ジョナサン・ハイト『社会はなぜ左と右にわかれるのか』

マイケル・サンデルを始めとして、多くの哲学者が、近年、あらためてコミュニタリアニズムであったり、徳倫理といったものに言及を始めていることは、一つの哲学の転換点を示しているように思われる。
例えば、ルソーの社会契約にしても、ロールズの正義論にしてもそうであったが、こういった「方向性」の特徴を一言で言えば、

  • 純潔主義

のようなところがある。例えば、複数の地域からの出自をもった二人の人の間には、共通の慣習が多くの場合に重ならないとしたとき、なぜかルソーやロールズは、そのお互いの「事情」も知らないのに、勝手に議論を進められる、と考えた。その手法が、

  • 道具の最小化

である。さまざまな出自をもつ人たち同士が会話が成立しないことは当たり前。だったら、「たとえそうであっても」お互いが守らなければならない最小のルールさえ

  • 合意

できたらいいよね、というのがルソーやロールズ流の「最小原理」というわけである。
こういった「考え」に私は反対だが、その理由は、言うまでもない。「お互いにはお互いの事情がある」のだから、それを「知らない」連中が、相手を知りもしないで、どっかから、よく分からない

  • 出自

の「ルール」を相手に押しつけるのは、一種のパターナリズムであり、自由と自律を主軸とするカントの「目的の国」に反すると思うから、となる。
では、どうすればいいのだろうか?
逆説的だが、お互いの「慣習」から自然に導かれてくる主張を最大限尊重していく。それしかないであろう。

チュリイエルの合理主義的な見解に従えば、危害をめぐる思考が道徳的な判断の基盤に存在するはずであり、ゆえに愛犬を食べるのは間違っていると誰かが答える場合でも、その人はその行動を社会的な慣習の侵犯として扱わねばならないだろう(「私たちは犬を食べたりしない。だが、他国の人々が死んだペットを埋葬せずに食べることを望むのなら、それはそれで私たちが批判すべきことではない」)。対して、シュウィーダーの理論によればチュリエルの見方は、個人主義的かつ世俗的な社会のメンバーには適用できても、それ以外の社会のメンバーには通用しない。

例えば、こんな例を考えてみるといいだろう。私たち、この日本で産まれた人の多くは、お盆には先祖の墓参りを行い、実際に自分が死んだときは、この墓に一緒に埋めてくれ、と思っているのではないか。また、ペットが死んだら、この墓に一緒に埋められないだろうか、と真剣に考えている人もいるのかもしれない。
まして、犬や猫を殺して、夕飯のオカズにする(ペットだけではない。自分の両親から、不慮の事故で死んだ自分の子どもまで)なんて、とんでもない、と思うわけである。
しかし、よく考えてみると、こういった私たちの慣習には、あまり科学的には根拠がないわけである。しかし、ほとんど全ての日本人はそれをやらないし、そうすることが当然だと思っているし、それに反して行動している人を、自分たちとは違った文化圏の人たちと解釈するか、そうでなければ、なんらかの「哲学」的な信念のようなものでやっているのだろう(カニバリズムのような)くらいに解釈して、それ以上は踏み込まない、と。
ここで重要なポイントは、その人をルソーやロールズのように「なんだか知らないけど、どっかからやって来た」個人主義的なコスモポリタンと考える

に、まずは、その人そのものの文脈を考慮して、その人が、どういった慣習の中で生きてきて、どういったモラルの慣習化している人なのか、をまず「前提」とする、ということなのである。
ある社会は、ある自然史的な過程を経て、培われてきた、それによって「(進化論的に)生き残ってきた」慣習の枠をもっている。もちろん、各個人がさまざまな場面において、それに「従う」か「従わない」かの葛藤が実際にあるとしても、いずれにしろ、そういった「枠組み」が、大なり小なり、その社会のその相貌を形成してきた、と言えるわけである。
(それは上記のペットの犬を食べるような社会においてもそうで、そこには、それに「代替」されるような別のルールがあることが考えられる。)
掲題の本の最もおもしろい例は、以下のリベラリスト保守主義者の示す、ある種の

  • 傾向性

の分析にある、と言えるであろう。

見てのとおり、<ケア>と<公正>を示す線(上方の二つの線)は、すべての政治的立場を通じてかなり高い位置を示している。したがって、左右中道を問わず誰もが、善悪の判断には、思いやり、残酷、公正、不正義に対する関心が重要だと答えている。とはいえ、右に行くほどその程度が下がっているのも確かで、保守主義者よりもリベラルのほうが、<ケア>と<公正>の二基盤をわずかながらも重んじていることがわかる。
しかし、<忠誠><権威><神聖>の各基盤については、話はまったく違う。リベラルは、これらをたいてい無視しており、<ケア><公正>基盤との差が相当に大きいので、「リベラルの道徳は二基盤性だ」とさえ言える。これら三つの基盤を表す線は右肩上がりになり、「非常に保守的」と答えた被験者を表す右端では、五つの線が収束している。このように、保守主義者の道徳は五基盤性だと言える。

なぜ、アメリカにおいてブッシュの共和党が支持されたり、日本の自民党で安倍ちゃんが支持されたりするのか。それは、ここによく示されている。リベラルと呼ばれる人たちの特徴は、その

  • 純潔主義

なのだ。つまり、彼らはまるで

  • ロボット

のように感情を感じられないなわけである。冷血非情で、話していても血が通っているように思えない。しかし、実際に彼ら「自身」がそういった側面をどこかに持っているわけである。リベラリストはどこか、人間とは「こうでなければならない」といったようなルールのようなものがあって、そういったものから少しでも外れると「無意味」「無価値」と、相手にしようとしなくなる。
つまり、それが彼らの言うレッテルである「反知性主義」というわけである。
ところが、保守主義者は、むしろ、日本に昔から存在していた大衆の諸感情の機微に、徹底して寄り添おうとするわけである。つまり、そういう意味においては、彼らの方が「感情豊か」で「人間的」な反応が返ってくる。
こういった特徴は、例えば、今期のテレビアニメを幾つか見ていても、非常に特徴的に見受けられる。
アニメ「棺姫のチャイカ」第二期の第五話は、この作品の重要なターニングポイントとな回であったわけであるが、白いチャイカのチームと赤いチャイカのチームは、お互いが今掴まっている軍団から逃れるために「協力」し合うことを

  • 借り(=貸し)

という言葉を何度も使う。しかし、この言葉は、他のアニメにおいても非常に多くの場面で見うけられる。
それは非常に興味深い使われ方だと言えるだろう。一方が相手を助ける、つまり、なんの「要請」もなく、勝手に助けるのだが、それを助けを与える側が、どこか恥かしそうに「貸し」をつくった、と言うわけである。しかし言うまでもなく、なにかの正式な文書が残っているわけでもない。普通に考えたら、一生返されることのない借りだろうけど、とにかくも、あんらかの「贈与」をすることを「そう」呼ばないとはできない、というような、どこか照れ隠しのような構造になっている、と言えるのかもしれない。
アニメ「クロスアンジュ」第六話は、また別の意味で興味深い内容になっている。
主人公のアンジュはミスルギ皇国の第一皇女であったが、この世界はマナと呼ばれている魔法を使える人間だけが「人間」扱いされ、そうでないマナを使えない人間(ノーマと呼ばれる)は無上にも見つけられ次第殺される世界であった。当然、アンジュもそれを固く信じてノーマを虐殺することを使命として生きていたが、ある事件をきっかけに、アンジュ自身がノーマであることが大衆に知られ、アンジュはこの市民社会から隔離された場所にあり、人知られず、外宇宙からあらわれるドラゴンを戦うだけを命令とするアルゼナルという収容所に送られる。
そして、第六話で主題的に扱われるのが、そんな彼女を追って、彼女の収容所まではるばる尋ねてきた、以前のミスルギ皇国時代の侍女をしていた、モモカ・荻目野である。彼女はいろいろとトラブルがありながらも、アンジュが今まで稼いできたお金で彼女を「買う」という手段によって、これからもアンジュの側にいられることになるところで話は終わるわけだが、意外なポイントは、ようするに、回りの視線が

  • 優しい

ということなのである。アンジュに対しては、彼女の高貴な出自を鼻にきせてくる態度に、いつも対立している不良チームも、またはリーダークラスも含めて、どこか、モモカ・荻目野には温情的な視線で見ているように思われる。
モカ・荻目野の半生は、全てをアンジュのために捧げた生涯である。同年代の級友として、一方はアンジュのお世話をすることを「使命」として、他方はそれを当然のように受けとめて。
こういったスタイルは、どこか日本の昔からある丁稚奉公スタイルの人間関係だと言うこともできるであろう。大衆とは「上に立たない人」という意味であり、つまりは、ほとんどの日本人という意味であり、多くの「サラリーマン」は、みんなリーダーの突然訪れる理不尽な態度に悩みながらも、ご奉公する毎日なのである。だからこそ、このような状況におちぶれているアンジュに対してまでも、いつまでもその「奉公」をまっとうしようとする態度が、

  • たとえ仕える先は自分とは違っても

多くの大衆にとっては、感情移入をせずにはいられなくなるような特性が、そのような回りの視線の

  • 優しさ

を結果しているんじゃないか、と思ったんですけどね...。