中田考『一神教と国家』

内田樹との対談。)
今回のジャーナリストの後藤さんについての結果については、非常に残念だったとしか言う言葉が見つからない。しかし、もう少し冷静になる必要がある。つまり、これは「始まり」でしかない、ということである。米軍は、イスラム国に対して、28日に、2日で6回の空爆を行い、イラクも12回の空爆を行っている、と言っている。
http://news.goo.ne.jp/article/sankei/world/snk20150130583.html
つまり、今回の結果は実際にアメリカを始めとした側の

  • 攻撃

が行われている「真っ最中」に起きていることなのであって、まったくもって、この「戦争状態」の中で、どんなこともありうると考えないことの「不自然」さから、理解することを求められているのではないのか。
今週の、videonews.com では、ジャーナリストの綿井健陽さんが監督のドキュメンタリー映画イラク チグリスに浮かぶ平和」を紹介しているが、この中東地域はずっと昔から、こういったアメリカの中東政策によって翻弄されてきた歴史がある。当たり前であるが、空爆を行えば、そこに住んでいる多くの人々に犠牲がおよぶ。その場で死ぬ人だけでなく、手足を始め、多くの障害がおよぶ人、PTSDにかかる人、自殺をする人。こういった状況が慢性的に続いている地域であることの理解なしに、この地域をナイーブに論じることはできない。
3・11のときもそうであったが、大手マスコミは、できるだけ残酷なシーンを報道しないように行動する。多くの人が、実際に目の前で死んでいて、その死体が目の前にあるのにもかかわらず、その「見える光景」のマテリアルな「もの」を、視聴者に届けることを拒否する。しかし、それでは「戦争」や「災害」のリアルを見逃す。その見逃した、なにかを欠落した姿から、見出される「自明性」や「リアル」から、幻想のユートピアが可能であるかのような「推論」が生み出されてしまう。

中田 第一は啓典に対する態度です。ユダヤ教徒モーセの律法を歪曲したとイスラームは考えますが、ユダヤ教が自分たちがモーセの律法と考えているモーセ五書を重んじ、律法こそが、神が人類に下したメッセージであり従うべき生きる指針である、と考えていること自体は、イスラーム教徒の『クルアーン』に対する態度と似ています。ところが、キリスト教は根本的に違っています。キリスト教は、イエスその人が神の人類に対するメッセージ、神の言葉だと考えます。聖書は神の言葉というよりも神の言葉であるイエスに対する教会の証言でしかありません。だからキリスト教はイエスの伝記である福音書ギリシャ語で書き、オリジナルなアラム語のイエスの言葉を保持することにまったく興味を示さなかったのであり、キリスト教の正典としての『旧約聖書』も、『ヘブライ語聖書』ではなく、東方教会ではギリシャ語訳(セプトゥアギンタ)、西方教会ではヒエロニムスのラテン語訳(ウルガータ)であった理由です。
キリスト教にとっての最終権威は、神の一つの位格であるイエス・キリストであり、キリストの昇天後には、そのキリストを証し、同じく神の位格の一つである聖霊が宿る教会そのものであり、聖書ではないのです。「聖書のみ」を掲げるプロテスタントですら本質的には事情は変わっていません。それゆえキリスト教においては、教会それ自体が聖化されますが、実際には使徒の後継者たちとみなされる祭司たち、カトリックの司祭、プロテスタントの牧師、が俗人に対して「聖職者」としての権威を持ちます。
それに対してユダヤ教のラビ、イスラームウラマーイスラーム学者)は聖職者というよりは、学者、特に法学者としての役割が重要です。この点もイスラームユダヤ教の構造の似ている点です。

ユダヤ教イスラム教はどこか似ている。それに対して、明らかに違っているのが、キリスト教だと言えるだろう。キリスト教とは実際のところ、何を行っているのか。まず、神の言葉が書かれているとされる、聖書が、なぜか、その神の言葉を最初に書き写したはずであるところの言語(上記で言えば、アラム語)で残さなければならない、という意識がない。つまり、ここで

  • 何を行っているのか

という問題意識がない。
キリスト教は、「なぜか」、教会であり、祭司といった聖職者が、「権威」や聖性が、俗人に対して「相対的」な権威をもち始める。しかし、もしもそうであるなら、そういったものと「唯一神」や、その神が残した「言葉」とは、どういった関係にあるのか。まったくもって、よくわからない。
つまり、もともと、キリスト教の「本質」は、ユダヤ的でありイスラム的な、遊牧民族的な何かから始まったところにあったのではなく、ゲルマンやケルトの土着宗教を習合してきた過程において、なんらかの本質的な変質をとげているのではないか、といった印象も受ける。
そして、こういったキリスト教的な、農耕民族的な本質から生まれたのが、西洋啓蒙哲学であり、その嫡子である、現代思想なわけであり、こういった文脈、フランスやドイツの西洋哲学をベースにして考えてきた、日本の知識人が、まともな反応を今回の事件においても示せていない理由を意味しているように思われる。
その一番の典型的な例が、リバタリアニズムではないだろうか、と思っている。西洋啓蒙思想、つまり、「リベラリズム」は、まず、私的所有権、つまり、

  • 自分の土地

という形で、自分の家の回りに

  • 線を引く

ところから始まる。ここから先は「自分の物」という形で、線引きをするところから、自分の「もの」と他人のものとの、区別をすることが、なによりもの出発点になっている。これこそ、典型的な農耕民族的な習性だと言えるだろう。言うまでもなく、この延長に、国家という「線引き」がある。言わば、国家とは一種の「私的所有権の延長」にあるわけである。そして、この延長に、現代経済学における、

  • 記号としての貨幣

の急激な発展が始まることになる。
ところが、イスラーム法においては、「喜捨」は「義務」であり、収入の何割かは喜捨を行うことが、各人の来世を賭けた義務として、行うことが求められているし、貨幣は紙の上に書かれただけの「記号」としての、ペーパーゲームを

として否定しているわけで、つまりは、金の延べ棒で管理されるし(つまり、膨大な金の延べ棒は、そもそも「管理」が現世的な意味で大変というリアリティがある)、利子が許されない。それは、国家についても同じであって、キリスト教において「教会」が聖性であり、権威の源泉として機能する「比喩」として、国家が解釈されるのに対して、イスラーム法において、国家とは、なにものかではない。つまり、イスラーム法における、権威の源泉として、国家を位置づけることができない。権威はあくまでも、クルアーンといった神の言葉であり、イスラーム法学者にあるのであって、それ以外のなにか聖性を与えるような

  • 複雑で分かりにくい

ロジックが排除されている。こういった考えは、同じイスラームの文化を共有していながら、一方では、サウジアラビアのように膨大な石油によって、裕福すぎる国民がいる一方で、その周辺の国々の国人は、たまたま石油がないという理由で、飢えて死にそうになっているのに、この

  • 線引き

によって、潤沢な福祉を受けられる国民と、その外の外国人で区切られていることの「不自然」さを、現地の住民に感じさせることになる。

中田 そう、それなんです。そこに特筆すべきことがあって、イスラームは他の土地を征服していく際、自分たちの宗教を信仰するようにとは、決して強要しなかったのです。おかげで民衆の反乱が殆ど起こらなかった。千年以上もつ安定したイスラーム法による「法の支配」を施行する全体の外枠のようなしくみだけを作って、そこに自由な貿易圏を展開したというイメージです。もちろん、ムスリム自身もその中を自由に泳いでいきました。宗教としてのイスラームが広がっていったのはもっと後です。百年、二百年の時間をかけてゆっくりと受け入れられていきました。

中田 ええ。先にも言ったかも知れませんが、イスラームは相手の内面にはあまり興味を持たないのです。相手が攻撃してこない限りですけれど。ですから、それに比べると現在のアメリカの占領政策はいかにも稚拙だなあと思うのです。

中田 イスラームって、他者に対してはある意味政教分離的でもあって、宗教としての枠組みと法による共存の枠組みは別ものと考えるのです。これ、けっこう高度なグローバリゼーションであろうと思います。かえって欧米の方が混同していて、政教分離と言いながら宗教的な価値観を背負って相手の陣営に攻め込んでいるところがありますよ。民主主義も人権も、彼らは宗教と思っていませんが、立派な宗教であり、特にアメリカにはその狂信者、宣教師がたくさんいます。

中田 はい。欧米、欧米と十把ひとからげに言うと乱暴なので、もう少し細かく言いますと、ヨーロッパでも東方教会はほんとの政教分離です。戦時中でも政教分離の原理を貫いて、その時の政権がどんな政権であっても彼らのために祈ります。自分たちは政権に関わりません。しかし、西欧のキリスト教は結局政権に関わるんです。なぜかと言うと、彼らの政教分離の原点は、「世俗」と「宗教」の分離えはなく、「国家」と「教会」の分離だったからです。もともとローマ帝国と教会が闘っていて、どちらも官僚組織で、どらも地上の権威でかぶるので----教会の方は来世の幸・不幸に関わる権威、国家の方は現世の利益に関わる権威というだけの違いです----、教会を政治に関わらせないようにしたのです。そうして、政教分離は成ったということにした。しかし、それは本質的な分離ではないわけですから、為政者はなまなかな宗教心を抱いたまま戦争し続けることになる。そこが西欧キリスト教のいちばんの問題だと思います。オバマさんだって敬虔なクリスチャンですからね。

私が以前から疑問に思っていたことは、「自由」という言葉であった。というのは、なにが「自由」なのかがよく分からなかったからである。リバタリアニズムにおける、私的所有権は、つまりは、

  • 他人に迷惑をかける「自由」

のことを、それを行う権利を「私的所有」している、という意味において、「自由」だと言っているにすぎず、自由であるとは、「その行為を行う」人にとっての側からの解釈のことを言っているのであって、

  • その行為の「迷惑」を受ける

その回りの人たちにとっては、「それ」は「我慢」を強いられることを意味している。つまり、自由とは「私的所有権」のことであって、上記で何度も言っているように、自分の家の回りに

  • 線を引く

行為と同型の行為だと考えられる。このことは、西洋のフランスなどから始まった「政教分離」についても言える。上記の引用にもあるように、そもそも、西洋のフランスなどから始まった「政教分離」は、本当に政教分離になっているのか。というか、一体、何と何を「分離」している、と言っているのか。むしろ、イスラーム法の方にこそ、明確な形でも、

的なアイデアがクリアな形で示されているようにさえ思えてくる。
つまり、本当に問われているのは、なにが宗教でなにが宗教でないのか、その切り分けが、なぜか、西洋のフランスのフランス革命から始まった、西洋思想では、非常に分かりにくくなっている。つまり、自分たちで、

  • これは宗教的対象だ
  • これは宗教的対象でない

ということを「自分たち」で勝手に解釈して、勝手に言っているだけで、そして「それ」を「分離」したと言っているだけで、そもそも、その「線引き」が恣意的ではないのか、といった「懐疑」がなされない。
民主主義も人権も「宗教ではない」と言っているのは、キリスト教徒たちの一種の「解釈」であって、普通にイスラームの人から見れば、そういった線引きは、普通に「恣意的」にしか見えない。
上記にあるように、そういった敬虔なクリスチャンだからこそ、オバマアメリカの大統領になれたのであり、これからも、アメリカの大統領が敬虔なクリスチャンであり続けるであろうし、そうであるからこそ、空爆をいつまでも続ける。今の中東の勢力地図は、アメリカの介入によって生まれた「モンスター」たちによる勢力地図であり、このアメリカを始めとした「十字軍」と、現地のイスラームにおけるパワーバランスによる、ナイーブなまでもの暴力の連鎖は、悲しいが、止まらないのであろう...。