞれ、かけ算、または、足し算を

  • 定義できない

ということが分かるわけである(不完全性定理により)。

数学の証明において自然数は二つの役割を担っている。一つは議論の対象としての自然数であり、例えば「2^(31) - 1 は素数か?」と問うときの 2^(31) - 1 という自然数である。もう一つは証明を機能させるための自然数であり、例えば10通りに場合分けして証明するときの10という自然数である。この二つの区別は、注意4.5.5 で論じた「数学的対象の世界」「数学」「哲学」という三層構造を考えるときの、「数学的対象の世界」に属する自然数と、「数学」で用いられる自然数の区別である。

なぜ不完全性定理のようなことが起きるのか。それは、言ってみれば、自然数をあまりにも自明なまでに、私たちの日常の思考において使っているために、形式的に定義された自然数なるものと区別して考えることが、あまりに難しいから、と言えるのかもしれない。
いや。もっと言ってしまえば、そういった私たちの日常の行為における「自然数」を「使って」、自然数「とは何か」に答えようという行為自体が、そもそもの循環論法にはまってしまっているんじゃないのか、と考えることもできるであろう。

さて、\Sigma_1 文や \Pi_1 文の真偽を確定させるためには N 全体を参照する必要がある。もしも述語論理の上で展開される算術は N を公理的に定めるものであると考えるなら、算術の非論理的公理の中に N 全体を参照する量化子が出現しても何の問題にはならない。しかし、算術の非論理的公理を定めることが「N とは何か」という問に答える試みであると考えるのなか、算術お非論理的公理の中に N 全体を参照することなく、具体的に書き下ろすことが可能な自然数のみに依存して真偽が決定される文を可述的な文と呼ぶことにする。

このように考えるとするなら、これも一種の「有限の立場」へのアプローチだと解釈できるであろう。
自然数を「全体」として扱うことに、なんらかの「問題」があるということが、不完全性定理の言っている意味であった。だとするなら、この自然数の「全体」なるものを「避ける」手段を考えれば、それによって「私たちが一般的に解釈される」範囲における、ある種の「無矛盾性」の解釈が、その範囲において、不完全性定理と両立する形で存在しうるのかもしれない、と考えることもできるであろう。この本では、それを

  • ゲーデル数のある程度の上限
  • 証明の列の数のある程度の上限

を想定することによるアプローチが載っている。
さて。話を最初との関係に戻そう。なぜ、「Hilbert のプログラム」について人々は考えなくなったのだろう。私は上記の説明よりもなによりも、

  • コンピュータの大衆化

にあるように思われる。明らかに、知は「大衆化」したのだ。現代は、ハンナ・アーレントが言ったように「大衆の時代」である。コンピュータという「唯物論的」な

  • モノ

が大衆に「道具」であり「方法」を与えた。これによって、大衆は一切の「勝ち組の権威」に悩まなくなった。今、こういった時代においても今だに、「勝ち組の権威」を主張している連中とは、なんらかの確信犯的なパフォーマリストであることを意味しているということを端的に示しているだけになった。
こういった意味においては、世界は「単純」になった、と考えることもできる。しかしその「単純さ」は、再度、上記の意味における「勝ち組の<不安>」を結果することになる。マルクスの考える「階級闘争」は、その世界視線が「シンプル」になったから終わるわけではない。より「直接的」に、「負け組」は「勝ち組」の「不安」と「欲望」という「暴力」に悩む時代が始まる、ということなのかもしれない...。

不完全性定理

不完全性定理