牧野英二『カントを読む』

カントの三批判書をどのように考えればいいのか、といった問題は結局のところ今にまで続く問題として存在しているように思われる。そうした場合に、私たちの今の世界の「見方」は、ある時期から、ある「変化」があったのではないか、と問うことができるように思われる。

近代のヨーロッパの世界のうちで絵画の技法である遠近法が発達したのは、エルウィン・パノフスキー『<象徴形式>としての遠近法』(一九二四/五年)をはじめ、さまざまな人たちが指摘しているように、近代の主体主義あるいは主観主義のひとつの思想表現
でありました。つまり、人間の自我の自覚、あるいは人間の視覚や視点の重視の思想的表現です。この思想が確立していく過程で、絵画の領域では遠近法が確立されていきました。

第二に注意したいことは、この遠近法は、近代の哲学思想の領域で広げられ、あるいは深められていきますと、この視点といういわば精神の眼というかたちで、哲学的な考察の領域では、個人の身体や特定の立場を超えて、むしろ哲学者の反省の眼差しとして、主観の超越的ないし超越論的な精神や意識の視点や視座を表わす意味に発展していきます。内省や内観、超越論的反省や良心という内なる声の働き、知的直観などが哲学や倫理学の基礎に置かれえてきたのも、このことと不可分の関係にある、と言えましょう。
ところが、ニーチェは、さきほど示唆したように、むしろこうした意味での遠近法の思想に対しては徹底的な批判を加えているのであります。

ニーチェがよく使った「遠近法的倒錯」という言葉は、そもそも、この「遠近法」という言葉が、絵画の世界における、ある「革命」的な手法の変化に関係していたことが理解できるであろう。そしてそれは単に、絵画の世界にとどまる認識ではなかった。その哲学や自然科学における「手法」の変化を上記では、

  • 人間の自我の自覚、あるいは人間の視覚や視点の重視

と呼んでいる。特に後者の「人間の視覚や視点」から

  • あらゆること

を始めるといった、哲学における一種の「主観主義」こそが、決定的にそれ以降の学問を変化させた、と言えるのではないだろうか。
しかし、こういった方法は逆説的であるが、必然的になんらかの普遍的な主張を志向せずにはいられない。なぜか。それは、「あらゆる主張は主観的な形によってしか行えない」という認識が、「なんらかの普遍的な認識は、この主観的な考察の徹底の先にしかありえない」という認識へと向かうからである。
しかし問題は、なぜ「お前」は、正しい認識に到達できるのか、という素朴な疑問なのだ。
つまり、私は「すべてを知らない」のだから、必然的に多くのことを私は知らないためにトンチンカンな結論に至ってしまう、ということが起きうる。
一体、この事態において何が起きているのか。私は一つの「主観」である。つまり、私の世界には私という主観しかいない。ということは、他人とはなんなのだろう。私という主観の側から見たとき、他人も一つの客観でしかない。そういう意味では、自分の主観の中では、他人は「ただ」の「モノ」だ。こう考えると、「自分の主観」を徹底して「守ろう」とする限り、しょせん「客観」でしかない他人を「モノ」という

  • 手段

として「だけ」扱い、自分の出世の手段としてだけ考えるエゴイスティックな態度が想定される。「私という主観」においては、私とは主観としての一種の特権的な場所にあると受けとりがちだ。しかし、カントの道徳的格率において、他者はたんに手段としてでなく目的としても扱わなければならない、という命題が存在する。
そもそもなぜ「私という客観」は、こんなにも多くの言説をつむいでいるのか。それは、なんらかの他者への説得を意識しているからであろう。つまり、そこにはある他者に向かっての

  • アクション

が存在しているわけである。他者は対象であるが、「私が知らないことを知っている」対象であり、私と同じように理性的な応答を返してくる存在である。ここにカントの実践理性についての特徴があらわれている。

カントはやはり『人間学』のエゴイズム批判との関連で「多元主義」について「全世界を自分のうちに包みもっているものとして自分をみなしたり振る舞ったりするのではなく、自分をひとりのたんなる世界市民 Weltburger として考え、また振舞うような考え方のことである」と説明しています。

他者を目的として扱うということの意味は、つまり、自分と他者を、まるで

  • 同じ「対象」

であるかのように扱うことを可能にするような、なんらかの客観的な視点であり「モデル」を、自らの主観的な視点に対応して「複眼」的に持つ、ということを意味するであろう。「私という主観」からは他者はたんに「対象」としてしか現れないのでありながら、まるで自分を、そういった「対象」と

  • 同じ

であるかのように扱う「モデル」を考える、ということである。こういった態度がカントの言う道徳格率によって要請されている、と考えるわけである。「多元主義」とか「多様性」と呼ばれていることとは、言わば、こういった態度であり

  • 方法

のことであると解釈できるであろう。
ニーチェの批判は、この遠近法の必然的な「倒錯」に対して、再度、批判の矛先を向けるものだった、と考えられるであろう。
例えば、ポパーの合理主義が、多分にカントの「理性」を意識していたものだったことが分かるわけだが、これに対して、アーペルは分析哲学における「言語論的転回」を意識して、以下のように批判する。

しかし、このポパーの見解は、アーペルからみるかぎり、非合理主義を擁護するといいう議論自身が合理的な議論とそれと不可分なゲーム規則を前提するかぎり、言語行為によって議論を拒否するという自己矛盾、遂行論的矛盾を犯していることになるわけです。結局のところ、こうしたポパーの批判的合理主義は、合理的な態度を受け入れようとしないひとに対しては、どのような合理的な論証も合理的な影響力も及ぼすことができないのですから、「合理主義者の枠」に入らないひとびとには無力となってしまうのです。そしてどのような選択を行なうべきかという決断に際しては、「合理的選択」も「非合理的選択」もともに原理的に優位性を主張できないのですから、「非合理的な決断」によって批判的合理主義者の方途を選択せざるをえないわけです。批判的合理主義者は、個人の非合理的な決断主義に陥らざるをえないのです。この点で、かつてカントが陥ったのと同様に、方法的独我論という虚偽になおとらえられている、という事態が指摘されてきました。

一体、どんな言説が「合理的」なのか。そもそもそれを、「テキスト」そのものから分割できるようなものなのだろうか。
ある言説は、それを「言っている」人にとっての「文脈」において始めて意味のあるものだと考えられる。その場合に、どうやってその言説の批判は成立しうるのだろうか。ここにはそれを「言っている」人に対する徹底した「従属」が想定されなければならない。そういう意味では、近年話題の「反知性主義」という命題が、どこかエリートによる大衆の専門知の非所有という、ある種の

  • 討議空間への免罪符

をもたない者たちへの「差別感情」を表明していただけなのではないか、と受けとれるわけである。
ここにある問題とは何だろうか?
それは、いわゆる「リベラリズムパラドックス」というものに似ている印象を受ける。一見、人権派の人ほど、他人の人格的な弱さに手厳しく「非人間的」な印象を大衆に与える。リベラリズムの系譜、ルソー、カント、ニーチェ、ジョン・ロールズリチャード・ローティと考えてきたとき、彼らの言う「寛容」さ。人々の多様性への「優しさ」は、一見すると確かに

  • 他者が多様であることを認めている

と言うことができながら、他方においては、本当に彼らは他者を認めているのか、という点においては、はなはだ疑問なのだ。

むしろ意外なのは、現代のアメリカを代表する哲学者であり、「プラグマティズム的転回」の立場を強力に推進してきたローティの「可謬主義」に対する評価であります。ローティは、アメリカのプラグマティズムの影響下にありながら、その思想的特徴である「可謬主義」に対しては否定的であります。つまり、ローティは文化多元主義の立場を採用する点で、多元主義的見解をもつにもかかわらず、「可謬主義」を斥けるのであります。

「寛容のパラドックス」は、これらすべてに関わりがありますが、特に道徳的に悪を行なうひと、法的に不正を犯すひとに対する寛容さは、どこまで「寛容な精神」であると言ってよいのでしょうか。これが問題となります。道徳的に悪意あることや法的に不正を犯すことに対する「寛容な態度」は、道徳性や法の正義を否定することにならないでのでしょうか。道徳法則や倫理的価値観、法的規範などが普遍的であることを要求すればするほど、それらを否定し拒絶する人たちに対して、不寛容な態度を要求することにならざるをえないのではないでしょうか。逆に、このような行為や態度に対して「寛容」であればあるほど、道徳的な悪や法的な不正を容認する結果となり、むしろ本来「寛容な態度」を示す人たちの存在や価値観・倫理観などを否定する事態を招くことにならないのでしょうか。
この問題は、寛容とはなにか、寛容の対象領域と妥当する範囲はどこまで及ぶのか、寛容の論理ないし原理と寛容の生理ないし感性との関係はどのようにあるべきか、「寛容」に対する合意は成り立ちうるのか、といういわば「寛容理性批判」の営みが求められている、と言えましょう。ところがローティに関しては、彼の「寛容の原理」は、その内実はしばしば指摘されるように厳密な意味での寛容というよりも、ある種の「無関心」に近い態度であるように思われます。日本で生活している人間には、「人は人、自分は自分」という他者に対する無関心な態度が「寛容な態度」であると受け取られがちです。この点ではローティの見解は、こうした人たちには受け入れやすい耳触りのよいものでありましょう。しかし、このような無関心な態度は、他者に対する抑圧や排除の論理を多くの場合、無自覚のうちに生み出しています。しかしローティは、『偶然性・アイロニー・連帯』(一九八九年)などで、他者に対して屈辱を与える「残酷さ」に対する感性を拡張することによって「人間の連帯」をめざしている点で、両者の態度は異質である、とみるのが公平な評価でありましょう。

リベラリストは本当に「優しい」のだろうか? リベラリストは単に自分が「許せる」範囲に相手が留まっている限り、

  • なにも言わない(=無関心であるかのように振る舞ってやる)

という「行儀の良さ」を、まるで学校の授業の一科目のように、たんたんと「こなしている」ことを意味しているだけなのではないか。つまり、自分は「良い子」だと言っているだけなのではないか。
ここで問われているのは、自分が他者について、ほとんどなにも知らないという今の状態における、倫理的な態度とは何か、ということなのであろう。

後期のウィトゲンシュタインが提示した例で言えば、「私は歯が痛い」という言明は意味のある表現ですが、「彼は歯が痛い」という言明は無意味な言明になります。彼の歯の痛みそのものは、言明する私の感覚ではなく、したがって私が彼の代わりに彼の歯の痛みを感じることも、そのように言明することもできないからです。他者の痛みだけでなく、他者の苦しみや死などを他者に代わって体験することや共有することは不可能でありましょう。

ローティの言う「寛容」が、人々が受ける屈辱の「残酷さ」への抵抗として構想されていることは、上記の「無関心」と本当に無関係なのだろうか。なぜ「残酷さ」がなんなのかをローティは理解できると言っているのだろうか。実際に、ローティにおいてリベラル・ユートピアの構想と彼のアメリカン・プラグマティズムは深く関連している。
つまり、ローティの言うリベラリズムは「ゲーテッド・コミュニティ」のリベラリズムの臭いがするわけである。寛容が「無関心」と言い換えられるとき、その無関心が

  • 他者に対する抑圧や排除の論理を多くの場合、無自覚のうちに生み出して

いる、というわけであろう。つまり、知らないから「無自覚」によって、差別主義者に「なれる」わけだ。
だとするなら、ここで言う「人々が受ける屈辱の残酷さ」に対抗し連帯を実現していく、具体的な「方法」が構想されることこそ、非常に重要だ、ということを意味しているのではないか。
上記でも引用させてもらったが、リチャード・ローティを考えるとき、「ローティは、アメリカのプラグマティズムの影響下にありながら、その思想的特徴である「可謬主義」に対しては否定的であります」というポイントが決定的なのではないか、と思っている。そういう意味では、この特徴はローティ主義者であり、ローティに影響を受けて考えている人たちに共通した特徴なのではないか、と思っている。
つまり、このことは何を言いたいのかというと、ローティは、こういう意味においては「多元主義」ではない、ということなのではないか、と思っているわけである。つまり、リベラル・ユートピアは少しもユートピアではない。今あるこの現状において、自らの主唱する「人々が受ける屈辱の残酷さへの抵抗」というスローガン「だけ」で、政治を主導できる(=アメリカ政治は統一できる)というところにポイントがあるのではないか。つまり、これは一種の宗教運動なわけである。アメリカ国民一人一人の信仰宗教の「上位」に、アメリカ統合のシンボルとしての「人々が受ける屈辱の残酷さへの抵抗」だけで、アメリカ国民は統合できる、という主張だと考えられるわけである。
こういう意味において、ローティはどこかエリート主義的だ。つまり、大衆に寄り添うという姿勢が感じられない。というか、彼には大衆と対等の立場で会話をする、というモチベーションがそもそもない、という印象を受ける。
そう考えたとき、以下のようなハンナ・アーレントによるカント解釈は、非常に興味深い印象を受けるわけである。

まず本講義のねらいを浮き彫りにするために、アーレントのカント解釈の主要な特徴を確認する作業から開始したいと思います。第一の特徴としては、アーレントがカントの広義の理性批判の営みを古代ギリシアの哲学者、ソクラテスの思索と重ねあわせている点が指摘できます。カントの三批判書にみられる批判的思考は、「ソクラテスの流儀」に沿ったものである、という事実にアーレントは着目しています。つまり、カントの批判的な思考が偏見や吟味されていない意見や信念を通過して、思想の道を切り開くことであり、ソクラテスもカントもともに、論争の相手から根拠のない信念や空想、思い込みなどを取り除く方法を採用している、とアーレントは理解しています。第二の特徴は、こうしたソクラテスが開拓し実践した思考のプロセスは、論争相手との議論によって公共的な空間を切り開く性格をもつことをアーレントが明らかにした点を指摘できます。カントも模範とした批判的議論は、公共性の場を獲得することを可能にしたのです。第三に、アーレントソクラテスが学派を形成しないで、市場に登場するすべての人間を論争相手にした点にも、カントとの関連を読み取っています。第四に、このこととも関係するのですが、アーレントは批判的思考が反権威主義的であることを洞察しており、この批判的思考の技術がつねに政治的含意をもつことを明らかにしています。

カントの構想する「多元主義」は、そもそも私たちが他者を知らない、という前提から始まる。そうした場合に、他者が私たちから受けとることになる

  • 理不尽な要求

に対しての「抗議」に対して、どのように対応することが倫理的なのかに関係している。なぜ彼ら他者は「抵抗」してくるのか。それは彼らが私たちの行動に不満だからであろう。つまり、ここで問題にされているのは、私たちが彼ら他者の「事情」から導かれる、彼らが「理不尽」と感じることになる「論理的必然性」をうまく考慮に入れることなく行動してしまっていることに関係している。
こうした場合、どのように対応することが倫理的であろうか。言うまでもないであろう。まずは、

  • 相手の言い分を聞く

ことしかありえない。相手の事情を理解しようと努めることで、相手にこちらが相手の事情を少しずつでも理解を始めている、という状態にしていくことしかありえない。多くの人が勘違いしているのは「何が正しいのか」ではない、ということである。ここで問題になっているのは

  • その人

が「理不尽」だと感じていることに「抵抗」しているという事実なのだ。むしろ、ここで大事なのは抵抗してきている「その人」にとっての「納得感」だということなのだ。
こういった態度が、一種の「保守主義」的な姿勢だとも言うことができるだろう。
アーレントがカントに、ソクラテスの再現を見るとき、重要なポイントは、ソクラテスが論争相手の「納得感」を重要視していたことにある、と言えるだろう。そういう意味において、ソクラテスは徹底した多元主義者であった、とも言えるだろう...。

カントを読む――ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波人文書セレクション)

カントを読む――ポストモダニズム以降の批判哲学 (岩波人文書セレクション)