動物化wする女流作家

ところで、東浩紀さんの「動物化するポスト・モダン」として語られた「動物」という言葉は、普通に考えたとき、非常に違和感を与える(もちろん、デリダが晩年、こだわった言葉ではあるのだろうが)。というのは、むしろ「動物」という言葉は、女性の「感性」のようなものを「男たち」が「礼賛」する文脈においてこそ、考えられてきたからだ。
このことを、例えば、たしか、柄谷さんが笠井潔さんとの対談「ポスト・モダニズム批判」において語られた、日本の男性文芸評論家たちの「生態」の分析との比較で考えてみたい。
柄谷さんは、そこで、日本の男性文芸評論家たちが女流作家を「褒める」のだが、結局、何を褒めているのか、というところで、女性が「考えない」、まったく、感性のまま、感情の流れるままに文章を書くと褒めている、と分析する。逆に、女性が論理的に思考を始めると、まさに「男のように」論理的に考え始めると、怒り始める(=逆ギレ)わけである。つまり、女性が「動物」であるから、すばらしい、と言っているのと変わらない、と言ったわけである。
このように比べたとき、東さんの言う「ポストモダン」とは、どういった対応にある、と言えるであろうか。
まず、

  • 主体性 ... 日本の男性文芸評論家たち(柄谷)=日本のオタクたち(東)

は、成立している。次に、

  • 客体性 ... 女流作家(柄谷)=萌え要素(東)

と対応していることが分かるであろう。そして、

  • 行動性 ... 褒める(柄谷)=萌える(東)

となっていて、形式上は「非常に似ている」ことが分かるであろう。
ところが、である。
いざ、その「内容」に分析を移していくとき、この二つは、まったく違うことをお互いが主張していることが分かる。
まずは、上記の「主体性」に関してであるが、東さんは日本のオタクが、このように「動物」的であること自体に、価値観を読もうとしない。そうではなく、これは「歴史的」「時代的」な現象なのだ、と分析する。
そして、柄谷さんは、あくまで、近年、やたらとこういった「女流作家」を褒める、男の「文芸評論家」たちが、「なぜ」そういった行動を行っているのかの分析の文脈で考察しているのであって、言うまでもないが、自分をそこに含めていない。他方、東さんは自分が、日本の「オタク」の一人であることを自任した上で、「オタク」たちの生態は今こうなっている、といった論理になっている。
次に、上記の「客体性」であるが、柄谷さんの方の文脈では、男性評論家たちに対して、彼らが「評価」する対象としての、女流作家という形で、明確にそのカテゴリーが分かれていると言える。他方、東さんの方において、萌え要素というものが、具体的になんであるのかは、あまり重要視されていない。オタクが「消費」するという意味においては、マンガやアニメ、ラノベ、こういったものの「キャラクター」をイメージしている、と考えられるが、そのように考えたとき、ここでの指示対象が、「作成者側」から「被作成物側」に変わっている、ことは明確であろう。
つまり、柄谷さんの上記の文脈は、そういった女流作家たちが作る小説「全体」の感性の「動物」性が、評価の有無を考察していたわけであるが、東さんの方では、「作者」は、後景に退いている。だれがそれを作っている、といったことは、あまり大きな問題ではなくなっている。
しかし、この二つが関係していないか、と考えると、そうも言えない。言うまでもないが、こういったものに対して「萌える」対象の中心は

  • 女性キャラであり、その属性

であることを考えれば、言わば、東さんの文脈では、柄谷さんの文脈における「女流作家」が、作品内の「女性登場人物」そのものの「評価」へとシフトしている、と解釈できるわけである。
そして、上記の最後の「行動性」であるが、言うまでもなく、柄谷さんの文脈において、このような行動をする男性評論家は「ダメダシ」の対象である。しかし、その場合の論点が重要である。つまり、柄谷さんにとって、男性評論家たちのそういった「褒める」行動が問題なのは、一方において、女性にはそういった観点を適用しておきながら、他方において、

  • 男たち自身(つまり、自分自身)

の評価においては別だ、というダブルスタンダードが問われていたわけである。つまり、女たちが男と同じように「論理的」であると「不快」になる、といったような。他方、東さんの文脈では、オタクたちが「萌える」こと自体に、いいも悪いもない。それは、自然に生まれる感情であり、いわば「生態」なんだから、まあ「しょうがない」し、それを「啓蒙」で変えようとしても無理、というわけである。
この二つを比べたとき、何が問題だと考えられるだろうか。それは言うまでもなく、上記での柄谷さんの「批判」が、東さんの文脈においては、どのように扱われているのか、ということになるであろう。
このことを考える場合、柄谷さんの話の続きを考慮する必要がある。つまり、女流作家たちは、どうすれば彼ら男たちが「褒める」のかをわかっているので、それに「合わせよう」としている、というのである。まあ、言うまでもないことであるが、女性たちは男たちと同じく、いやそれ以上に「考えている」。なぜなら、その男女の社会の扱いの差別性において、より考えることを強いられているから、ということになる。
さて。
だとするなら、この「二つ」を繋げて考えた場合に、どういうことになるであろうかw
女性たちは、論理的に考えることで、男たちに「気に入られる」方法がなにかを考えた末に、一見「動物」に見えるように振る舞うようになっている、ということになる(柄谷理論)。そして、それを見ることで、男たちは「大喜び」で、そういった「動物」のように振る舞う女性を「社会的」に評価しまくる(柄谷理論)。そして、こういった男たちは、そういった女性の「動物」性の「表象」を、萌え要素として、データベース化して、適宜それらを呼び出して「消費」する生態を営むことになる(東理論)。
さて。なにが問題であるか、分かったでしょうか。
ここでの問題は、東さんの「動物」の「定義」にあることが分かってくるのではないか。つまり、東さんはたんに、近年のオタクたちが萌え要素をデータベース化する生態を営んでいる、としか示していない。ところが、「なぜか」そこから、東さんは、こういったオタクたちが「動物」だ、と推論する。
つまり、問題は、だから、オタクは「動物」だ、という推論が、なぜ言えるのか、ということになる。そのことは、たとえば上記における「女性」を「動物」だと

  • 定義

することの滑稽さに示されているであろう。つまり、どういうことか。東さんの上記の本は「理論書」ではない。これは、自らが所属する「オタク・コミュニティ」向けに書いた

  • うけ狙い

なわけである。オタクたちは、お前は動物並みに「快楽」に耽溺している日々を過しているな、と言われると、もりあがるわけである。北斗の拳の「お前はもう死んでいる」みたいなものである。

しかし、考えてみると、カントは別に芸術を最上位あるいは基礎においているわけではないのです。彼がいうのは、この三つの領域はわれわれの態度の差異によって成立するものであり、それらが混同されてはならないということです。しかも、それらはたえず混同さうぇてしまうということです。たとえば、ヌードの絵が芸術となるのは、それに対する性的な「関心」を括弧に入れることによってですが、それが性的欲望をそそるものであることはけっして否定できない。たとえば、漱石が『文学論』に書いている話ですが、昔イギリスで観客が舞台に登って悪役の俳優を殺したという事件がある。しかし、こういう混同を笑うことができるだろうか。むしろ、このような混同の可能性においてこそ、芸術のインパクトがあるはずです。
柄谷行人「文学と思想」)

萌え要素をデータベース的に消費していることは「現象」である。しかし、そうだからといってそれが、「動物」であることとイコールと言っているのは、東さんの持論にすぎない。そのことは、上記の「動物」であるように振る舞っている女性を見て、萌えている男性がいるからといって、そういった女性たちが「動物」であることを意味しない(男たちに取り入るためにやっているにすぎない)ということと、同値である。
私たちは、日々のさまざまな欲望があるからといって、生活破綻をしていない。適度に「コントロール」して、朝には会社に行き、なにくわぬ顔で、帰社するまで働いている。つまり、「大きな物語」が終焉したのかどうか知らないけど、

  • あたかも「大きな物語」が、まだ、ある「かのように」

生活している。それが虚偽のパフォーマンスなのかどうかは知らないが、実際にそのように生きている。

たとえばポール・ド・マンというのは外国人でしょう。やっぱり比喩が少ないですね、そして文章がコンパクトです。それは、外国人というより、本質的にどこにも属していないからですね。たとえば、サイードは冗長です。彼も外国人だけれど、帰属するものがあるんですね。だからどこの文脈にも属さないで書こうとしますと、いちばん先に死ぬのが形容詞です。僕の場合、それが初期の書き方と変わっちゃった部分ですね。
柄谷行人「文学と思想」)
柄谷行人蓮實重彦全対話 (講談社文芸文庫)

東さんは言わば、「動物」という言葉を、「動物的」といったように、形容詞的に使っている、と言うこともできるであろう。つまり、結論としては、東さんの一般理論は、柄谷さんの上記のアジェンダの回答には必ずしもなっていない、ということになるだろうか...。