古谷経衡『欲望のすすめ』

掲題の著者は、自らの「欲望」の分かりやすい「例」と、自らにとっての「自動車」の

  • 位置付け

においてそれを説明することによって、この問題を敷衍していこうとする。

それ以降、私のマイカー車種は数々移り変わったが、一度もクルマを手放したことはない。近代工業の象徴としての”自動車”に一度慣れ親しんだ生活を転換することはできないだろう。「自動車の代わりに、バスや電車があるから充分ではないか」という人もいる。確かにそうかもしれない。日本の公共交通の充実ぶりは世界の先進国のなかでも高い部類に入るのは間違いない。
しかし本当にそうだろうか。深夜1時にふと海が見たくなって千葉の外房に行く。そういうわがままに、電車やバスは付き合ってくれるだろうか。無理だろう。クルマという物質は、そういう生産や生活には必ずしも寄与しないが確実に人生を豊かなものに変える無駄の実現に大きく貢献する(ただし、ひどい事故を起こさなえればの話だが)。

上記の引用は二つの側面において、私の認識と違っている。
まず、「バスや電車」があるから「充分」なのは、東京だけだ。そもそも地方においては、自動車はほぼ「仕事を得る」

  • ため

の、たんに必須のアイテムにすぎない。それは「ぜいたく」とか「欲望」とはと一緒に語られるものではない(これはきっと、アメリカでも同様なのであろう)。
もう一つは、そもそもなぜ東京で、電車が深夜に走らないのかは、あまり理由がない。たんに本数を減らして走ればいいとも言えるし、もっと言うなら、深夜に走らない理由に「欲望」はなんの関係もない、ということである。おそらく、風紀上の理由も含めてそうなっていないということなのであろうが、それで東京の住民が、おおむね「怒っていない」から、今こうある程度のことであろう。つまり、掲題の著者が言うような「欲望」なるものが

  • 問題

なら、とっくの昔に電車は深夜に走っている。つまり、議論が転倒しているわけである。
例えば、一時期、電車に赤ん坊をベビーカーで載せることを、ネットでdisられるということが話題になったことがある。そこから、電車の中というのは、そういった「いろいろな人」が利用する場所なんだから、そういったことに、いちいち反論していてもしょうがない、と言って、

  • 子育てと自動車をセットにする

ことを勧める、といった議論があった。つまり、そもそも「自動車をもたずに快適に子育てをできるわけがない」といった認識だと言えるだろう。しかし、もしもこのことが「非常に重要」な論点であるなら、例えば現在、女性専用の車両があるように、子供専用の車両をつくればいいであろう。
しかし多くの場合はそうなっていない。まあ、当然ではないだろうか。社会に子供がいることは当たり前のことだ。それに、いちいち怒っていたら、社会なんて成り立つはずがない。そういった「出会い」を含めて、日々の日常を「楽し」めなかったら、生きることが楽しいはずがないんではないか。
(私は別に、自動車がなくても、自動車がある並みに子育てが「快適」などというトンデモを言いたいわけではない。しかし、それを逆手にとって、自動車のある家庭に産まれた子供は、そうでない子供より「幸せ」だと言うなら、つまらない議論だと思ったというだけだ。別に私がそうだったから、というだけでなく、子供がどういった「日常」を過したのかによって、幸せだ不幸せだ、みたいな議論は、進化論的にナンセンスなだけでなく、一種の「裕福差別」なわけでしょう。だからこういった、「科学文明礼賛主義者」を私は嫌いなんでしょうけどw)
私はここで、掲題の著者にとっての「自動車」の「自明」なまでに、実感として感じていることを否定しているわけではない。そうではなく、その「実感」を

  • 実感主義

として語ることに、違和感を覚えているわけである。それは「欲望」と言いながら、

  • 欲望主義

を語っていることへの違和感と言ってもいい。
掲題の著者がここで言いたいこととはなんなのだろうか。それは「欲望」という言葉を使いながら、他方においてそれは、「科学技術の発展」による、産業の「ドライブ」に対して、

  • 避けがたい「運命」

だと暗に示唆している、ところにあると考えている。

実は、堀江さんは欲望の上にゴールを持っている人だと思います。それは「宇宙ビジネス」です。彼は山賀博之監督の「王立宇宙軍 オネアミスの翼』というアニメーション映画を観て、「絶対に宇宙に行く!」と思ったという強烈な動機がある。山賀監督ファンの僕は、このエピソードだけで、堀江さんを断固支持します。そもそも学校教育がおかしい。人々は無欲で、協調することが善だと教えがち。ところが社会に出た途端、資本主義の欲望が渦巻いた世界に放り出される。

宇宙とは、「侵略」のアナロジーである。つまり、土地、

  • 不動産

のアナロジーなのだ。日本の歴史がヤマトタメルノミコトによる、天皇に侵略した土地を「貢ぐ」ことを、絶対の「国家設立の基盤」としてあるように、豊臣秀吉朝鮮出兵を行い、明治革命政権は、台湾、朝鮮半島を「侵略」し「植民地」として、その版図を中国にまで伸ばそうとしたのが、先の大戦であった。ここで、その意図を

  • 対ソ防衛戦

といったような「恐怖=不安」に対する「対抗手段」だったと言ってみたとしても、その基本的アイデアとして

  • 土地と住民の天皇への「貢ぎ物」

といった色彩を帯びていたことは当然のことであろう。これと「同じ」ことを、今度は「宇宙」で行おうというのが、「宇宙ビジネス」連中のホンネなのかもしれない。
言うまでもないが、宇宙とは3・11なんて比でもないほどの、高濃度の放射線がビュンビュン飛びかっている「トンデモ」の世界であって、

  • こんな程度で体に影響なんてあったら

まあ、医療被爆宇宙線被爆も3・11の低線量被爆の比ではないわけですから、ホルミシス並みに「なんともない、むしろ、体にいいくらい」になってくれないと困るっていう、

  • そっち(=放射能SFマッチョ君)の都合

ということなんでしょうけどねw しかし、原発大好き、リニア大好き、ロケット大好きって、どうしてこうなんですかねw

日本人は「勝てる見込みのないアメリカとの戦い」に、「アジア人のために」「無欲の心」で挑んだのではない。当時の政府には、対米開戦に当たってある程度きちんとした勝利のイメージがあった。まず大きな前提条件は、同盟国・ドイツによるイギリスの屈服である。
真珠湾の直前、ドイツはソ連を攻撃し破竹の勢いでベラルーシ白ロシア)やウクライナを平らげていた。加えて、西部戦線ではドーバー海峡の紙一枚を隔ててドイツ軍がイギリスと対峙していた。
ドイツがそのままの勢いに乗ってイギリス本土に侵攻する「アシカ作戦」を決行し、ロンドンを占領すればイギリスの継戦能力は奪われ、チャーチルが屈服する。そうすればアジアにおけるイギリスの植民地、すなわちマレーやビルマやインドなども、次々と無力化するだろう。となれば連合国で残る主要国はアメリカ一国となり、国内の厭戦気分が高揚して必ずや講和の機運が高まる。その間、太平洋に進出してきたアメリカ艦隊を、聯合艦隊中部太平洋海域で迎撃して撃破する......。なんとも「都合の良い能天気な」戦争計画だが、当時の政府は本気でこう考えていた。

なぜ近年、日本において「新しい歴史教科書をつくる会」を始めとした、「歴史修正主義」が問題となったのか。それは、より直截に考えるなら、中国や韓国、北朝鮮に対する

  • 戦後賠償

と関連して始まった、と考える方が普通なのではないか。元マルクス主義者の藤岡という人物が始めた「自虐史観」批判は、掲題の著者が言うように、「日本はアジアの人のために戦ったのであって、なにも悪くはない」と言いたかったわけであるが、そのことは、直接には、日本がアジアの人に行わなければならない

  • 賠償行為

がどれくらいのものになるのかに関わってくる。だからこそ、「嘘っぱちであったとしても」日本人の「善意」を

  • 建前

として主張しないわけにはいられなかった。つまり、こういった主張の最初の動機には「外交的な戦略(インテリジェンス)」の問題があった。
ところが、そういった文脈を踏まえることなく、

  • 自分の車好き

の「テクノロジー好き」の実感信仰の延長で、保守派の「実感主義」を敷衍していくと、こういった「建前」とぶつかることになる。しかし、おそらく、こういった「実感主義者」こそ、戦前においても、
戦争イケイケドンドン
でマッチョに、戦争のドロヌマに落しいれていった大衆の振舞として国家を危険に落し入れる連中なのだろうな、と読んでいて思ったわけである。
例えば上記の引用にしても、まず、現代の視点から、日本の侵略戦争の「目的」が

  • ナチスという人種差別集団に「協力」して「一緒」に世界を征服しよう

というところに「あった」とするなら、一体「いくら」、戦後の日本は国際社会に「謝罪」を目的とした賠償行為を行わなければならなかった、ということになるんですかねw これは何が事実なのかと関係ない。日本が戦後、国際社会に復帰させてもらう上で、どれだけ「有利」な立場で受け入れてもらえるかの戦略において、当然選択することになった「仮面の動機」ということであろう。
しかし、それ以上に上記の引用の説明が変なのは、言うまでもなく「アメリカ」であろう。つまり、なぜアメリカが

  • マジで怒らない

と「勝手」に思い込んでるんですかねw これが「ボクノサイキョウノ侵略」の実体じゃないですか。アメリカって国は国民が「厭戦」的なんだから、きっと、どこかの段階で、「和平」に応じてくれるはず(だって、そうでないと、日本はアメリカに戦争で負けるんですからねw)。ナチスのような人種差別国家と同盟を結んでおいて、「きっと許してくれる」とか、まあ、これが戦前から戦後にまで連続する「保守派ナルシシズム」の正体なんでしょうね。
ようするにさ。私は「欲望」とか「侵略」とか「植民地」とか、こういう「文学的」な言葉が、大っ嫌いなわけです。だってそうでしょう。なにがどうなることが「欲望」なのさ、「侵略」なのさ、「植民地」なのさ。その definition はなによ。まともに会話する気があるのかな。もっと定量的に話せませんかねw
そもそも、明治以降の近代国家、ネーション=ステートにおいて、このホッブス・モデルの国家において、どうなることが「侵略」なのかな。「植民地」って、どういう「状態」のことなのかな。なぜ「普通の国民」と分けられるのかな。どういった原理によって、分けられるのかな。
だってそうでしょう。植民地とかって、差別的に呼んでいても、同じく「皇軍兵士」として、軍隊に朝鮮人も台湾人も参加していたわけでしょう。だったら同じく「同士」だっていうことにしないと、筋が通らないんじゃないですかねw
この「ボクノサイキョウノ侵略」であり「ボクノサイキョウノ植民地」に「誇り」をもつんだったら、そういった日本国民は一体、いくら、そのために被害を受けたアジアの人々に「賠償」をしなければならないんですかねw いくら「要求」されても「しょうがない」と、この人は考えているんですかねw この賠償金を払うために、また戦争をするんですかねw

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