クリストファー・ボーム『モラルの起源』

映画「悪の教典」を映画館に見に行ったとき、特に若い、高校生くらいの男女を問わず、非常に多くが見に来ていたことに私は、意外な印象を受けたことを覚えている。もちろん、それなりの「噂」が学校内にあってそういうことになったのであろうが、そのことは、この映画監督が言うような「閉塞した時代の空気を突き破る新しい時代のヒーロー」だと思ったからでも、その終盤で行われる高校生クラスの

  • 全員

がハスミンによって、猟銃でぶち殺される場面を見て、「スカッ」としたからでもなく、

  • 作品の最後で、これだけのことを行っておきながら、まるで「無実」の被疑者のように、警察に冤罪を主張している

その姿に、人間の本質のようなものを見たからではないか、と思っている。
そういう意味において、この映画はよくできた「人間教育」のドラマだと言えるのかもしれない。こういった存在を近年では「サイコパス」と言うそうであるが、よく世の中を見渡してみると、けっこうこれに似たような「鬼畜」なことを平気で口走る人というのは、いるものである。その様子に周りが気味悪がっているというのに、本人は、なにか含蓄のある「いいこと」を言ったかのように悦に入って、周りがドンビキしているというよく見る光景である。
しかし、だとするなら、そういった場合に私たちが想起する「モラル」とは、どういった性質のものであるのかが、反語的に突きつけられていることを自覚する必要があるであろう。

このようなピグミーの狩りと分配では、使命を受けて公正に肉を分配する者を必要としない。獲物が中型から小型で、また網は十分に長いので、だれもが必ず同じぐらいの量の肉を得られるはずだからだ。しかし、そう言えるのは、だれもがいかさまをしないかぎりにおいてである。その網の狩りをしているときに、エゴイスティックなセフーはこっそりずるをすることにした。逃げる動物をやみくもに走ってほかの男たちの網に飛び込み、槍で突かれているあいだに、自分の網にかかる確率を上げることにしたのだ。彼は、だれも見ていないと思うや、密林のなかで自分の網をほかのだれのものよりずっと前になるように置きなおし、追い立てられた動物が最初に自分の網に飛び込むようにした。その結果、セフーの網にはずいぶんたくさんの獲物がかかったが、このいかさまはあいにく見つかってしまった。
コリン・ターンブルは狩りに随行していたが、セフーの犯した罪には気づいていなかった。セフーもまた、自分の卑怯な行為が見られていたことに気づいていなかったようだが。大半の家族がキャンプへ戻っていたとき、ターンブルはとても重い空気が漂い、男も女もまだ着ていないセフーを小声で罵っているのに気づいた。だれも何が起きたのかをターンブルに語ろうとしなかったが、ついにひとりの大人の男、ケンゲがグループ全員に向かってこう言った。「セフーは能なしで老いぼれえた馬鹿野郎だ。いや違う。能なしで老いぼれた獣だ。俺たちは長いことずっとあいつを人間として扱ってきたが、もう獣として扱わないといかん。獣だ!」
この言葉をきっかけに本格的なうわさ話が始まり、真相が注意深く調べ上げられてグループの合意がまとまった。ケンゲの長広舌によって、だれもが気を落ち着かせてセフーをやや冷静に批判しだしたが、今度はセフーのおこないのすべてが批判の対象となった。いつも皆と離れた場所にキャンプを張ること、彼がそれを離れたキャンプと呼んでさえいること、親類を虐待し、全般的に嘘つきで、キャンプが汚ないことのほか、個人的な性癖までもが。
ちょうどそのときお、セフーが狩りから戻ってきた。彼が自分の小屋のところで立ち止まったとき、ケンゲがセフーに「おまえは獣だ!」 と叫んだ。セフーは、皆のキャンプのほうへ歩いてくると、平然としていようとした。

あまり足早にならないように歩きながら、そでいて、あまりわざとのろのろ歩くのもためらわれたせいで、彼はぎこちない足取りでやってきた。セフーほど芝居のうまい男にしては意外だった。彼がクマリモ[会合場所の呼び名]まで来たころには、だれもが自分に集中するように何かをしていた。火のなかや木の梢をじっと見ていたり、料理用のバナナを焼いたり、煙草を吸ったり、矢柄を削ったりしていたのだ。エキアンガとマニャリボだけはいらいらしているようだったが、何も言いはしなかった。セフーがグループの輪へ入ってきても、だれも口を開かなかった。彼は椅子に腰掛けている若者のところへやってきた。いつもなら、わざわざ頼まずとも椅子を譲ってもらえたところだが、今はあえて彼から頼みもせず、若者も懸命に無関心な態度を装って椅子に座りつづけた。それからセフーアマボスの腰掛けている椅子のほうへ向かった。アマボスが彼を無視すると、セフーはその椅子を激しく揺すったが、そんな彼にこんな言葉が投げつけられた。「獣は地べたに寝ろ」

続いてセフーは、ほかのメンバーから受けている助けに比べ、返しているものが少ないと言われ、弁解しようとした。そのとき、別の大人の男エキアンガが、ここにいつ皆は何があったか知っていると暴露した。「エキアンガは、すっと立ち上がると、毛深い拳を火の上で振りかざした。セフーは獣同然なのだから俺の槍でやられて死んでしまえ、と彼は言った。獣でなければ人から肉を盗むはずがない。一同から怒りの声が上がり、セフーはわっと泣きだした」
この行為はセフーを強く辱めるものだったし、ターンブルはセフーの逸脱行為が尋常ではなかったと述べている。「このようなことが前にあったとは聞いたことがなく、明らかに重大な犯罪だった。少人数で結びつきの強い狩猟集団では、このうえなく緊密な協力と、その日獲れたものをだれもが一部もらえることを保証する互恵的な義務の制度がなければ生き延びられない。日によってもらえるものが多い人と少ない人はいても、何ももらえない人はいない。獲物の分け方をぐってしばしば激しい口論はあっても、それは予想できる程度で、だれも自分の正当な分け前以上を手に入れようとはしない」
次にセフーは、自分の逸脱行為を嘘でごまかそうとしてから、エゴイスティックな高言を吐いた。それはほとんど、ヘアやキールが描写したような、ときに誇大妄想をし、言葉巧みに無謀な嘘をつくサイコパスを思わせるものだった。

セフーがとても弱々しい声で、自分はほかの皆とはぐれ、その場で待っているときに獲物の追い立てが始まる音を耳にしたと言った。そのときになって、そこで網を設置しただけなのだと。しかしだれも自分の話を信じていないとわかるや、いずれにせよ自分は網の並びのなかでもっといい場所を与えられてしかるべきだと思う、と言い添えた。なにしろ、自分は重要人物で、じっさい自分自身の集団の首長ではないかと。マニャリボはエキアンガの手をぐいと引いて座らせ、自分も腰を下ろしながら、これ以上議論をしても明らかに無駄だと言った。セフーは大首長で、ムブーティ族には首長などいない。そしてセフーは自分を首長とする集団をもっているというのだから、それを連れてどこか別の場所で狩りをして、別の場所で首長になってもらおうじゃないか、と。マニャリボはとても雄弁な演説を「煙草を俺にくれ」と言って締めくくった。セフーは、自分が負けて面目を失ったのだと思い知った。

セフーは自分の無実を訴えつづけて集団を離れることもできただろう。しかしそうはしなかったし、ターンブルには、まさにセフーが考えざるをえなかったことがわかっていた。

四、五家族からなる彼のグループだけでは小さすぎて、効率よく狩りのできるユニットはできなかった。彼はくどいまでに詫び、ほかの連中の網より前に自分の網を張ったとは本当に知らなかったのだと繰り返し、いずれにせよ肉は全部渡そうと言った。それで話は決まり、彼はグループの大半を連れて自分の小さなキャンプに戻り、獲物を渡せとぶっきらぼうに妻に命じた。妻にはほとんど拒むチャンスもなかった。すでに、彼女のカゴのなかや、万が一の事態に備えて獲物の肝臓を隠していた屋根の葉の下へ、皆の手が伸びていたからだ。調理鍋まで空っぽになった。それからほかの小屋もすべてあさられて、肉がことごとくもって行かれた。セフーの家族は大声で抗議し、セフーも必死になって泣きわめいたが、今度はわざとらしいもので、一同は嘲笑った。セフーは自分の腹をひっつかみ、死んでしまうと言った。空腹で、きょうだいが食べ物を全部取り上げたあら死んでしまう、自分に敬意が払われていないから死んでしまうと。

上記の例は、いわゆる「フリーライダー」問題と呼ばれているものであるが、狩猟部族集団の一員のセフーが、「ずる」をしたのに対して、彼以外の全員が、その自分だけ得をしようとした行為に対して、強烈な反発行為が起きている。
このセフーの行為は、非常に上記で例としてあげさせてもらった、「悪の教典」の最後のカスミンの「言い訳」に似ているわけであろう。しまいには、その嘘に対する申し開きはこれ以上無理だと判断すると、今度は逆ギレで

  • 自分は特別

だと言い始める。自分の狩に対する貢献は大きいんだから、これくらいの「褒美」が与えられるのは当然だ、と。まあ、自分で言ってれば世話ねえよな、ってことだ。
しかし、ここまで醜態をさらしても、セフーには群れを出るという選択肢はありえない。外の世界が自分を含めた、ごく少数で生き残れるほど易しくないことを知っているから、というわけである。
なぜ、サイコパスのような反応が起きるのであろうか。一つの問題として、こういった性格をもった人は、なんらかの脳の発育に障害がったのではないか、という場合が考えられる。モラルとは、「ルール」のことである。そして、ルールに従うということは、まさに「言語活動」の典型だと言えるであろう。つまり、大脳新皮質という、比較的最近の人間か獲得することになった、最も人間「らしい」部分の、フル活動を求められるのが、道徳だということである。
道徳は、それに従うことを「やりたい」か「やりたくない」か、つまり、その「選択」の自由の

に、「ルールに従う」ことを可能とする「能力」を、その人は持っているのかどうかが問われる。つまり、その人は道徳に従えるだけの「能力」があるのかが、まず最初の問題だということである。
では、上記のセフーであり、「悪の教典」におけるハスミンは、その能力があると言えるのだろうか。
あるとも言えるし、ないとも言える。
というのは、普通に考えるなら、ハスミンのような、あれほどの鬼畜な演技力は、そもそも、頭がよくなければ無理だろう、という意味において、その程度のことも分かっていないなんていうのは、ありえないんじゃないか、と考えるわけである。
しかし、そうだろうか。
というのは、ハスミンは最後には、警察に捕まり、自らの「自由」を失うことになっているわけで、そもそも、そういった「リスク」を犯している時点で、なんらかの「異常」な特性をもっているとは言えないだろうか。
よく思い出してほしい。ハスミンは、非常に小さい頃から、こういった「異常」な行動を繰り返し続けた。それがなぜ「ばれなかった」のかは偶然にすぎない。子どもがこんな「異常」な行動をするはずがない、といった、周りの人々の臆断が、彼の犯罪をだれもキャッチアップできなかった。それは上記のセフーも同じであろう。
こういった行動を私たちは本当に、「頭がよい」と言うべきであろうか。いや。もう少し、表現を抑えて言うなら、「バランスが悪い」ということである。なにかの「能力」に異様な有能さを示すことが、他の人にはあまりに「常識」的に、普通に行っているようなことが、「できない」ということは、予想できるわけである。
つまり、モラルがあることは、モラルという「ルール」に従うことが「愚か」であるかどうかの「以前」に、そもそも「ルールに従える」ということが、非常に高度な「能力」だ、ということである。
おそらく、過去の人類の歴史において、狩猟採集民族のように、人々が群れて生活していた時代にも、サイコパスは上記のセフーが典型となっているように存在したのであろう。しかし、上記のセフーが群れから追い出されそうになっていることが示しているように、極端な鬼畜的な傾向を示す存在は、群れの「危険」を及ぼすとして、排除されていたのではないか。しかし、現代社会は、リベラル社会になり、性善説で人を最初から疑っちゃいけないと教えられた、「いい人」ばかりになったので、そういった傾向性をもつ人が、おそらく、大人になっても「排除」されずに、残るようになり、そういったことによる「社会の不安定さ」が、少しずつ人々に「サイコパス」的な傾向をもつ人々を社会の中に伏在しさせている状態への「怖さ」「不安」「恐怖」を感じさせるようになっていることが、近年の「サイコパス」ブームということなのかもしれない。
ここで、ちょっと、立ち止まって、考えてみよう。
そもそも、である。私たち人間は「どうやって」、モラルという「ルール」を獲得していくのであろうか。つまり、「モラル」という慣習は、一体、どのようにして、私たちの血となり、肉となっていくのであろうか。
そのことに答える上で、下記の引用は、たいへんに興味深い。ニサは、ある狩猟民族の娘であったが、母親が身ごもったことで、近いうちに弟が産まれることが分かっている。しかし、ニサはある慣習を止められないでいた。つまり、母親のおっぱいを吸う行為である。弟の誕生は、彼女にその慣習を止めさせなければならないことを意味していた。父親は、娘のその要求に対応して「体罰」を与えることによって、分からせようとしていたが、うまくいっていなく、困っていた。

ニサの父親はこれでうまくいくように願ったが、そうはいかなかった。「つぎの日、父さんは狩猟に行ってホロホロチョウを仕留めてきた。帰ってきた父さんはわたしのためにホロホロチョウを料理してくれて、わたしは食べて、食べて、食べた。でも食べ終わってしまうと、またしても母さんの乳首が欲しいっていったんだ。父さんは皮ひもをつかんで、わたしをぶちはじめた。『ニサ、おまえには分別がないのか。まだわからないのか。母さんのおっぱいには触るな!』って。それで、わたしはまた泣き出した」
その直後の出来事は、イヌイットが仮想的な状況を用いて、子どもにストレスのかかる大きな道徳的ジレンマについて考えさせる手ほどきを連想させる。ただしニサのジレンマは、決してただの空想的な状況ではない。母親は下の子を産んだ直後に嬰児殺しをもくろみ、幼いニサをかばうどころか、まともに巻き込んでしまった。

多くの狩猟採集民で嬰児殺しは習慣的におこなわれており、この行為を道徳的にすませるべく、赤ん坊を人間であると見なす前に速やかに始末する。この点で、ニサはおそろしく驚くことになる。

生まれてきた弟はそこに寝てて、泣いていた。わたしは弟にあいさつした。「ホー、ホー、わたしのちびちゃんの弟! ホー、ホー、わたしにはちっちゃい弟ができたんだ! いつかいっしょに遊ぼうね」って。でも母さんは、「この子をどう思う? どうしてそんなふうに話しかけるんだい? さ、立ち上がって、村に戻って、わたしの掘り棒を持ってきて」といった。「何を掘るつもりなの?」と訊くと「穴だよ。この赤ん坊を埋められるように、穴を掘るんだ。そうしたらニサ、おまえはもう一度おっぱいを飲めるよ」といわれた。わたしはいやだといったよ。「わたしのちびちゃんの弟を? わたしのちっちゃな弟を? お母ちゃん、この子はわたしの弟なんだよ! 抱き上げて村へ連れて帰って。わたし、おっぱいなんか飲みたくない!」って。それから、「お父ちゃんが帰ってきたら話すもん!」っていった。そしたら母さんが、「おまえは話しっこないよ。さあ、走って村へ行って、わたしの掘り棒を持ってきて。おまえがもう一度おっぱいを飲めるように、この子を埋めるんだから、おまえは痩せすぎてるよ」っていう。あたしは行きたくなかったんで、泣き出した。そこに座ったまんま、涙をぼろぼろこぼして、泣いて、泣いた。でも母さんは、行けっていう。わたしの骨を強くしたいんだって。だからわたしは立ち上がって、村へ戻った。泣きながらね。

上記の例は、非常に極端だと思うかもしれない。しかし、幼い頃、なぜ子どもは「ルール」を学べたのであろうか。ここで重要なことは、そこには「理由がない」ということである。なぜだか分からないが、子どもは「ルール」を受け入れる。なぜであろう?
ここで問題にされていることは、ルールの「内面化」の問題だと言える。なぜ子どもに、こういったルールの内面化が始まるのであろうか。つまり、どのようにして、子どもはモラルを自らと「関係」するものとして、受け入れていくのだろうか。
これに対して、上記の例は、とてもいいサンプルとなっていると言えるだろう。

ブリッグスの見解では、内面化とは結局、対立する感情の相互作用なのだという。

さらに、彼らを取り巻く脅威のせいで、価値観自体が感情の詰まったものになる。「おまえのシャツが欲しいから死んでくれないか?」と言われた子どもは、シャツと、それをもっていることをより重視しはじめ、また一方で、与えることに高い価値を置くようにもなるだろう。おっていたいものをただで人にやるのは難しいからだ。そして、子どもが----シャツでもほかの何かでも----人にやったら、受け取った者も、それを作るのは難しいことを知っているので、その贈り物を重視するようになる。同様に、「君の小さな弟を殺したらどうだい?」と言われた子どもは、愛情とともに気づかされる嫌悪感を打ち消すために、弟をより強く愛するようになり、愛することをさらに重視するようになるだろう。

この実地調査による分析は、常識からわかるものと一致する。われわれがおこなう社会的な選択の多くについては、人間は矛盾した感情をもつようにできているのだ。かたや、自分の役に立つような自己中心的で利己的な傾向がつねにあり、かたや、利他的あるいは寛大になる衝動がある。利他行動と同情は仲間から高く評価されるので、後者もわれわれの適応度を高める。良心の助けを借りればこのようなジレンマを社会的に受け入れられるやり方で解決できるのであり、イヌイットの親は、わが子の良心を意図的に「訓練」することで、道徳的に社会化された大人を育てているように見える。

ある「判断」は、

  • 相対的

である。なにかを判断するということは、それ「自体」において、成立しているわけではない。それらは常に、他の諸関係との「関係」の中で、「意味」となる。上記の例では、「死んでくれ」と相手に言われたことと、自分が着ているシャツが「価値」がある、という認識は、むしろ前者によって、後天的に「学習した」といった形態になっている。同様に、弟を殺すことを進められることが、相対的に、弟の「価値」、つまり愛情を本人に自覚させる結果になる。
つまり、ある一見すると「関係のない」事象それぞれが、そのコミュニティの中で併置されて置かれることによって、それぞれの相対的な価値の関係についての認識が、本人の中に生まれることになる。
つまり、このモラルの「起源」を問う行為と、人々が言語を身につけてきた過程で行われていたことが、非常に深いところで繋がっている、ということなのである...。

モラルの起源―道徳、良心、利他行動はどのように進化したのか

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