他者の<不透過>論

私が3・11以降の原発の議論を聞いていて、特に、違和感を覚えたのは、ようするに、今だに一度たりとも、「製造物責任」といったような議論があらわれないことではないか、と思っている。
一体、原発を作ったのは誰なのか。人に迷惑をかけるものを作っておいて、どうして、それを作った人が誰からも文句を言わていないのか。
例えば、文系の連中が「原発の文明論的な意味」について論じたり、物理学者が福島の低線量被爆の被害想定を見積ったり、社会学者が反原発文化人の人間性を愚弄している、といったことを

  • 無邪気

に話している姿を見るたびに、

  • ああ。この人たちは、そもそも「工学系の<技術者>的マインド」が決定的に欠けているんだろうな

と思ったわけである。
最近も、自動車のエアバッグでリコールされている企業があったり、例えば、商品購入において、クーリングオフが当たり前になったりで、そもそも、なにか「モノ」を提供するようなビジネスが、どういった「リスク」と向き合うものであるのかは、そういった毎日を生きて働いている人たちには、あまりに自明な感覚のように思われる。
つまり、こういった<技術者>マインドから考えたとき、原発は「あまりにも、意味不明な非資本主義的<例外> 物」であることが分かってくるたびに、

  • 怖くて

まともに相手をしていられない、という感覚に襲われるというのが「普通の技術者的な感覚」だということなわけである。
原発は、その被害の甚大さが怖いのではなく、

  • あらゆることが「例外」になっている「モンスター」

だから怖い、と言っているのだが、どうもこういった「技術者」的なマインドを、そもそも内包していない人にとっては、こういった感覚から思考が始まってない、というところに、こういった人のセンスに強烈な違和感を感じるのであろう(まあ、簡単に言ってしまえば、エア御用的なセンスというところなのでしょうけど、そういった認知的不協和を確信犯的に行われたら、だれも文句が言えませんからね orz)。
まず、原発は、どんな事故が起こっても、それを作った人の責任は一切問われない。つまり、どんなに手抜きが存在していて、どんなに被害が拡大しても「いい」という商品なのだ。
また、原発においては、さまざまな側面から、会計上の「例外扱い」がされていることが知られている。つまりは、まったくの、資本主義の「ルール」の外に置かれている、治外法権の機械であるわけである。
では、なぜこのような、国家の信頼を損ねかねないような、「非資本主義」的要素を内包せざるえをえないまでのものを、このように、近代国家は、内包せざるをえなかったのか。
つまりは、それらの「問題」を超えてでも、あまりある「利点」が(その発電によってもたらされるエネルギーに)、きっと存在しているのだ、と思われてきた、というところにあるとしか言えないだろう。
そもそも、人間が作る「モノ」に、製造者責任が発生しないものはありえない。原発にしたって、それがないなどというレトリックが通用するはずがない。ということはどういうことか。つまり、今の社会においては、それを「代替」するシステムが、きっとあるはずだ、と考えられている、ということなのである。
それは何か。まあ、「政策決定システム」のことを言っている、ということが分かるであろう。つまり、政治である。
つまり、はっきりと、ぶっちゃけてしまえば、政治はちゃんと、原発の運転の開始や停止を「まとも」に判断して、少しでも問題があれば、運転を停止するし、あまりにもダメだと思えば、ちゃんと

にする、と「なっている」と考えたから、このようになっている、と考えたわけであろう。ところがどうであろう。自民党は前の選挙での公約で「嘘」をつき、今では、原発は重要なベースロード電源だそうである。もしも政治が、福島第一の今の悲惨な状況を見てもなお、「止められない」というなら、一体、だれなら、上記のような原発のリスクをとれるのでしょうかね。
私には、よく分からないわけである。
とうして、この議論は、一部の文系知識人や一部の理論科学のような、「非技術者」的なマインドの人たちに、なかなか理解されないのだろうか。
このことを、ここのところ、このブログで何度も強調している「他者の不透過」論で整理してみよう。

  • 関心&関係(but、不透過):人A --> 人B

人は本質的な意味において、他者のことが分からない。というのは、一般的に世の中には自分の知らないことがある、といったような豆知識的な「知識一般」のことを言っているのではなく、人Aの主観は人Bの主観「ではない」ことから、まるで、人Aが人Bの主観を「トレース」できるかのように考えることは間違っている、という単純な事実を言っている。つまり、人Aは人Bの文脈の「中」で語ることができない。人Bには、その人独自の「文脈」があるのであって、このことを考慮するなら、それは

  • 本人によって語られる

形になっていない限り、正当性を調達できない、というソクラテス的問題を言っているわけである。
人Aから見て、人Bは不透過である。そして、このマイナー・バージョンとして、以下がある。

  • 製造:人B --> モノC
  • 関心&関係(but、不透過):人A --> モノC

モノCは人Bが作ったものである。そして、人AはモノCを買った、と考えていい。この場合、問題はモノCの幾つかの特徴に人Aが満足しなかったときなのである。
人Aは、本質的な意味で、モノCを知らない。しかし、それでいいわけである。人Aが求めているのは、モノCが自分にもたらすことになる、ある一面的な性質だけであるから。ではこの場合、モノCを本質的に知っているということになるのは、誰か。言うまでもなく、「中の人」である、人Bである。モノCは人Bが作ったわけで、そこには、人BとモノCの関係が存在している。人Bは、なんらかの「意図」のもと、モノCと関係しているわけで、

  • それ

が人Aからは「不透過」だと言っているわけである。
この場合を、私たちはどのように考えればいいのであろうか。
もしも、この世界が一切の法律もない、アナーキーな世界であるなら、この「交換」によって、バッチモンを掴まされたと、人Aは「あきらめる」ことになるのかもしれない。しかし、現代社会のような「契約社会」においては、三つの側面から、こういった場合に、「消費者保護」のルールが働くと考えられる。

  • クーリングオフ制度など、より「一般的」なルールが存在するなら、まずそれが「直接」に作用してくる。
  • そうでない場合でも、いわゆる「訴訟」といった、司法のシステムを使って、その「一般的」ルールの解釈の適用から始める、という形がありうる。
  • さらに具体的になってくると、そもそも、この商品Cの購入の際に行わた「売買契約」に基づいて、直接、人Aが人Bと「交渉」をする、というケースも考えられる。

最後のパターンが、一般的に、消費者による「クレーム行為」と呼ばれているもので、この解釈において、

  • 正当なクレーム行為
  • 悪質な、いわゆる「クレーマー

といった分類がなされたりする。なぜ最後の場合が問題になっているのかというと、もしも、最後のケースを拡張していくと(つまり、法的に「規制」をしていくと)、人的資源のない弱小企業では、対応できない、ということになるからであろう。つまり、クレーム処理作業に、日々のほとんどを費さなければならなくなれば、なにもできないことになり、倒産するから、というわけである。
しかし、むしろ、こういったケースが多くの場合にそれほど問題になっていない理由を考えるべきではないだろうか。多くの商品は、ほとんどが大手の製造会社から「発売」されている。そのクレジットを見ると、「個人名」になっているにもかかわらず。それは、こういった「トラブル」に対処するための、一つの知恵として行われてきたのではないか、とも考えられるであろう。
逆説的であるが、中小の弱小企業だから、「クレーマー対応ができない」

  • だから

クレーム行為は「悪意」があり、クレーム行為を許さないように「法的に規制すべき」というのは、本末転倒だということになるであろう(原発再稼動反対は「クレーマー」であろうかw)。
人Aにとって問題は、モノCが「どうしてこうなっているのか」ということが<不透過>だからであった。つまり、これを「わかれ」と言うのは、どだい無理だということである。だとするなら、「このこと」を考えるべき社会的責任を与えられうるのは、製造者である人Bしかいないわけである。
人Bは、さまざまな「法的」枠組みを意識して、モノCを作る段階で、さまざまな「これを購入する人において想定されうるトラブル」を回避するための対処を行っていく。その一つに言うまでもなく、バグを除去するためのテスト作業もある。
ところが、この世界に一つだけ例外がある。「原発」である。これだけは、3・11のようなことが起きても「いい」というわけである! いやはや...。
アニメ「SHIROBAKO」は、アニメーション制作会社のリアルな実像を描こうとしているのかな、と思ったわけであるが、その姿においては、他の分野における、いわゆる「ものつくり」関係の会社ととても似ている印象を受けた。
作品を見て、まず目につくのが、高梨太郎という若手の制作進行の「無責任っぷり」であろう。特に問題なのは、さまざまな現場のミスを、なかなか上司にアラートしない姿ではないだろうか。
しかし、ここで注意がいるのは、単純にこういった性格の人がこういった現場に向いていないかどうかとかを考えることはできないわけである。なんだかんだいって、長く関わることになるのかもしれない。そういった関係は、例えば、第6話における、明らかな高梨の被害者の遠藤亮介というアニメーターと、みんなでイデポンという過去のアニメの展示会を見に行く場面であろう。ここで、遠藤は初心に返り、再度作品制作への意欲をもち直すわけであるが、しかしその過程において、高梨はまったく、これっぽっちの微塵も反省している姿が描かれることはない。つまり、それだけ各作業は「独立」している側面がある、ということなのであろう。
さて、第8話は、新人アニメーターの安原絵麻(やすはらえま)が挫折から立ち直る回であるが、そのきっかけは、井口祐末というアニメーターであり総作画監督補によってさそわれた「散歩」であった。しかし、この回の描き方は少し奇妙な印象を与える。というのは、この回の描写は、一方でこの安原の新人アニメーターの挫折と「あがき」の描写でありながら、他方において同時並行で描かれているのが、主人公の宮森あおいの姉である、観光で上京してきた、宮森かおりの姿だったわけである。
こういった描写は、第4話で描かれた、坂木しずかという声優希望でオーディションを受けながら、居酒屋でアルバイトをしている彼女が、主人公たちとの同級生での呑み会において、いつもは見られないような酔いっぷりを描く場面との同型性を示している。
宮森かおりは、地元の企業で働きながら、さまざまなストレスを抱え、今回の妹のところへの訪問は一種の観光をかねた、ストレス発散として描かれている。
安原の挫折は、それが「乗り越えられた」ことに意味があるわけではない。実際、それは乗り越えられた(つまり、彼女にはそれだけの能力がある)というところにポイントがあるのではなく、

  • 散歩で気晴らしをした

という、端的に、そのことの方に意味の比重が大きい、ということなのではないか。坂木しずかにしても、宮森かおりにしても、まあ、安原絵麻にしても、今、この目の前で起きていることに、さまざまなストレスを抱えている。うまくいっていない、という自覚がある。しかし、だからといって、完全に放り出すところまではいっていない。その中間において、ふらふらと浮んでいる、ということなのであろう。
そして多くの場合、こういったフラフラとした評価の中を彷徨う姿の方が「普通」だということなのである。どうして、こういうことになるのか。それを、上記で考察した、他者の非対称性において考えることもできるのかもしれない。私たちは「主観」的存在である。私たちが何かを始めるとき、そこに「自己イメージ」を投げ入れる。私たちがなぜ行動できるのかは、その自己イメージという「見積り」が比較的に受け入れ可能に思えたから、ということになる。
しかし、リアルワールドに投げ入れられた、その自己イメージは、まさに「事件」であり「ニュース」として、まったく想定していないトラブルに巻き込まれる。つまり、うまくいかない。しかし、単純にそうとも言えない。それなりに、その中間の評価の間を彷徨う。こういったことに悩んでいない人はいないというくらいに、ほとんどの人はこの中間で「選択」し「行動」している、ということなのであろう...。