映画「ゴーン・ガール」の手ざわり

今日は、少し時間があったこともあり、ディズニーアニメ「ベイマックス」見た後、「ゴーン・ガール」を映画館で見てきた。この二つに共通した特徴があるとするなら、いわゆる「ハリウッド」的な規制なりの中で、これまた、ハリウッド的な「自由」の中で、

  • エンターテイメント

として、それぞれ完成度の高いものが作られている、といった印象であろうか。
もちろん、このように言った場合に、ハリウッドにおいて「使われる」お金のかけかたの違いをことさらに意味あることのように言いたいわけではない。つまり、それが本質だと言いたいわけではないが、私などは、もっと

  • 単純

に考えるべきだ、と言いたいわけである。つまり、「エンターテイメント」とはなにかと考えれば、そこに大きな差異を指摘することは、ほとんど無意味なんじゃないのか、ということである。
たとえば、東浩紀さんは、『ゲーム的リアリズムの誕生』という本において、前作『動物化するポストモダン』にひき続いて、非常に奇妙な議論を続けるわけだが、むしろ私が気になるのは、そこにおける議論の、「あいまいさ」(解釈の狭さ)にある。つまり、この彼の議論が、果して、日本を超えた海外の文脈において、意味をもつのだろうか、といったことである。

以上の議論を受けて、私たちはここで、ライトノベルあるいは「ライトノベル的な小説」の本質を、作品の内部(物語)にでも、外部(流通)にでもなく、作品と作品のあいだに拡がる想像力の環境(キャラクターのデータベース)にあると考えてみよう。言いかえれば、ライトノベルを、キャラクターのデータベースを環境として書かれる小説として定義してみよう。
ライトノベルの作家と読者は、戦後日本のマンガやアニメが育てあげてきた想像力の環境を前提としているために、特定のキャラクターの外見的な特徴(さきほどの引用箇所では「眼鏡」「小柄」といった表現)がどのような性格や行動様式(「神秘的な無表情系」「魔女っ娘」)に結び合わされるのか、かなり具体的な知識を共有している。したがって、彼らは、作品のなかに(たとえば)小柄でドジな女の子が現れれば、半ば自動的に、彼女がこの状況ではこうする、あの状況ならそうする、と複数の場面を思い描くことができる。作家もまた、読者にそのような能力、いわば萌えのリテラシーを期待して、キャラクターを造形することができる。

この東さんの一連の議論は、非常に奇妙な文脈になっている。ポストモダンという現代思想の一連の流行の文脈から、急に、日本における

  • オタク

と言われる、一連の消費者集団の「定義」へと至り、その過程において、彼ら「オタク」が「消費」する日本のマンガやアニメのその「消費形態」が、「オタク」の定義と共に、その議論の遡上に乗せられる。そして、上記においては、今度は、また、その「オタク」たちが多くを消費する「ラノベ」であり、また、マンガやアニメに共通して見られる

の「定義」が、さらにその「オタク」の「定義」と、同じ線上において行われる。
この「定義」が異常なのは、作家が読者の「リテラシー」に従属することを前提にしていることに尽きるであろう。これは「エンターテイメント」の楽しみ方ではない。なぜなら、読者は「楽しみたい」から、エンターテイメントを読むのではなかったのか。上記のような「暗号解読」は、映画評論家や学者のような作法を思わせる。つまり、

  • 映画評論家や学者の「特権」性

を強調しているように思われる。
また、この議論はさらに「ねじれ」る。つまり、作家は読者の「リテラシー」に

  • 答える

ことが「創作活動」であると「定義」されるからだ。つまり、むしろ作家は読者が「待っている」通りの何かを提示することが使命となっている。これは新しいことが「生み出せない」わけではなく、「生み出してはいけない」と言われているのと変わらなくなる。つまり、作品制作は、どれだけ「消費者」が、「待っている」ような、心地良く「想起」させてくれるような、お決まりのパターンをどれだけ、効率よく、「刺激」できるのか、という「競争」だということになる。
しかしもしもそれが正しいとするなら、どういうことになるか。あらゆる、ラノベ、マンガ、アニメは「つまらない」「くだらない」ということになる。見る価値がなくなる、というわけである。このことは、この前書いたように、東さんにとって、「深夜アニメ」の

  • 駄作

性に象徴される。「深夜アニメ」である、というその一点において、「見る価値がない」ことの「定義」と変わらなくなる、ということである。
この上記の一連の議論は何が問題なのであろうか。まず「ポストモダン」という現代の「定義」を、どうして、受け入れなければならないのか、いや、その必要なんてまったくない、というところから始まるであろう。そうすると、「オタクとは何か」といった定義が、まったく「不要」だということになる。そして、それにともなって、上記にあるような、

つまり、「キャラクターとは何か」といった定義も不要になる、ということなのである。大事なポイントは、キャラクターの定義がいらないのではなく、上記にあるような、キャラクターを介すことによる、作者と読者の

が不要だ、ということである。よく考えてほしい。そもそもキャラクターとは本来は、作者によって生み出され、作品を見た側が、勝手に「解釈」するものであって、それ以上でもそれ以下でもない。つまり、つねにキャラクターは「事件」として現れる。キャラクター解釈における

  • 読者の作者に対する優越性

など、映画評論家や学者が「空想」する、どうでもいいような恣意性に依存しているにすぎない。
では、どうしてこのような「奇妙」な議論の反復が行われるのであろうか。しかし、その答えは、この東さんの本に書いてる、と言ってもいいのではないだろうか。
つまり、この「リアリズム」をめぐる議論は、どこか既視感がある。つまり、日本近代文学史における「自然主義文学」の位置付けに関係している。

仲俣の文学観は「ポップ文学」という言葉に集約される。それは、吉本隆明の造語であり、仲俣によれば、一九八〇年代に台頭した「SFやミステリ小説から強い影響をうけえいたものの、彼らの作品自体はエンターテメント小説では」ない。「SFやミステリマンガの読者とクロスオーバーし」た新しい読者層を対象とした、「いわく言いがたい新しい小説群」を指している。ポップ文学は、村上龍村上春樹高橋源一郎島田雅彦吉本ばななに担われ、一九九〇年代以降、阿部和重吉田修一保坂和志綿矢りさらへと継承された。
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

柄谷がここで指摘しているのは、「現実を描く文学」と「現実を描かない文学」の対立こそが、明治二〇年代から三〇年代にかけての時期に作られた、歴史の浅い制度にすぎないということである。そして、彼はそこで、その制度の前提となった現実描写の特性を「透明」という比喩で表現している。「私が問題にしてきたのは、写すということがいかなる記号論的布置において可能なのかというおとである。事物があり、それを観察して「写生」する、自明のようにみえるこのことが可能であるためには、まず「事物」が見出されなければならない。だが、そのためには、事物に先立ってある「概念」、あるいは形象的言語(漢字)が無化されなければならない。言語がいわば透明なものとして存在しなければならない」。
ゲーム的リアリズムの誕生~動物化するポストモダン2 (講談社現代新書)

柄谷さんがここで見出している、言文一致運動であり、自然主義文学であり、「写実」とは、日本の文脈で言うなら、明治以前において、知識人であれば、だれでも共有していたような

  • 漢文

の世界の手ざわりのようなものと対立するものを言っていた、ということが分かるであろう。こういった漢文的な「豊穣さ」が意味するような一般的な教養があることと、自然主義文学的な「リアリティ」とは、決定的に対立する。後者はむしろ、前者の「豊穣さ」を

  • 拒否

した後に現れる。マンガやアニメは一見すると、こういった「写実的」なものに反しているように思われるが、そうではない。むしろ、こういったものは既製の、過去から「規範」として存在してきたような「イコン」的な「記号」を拒否する形であらわれる。たとえばそれは、上記のベイマックスであれば、CG画像で作成された、奇妙な3次元的な「リアリズム」と関係してあらわれるが、つまりはそれは、以前の慣習的なイコン(=漢文コミュニティにおける定型的な漢字表現)から「逸脱」をするわけだが、そのこと自体が、

  • 差異

として、なんらかのリアル(=写実=自然主義)を表象していることを意味する。大事なポイントは、それ以前の漢文的な表現における「豊穣さ」を否定し、「禁欲」することが、逆に、なにかの「リアル」を

  • 指示

していることを意味することが、「なにか重大なことを言っている<かのような>」素振りができる、ということである。
上記の引用にあるように、村上春樹の小説は、まさに「自然主義」の延長そのものであり、この「流れ」は、オタクたちが消費する、マンガ、アニメ、ラノベへと、完全に一直線に繋がっている。これらは、まったく同じ「スタイル」によって、作られているし、そもそも、その

  • 動機

からして同じことを「意図」し、それを目指して、作られ続けている、と言えるであろう。
では、このような分類から考えたとき、上記の「ベイマックス」や「ゴーン・ガール」は、自然主義であろうか。これらはむしろ、上記でいうような、言文一致のような、どこか偏執症的な自然主義的な作法から離れて、「漢文的」な、部分に片足をつっこんでいる印象を受ける。
ベイマックス」は、まさに、ディズニー映画として、主人公の少年に一度は、「恨み」から、敵を殺しそうになりながら、思い直り、最後は憎き兄の仇である教授の娘を救おうとする。もちろん、こういった部分は多分にディズニーの子ども向けとしての「制約」の範囲のことだと言えるであろう。そういう意味において、この作品は、どこか「リアリティ」に欠けている。しかし、作品そのものの「パワー」としては、「だからどうした」といった強い主張が感じられる。つまり、制作側は、たとえそうだとしても、それに余りある「表現」すべき「内容」がある、と彼らは考えている、ということであろう。まあ、「おもしろ」ければ、そういった別の部分で、何かが描ければ、それはそれで、そういう部分においては、十分に満足するものでありうる、ということであろう。
ゴーン・ガール」は、主人公の妻のエキセントリックかつ猟奇的な行動が、サスペンスとして見どころとなるという意味で、「ベイマックス」的な「オタク」イコール「いい人」といったような「ユートピア」の、まったく反対の、ディストピアを思わせる内容であるが、私はむしろ、現代社会の「リアル」な側面を映している、という印象も強く感じた。1%の富裕層と99%の貧困層に分かれる現代社会において、むしろ、妻が夫を、ああいった感じで、まったく

  • 愛情を感じさせない

ような「結婚状態」は、かなり一般的に実際に起きているのではないだろうか。特に最後の場面における、人工受精で妻が勝手に夫の冷凍保存されていた精子で妊娠すると、夫が、まったく妻の愛情を信じていないにもかかわらず、

  • 子どもに対する奇妙な「義務感」

が描かれているところも、一つの現代的な現象への「風刺」になっているのではないか、と思わせる。
(私が言いたいのは、前回も書いたことではあるが、なにか「遺伝子」的な繋がりそのものに「親子」の「神秘的な意味」を過剰に見出すような態度は疑わしいし、そういった「唯物論」的な態度は、現実をリアルに映していない、ということである。むしろ、血は繋がっていなかったとしても、養子として育てられた場合の方が、愛情いっぱいに繋がる関係もあるし、つまりは、私たちはより自覚的に文化的な存在であり、それでいい、ということなのではないか、と思っている。)
この二つの作品、「ベイマックス」「ゴーン・ガール」に共通するのは、これでもかと、までに「ぶっちゃけ」すぎなまでの

  • エンターテイメント

性だ、ということになるのではないだろうか。つまりは、上記で検討してきたような、自然主義的な「禁欲」さであり、本質主義的な「リアリズム」的な作法とは、やはり根本的なところで違っている。それは、さまざまな制限がある中で、かなり自由な、ほとんど順列組み合わせとさえ呼びたくもなるほどの、さまざまな側面を興味深く描いているという意味で、どちらかと言うなら、明治以前までの「漢文文化」との相似性さえ、ハリウッドには感じさせる、ということになるのではないだろうか...。