市民宗教?

安倍政権のほとんどの閣僚が、日本会議に所属していることから、「日本会議クーデター」内閣と呼んでみたわけだが、私によく分からないのは、政教分離はどうなっているのか、ということであった。政教分離は、日本の憲法で「禁止」されているのであって、そういった中で、ここまで露骨に日本会議という、日本の神道系の団体と露骨に、「ねんごろ」になっている今の状態はなんなんだろう、と考えさせられてしまう。
しかし、そのように考えてみると、私には、ある「疑い」がもちあがってくる。つまり、安倍政権が主張していた「憲法改正」が、本当は何がしたかったのか、ということなのだ。巷では、9条改憲がターゲットだったと言われている。ところが、自衛隊の海外派兵については、悪名高い「解釈改憲」なるもので、強行しようとしている。もちろん、こんなもの、うまくいくはずがないと私は思っているが、いずれにしろ、今の政権はこれで「十分」と考えている、ということなのであろう。
だとするなら、「憲法改正」は

  • 何をするのか

という疑問が尽きないわけである。私は、もしかしたら「政教分離」を変えたいんじゃないかな、という疑問がぬぐえない。そういう意味では、現政権は、正面から、近代人権思想と対決しようとしているんじゃないのか、という印象さえ受ける。
しかし、そんなふうに考えるなら、現政権は公明党との連立政権であり、これから、さまざまな新興宗教が国会に議員を送りこもうとしてくるんじゃないのか、と考えたとき、この問題はなんらかのアジェンダになる可能性はあるんじゃないのか、という印象も受ける。
政教分離は、およそ、近代国家と呼ばれうる国家は、どこでも受け入れてきた概念だと言えるだろう。しかし、明治革命政権において作られた明治憲法では、むしろ、「天皇宗教」という形で、日本は戦前においては「宗教国家」だったと言えるだろう。これが変わったのは、アメリ進駐軍との間で作られた、戦後憲法からであった。こういった意味において、日本はもう一度、宗教国家を目指すのか、というふうに論点を整理できる。
安倍首相の、「日本は侵略戦争ではなかった」によって、サンフランシスコ条約「体制」の正当性を真っ向から「否定」する妄言によって、安倍首相は、完全に世界からハブにされた。アメリカの大統領も中国の主席も、みんな安倍首相と「仲良く」しているところを、絶対に見られないように、会わないし、会っても「嫌な顔」をして、露骨に不快感を示してでしか、近くにいない。近くにいても、一刻も早くその場を立ち去ろうとする。食事会のレセプションがあっても、だれも、安倍首相の近くに寄ってこない。安倍首相は、とうとう、一人ぽつんと手酌で水を飲んでいた、というわけであるw
しかし、これは今の世界の政治体制がこの「サンフランシスコ講話条約」体制から始まっているのであり、その「正当性」から始まっているということを、じゅうじゅう理解しているからであろう。安倍さんのおじいちゃんである岸信介は、まさに、この「サンフランシスコ講話条約」のフレームにおいて

  • 戦犯側

の存在なのであって、彼の心情としては、祖先を誇りに思いたいというところから始まっているのだろうが、しかし、こうまで彼が露骨にその「心情」をたれ流すなら、ちょっとマジ引くレベル、ということになるのであろう orz。

ヘーゲルは、ルソーの一般意志では(つまり、無限の利益追求を承認された市民社会の市民の総意においては)そうした犠牲的選択は不可能であると見抜いて、市民社会の国家への止揚を説いた。実は現在でもなお、ルソーの一般意志は「否定性」を欠いているというヘーゲルの批判は有効性をもっている。つまり、現代人はその選択において、自己否定的に「自分たちに都合の悪いこと」を選択することができないでいる。

ルソーの一般意志に対して、ヘーゲルがそこに「否定性がない」と言うとき、それは現代政治の隘路として読むことができる。私たちはだれも、税金を払いたくない。できれば、少なければ少ないほうがいい。これが「一般意志」である。自分たちの生活の安楽だけが関心だ。おその国で、だれが飢えていようが興味がない。地球の気候変動がいくら悪化しているからといったって、今の生活水準を下げたくない。ルソーの「一般意志」は、結局、こういった国民からもたらされる「一般意志」を実現するしかないし、そもそも、こういったものに「対抗」してくる

  • 契機

をもっていない。
ヘーゲルにとって、この問題は決して避けて通れる問題ではなかった。しかし、それに対する彼の回答が、個人に対する国家の優位、という、到底、今の私たちが認められられないような解決策だったからこそ、こんなに今の私たちは困っているわけであろう。
こうやって考えてきたとき、そもそもルソーの「社会契約論」が、非常に奇妙な論理によって描かれていたことを思い出す必要がある。人びとは、ルソーは「一般意志」によって、社会契約が成立する、と考えている。そしてそこから、「民主主義不要論」のような、疑似独裁(=エリート主義)さえ主張される。
しかし、ルソーはそれは「不可能」だと言っているわけである。そもそも、自らがここまで描いてきた「一般意志」による社会契約は「うまくいかない」と言っているわけである。そこで、苦肉の策として彼は、

  • 市民宗教

なる「奇妙」な概念をもってくる。つまり、ルソーの社会契約は、一般意志と市民宗教の、二本建てになっている、ということなのだ。
さて。市民宗教とは、なんだろうか(嗤
そうである。これは、市民社会が、それ「自体」を成立させ続けるために、なんらかの意味において、存在させないわけにはいかない、と彼が考える、

  • 疑似宗教

なのだ。彼は半分、やけのやんぱちで、自嘲ぎみに、「宗教ではない宗教」に頼らなければならないこの状況に、ふてくされてみながら、けっこう「マジ」で、こんなものでもなければ、国家なんてうまくいかねーよなー、と、皮肉ってみせているわけである。
うーん。
これを私たちは、どう考えればいいのだろうか?

和辻によると、日本人は日本人の心でもって仏教を受容した。では、日本人および日本人の心とはいなるものか。それは、和辻によると、『古事記』に現われている現世を天真爛漫に楽しむ「自然児」としての日本人であり、その心であった。しかし、まさしくそうであるがゆえに、上代の日本人は現代人以上に、理不尽に忍び寄ってくる「死」の陰に異常なくらい怯え、おののき、不安と頼りなさのなかで生きていた。
ヘーゲルから考える私たちの居場所

さて。太古の日本人。日本縄文人はどんなふうに生きていたのであろうか。和辻哲郎は、それを現世を

  • 天真爛漫に楽しむ

「自然児」と定義する。それは、まさに「古事記」が描いているような、「素朴なアニミズム」を意味していると言えるだろう。しかし、その感情が強ければ強いほど、その「反対」の引力に抑鬱とする。つまり、「死」の厳然として現れる姿への、

  • 恐怖

から逃げられなくなる。そういった彼らにとって、飛鳥時代に受容することになる仏教が、この日本の地に根付いていったことは、なにか必然的な意味があったのであろう。

二〇一三年四月には父を、五月には母を亡くした。悲しみは形を与えられないほど茫漠としていて、捕まえることができないほど深かった。「ああすればよかった」「こうしておくべきだった」とか、さまざまな後悔が頭をよぎった。しかし、初七日を終え、四十九日の法要を済ませ、初盆のいろいろな行事をこなしていく中で、捕まえることのできなかった悲しみが整理され、形を得て、心の中にしまいこまれていった。悲しみは悲しみの場所に収まった。私はこういうものとしての宗教を考えている。祖父の時も、祖母の時も、そして義父の時も、義母の時もそうだった。段取りの決まった儀式は悲しみを鎮めセレモニーである。つまり、私はいつでもジッテとしての宗教を宗教として認めている。そこでは信仰はあまり問題にならない。あると言えばあり、ないと言えばない。私たちの信仰とはそういうものである。
ヘーゲルから考える私たちの居場所

しかし、どんな高尚な教義を築いている宗教も、日常生活の中で死の悲しみを鎮める機能をもっていなければ、一人ひとりの人間の心の中に入っていけないのではなかろうか。私が考える「習俗としての宗教」はそのような機能をもつものである。従って、私は「葬式仏教」を決して否定しない。このような宗教は、ヘーゲルが考える国家の相補的同伴者としての世界宗教とはまったく異なっているように見えるかもしれない。しかし、世界宗教といえども、「習俗」(日常を生きる生き方)として現れ出る力をもっていなければ存在することもできないのである。
ヘーゲルから考える私たちの居場所

ルソーの市民宗教とは、通俗的に言うなら、「葬式仏教」のようなものを言っているのである。もちろん、私たちが「葬式仏教」と言うとき、どこか自嘲気味に言っているところがある。本当は、こんなの仏教じゃねーだろ、と馬鹿にしている。しかし、逆説的だが、こういった側面をもたない宗教は、宗教としての性質を維持できない、というわけなのである。
例えば、ルソーの言う「一般意志」は、

  • 現世を天真爛漫に楽しむ「自然児」

の姿だと言えるだろう。しかし、そういった彼らも、「死」にまつわる「習俗」としての慣習を、もう一つの「合わせ鏡」としてもっていなければ、人間ではない。つまり、こちらの側面の人間の姿を、私たちはまだ、うまく言語化できていない、ということなのであろう...。