神輿は軽い方がいい

小沢一郎自民党にまだいた頃、彼は掲題のように言った。つまりこれは、総理大臣について言っていたわけであるが、基本的に、日本のエリートの行動原理は、このままだと言えるのではないだろうか。
アベノミクスと呼ばれる、リフレ政策を安倍首相が採用したことで、リフレ派は、全員、安倍首相に心頭してしまったわけであるが、しかし、この事態を「軽い神輿」論で考えられない、自らを俯瞰的に、相対的に、見ることのできないエリートたちの姿勢が、安倍首相を今の暴走状態にしたわけであって、そういう意味においては、今回の事態をもたらしたのは、安倍首相の回りに群がる、エリート官僚たちの「非倫理的」な姿勢にこそあったのではないか、とも考えてしまう。
安倍首相は、そもそも、私たちが普通に考えるような「優先順位」の通用するような人ではない。彼の最大の目標は、自主憲法制定であるというか、明治憲法の復活というか、まあ、彼が嫌いなのは、戦後民主主義的な一切のものなわけであろう。その彼の目標を達成するためであるなら、アベノミクスでリフレ政策を採用する程度のことなど、造作もなかったわけであろう。本来なら、私たちは、たとえリフレ政策に賛成だったとしても、安倍首相

  • 以外

の人で、もっと穏健で、リベラルな総理大臣を探して、採用することを目指さなければならなかったはずであるのに、安易に安倍首相を「軽い神輿」として、自分たちの政策を推進してくれる人として、ありがたがっている間に、消費税は上げられるは、泥沼の中東戦争に巻き込まれるは、まあ、最悪の事態をよくもまあ、もたらしてくれる、というものであろう。
しかし、そういったことに対しては、エリートたちは「自分は関係ない」としらをきりとおせば、なんとかなると思っている。いやはや、偉い先生がたは、自分になんらかの「権威」なり「聖性」があると言いたいのであろう。つまり、彼らは、どこか「分裂症」のような、精神状態なのかもしれない。
今回のISの人質虐殺についても、彼らは世界中を恐怖させようと思って、ああいった動画を作っているわけで、そして、今回、彼らのその「意図」の通りに、ISを罵倒している人たちが、実際には、そうやって彼らの「脅し」に、まんまとのっかる前までは、中東になんの関心もなく、中東の国々の「腐敗」にもなんの関心も示すことなく、キリスト教十字軍による空爆にもなんの関心も示すことなく、安穏と今まで生きてきておいて、そして実際に、こうやって、まんまとISの策略にひっかかって、こうやって中東のことについて、少なからず考えるようになっていることを考えるに、皮肉な印象を受けるわけであろう。
R15など、はるかに超える、非倫理的な動画を、このように簡単に世界中にばらまかれている現状は、一言で言えば、こういったテクノロジーは、まったくもって、簡単に、こういった「方面」への

  • 応用

でさえも、当たり前のように実現するのであって、まあ、両刃の剣であって、テクノロジーに色はない、ということなのであろう。
私はいずれは、多くの人たちは、こういった中東の勢力を拡大していく連中と

  • 福祉「戦争」

をしなければならなくなっていくのではないか、と思っている。ベルリンの壁の崩壊以降、社会主義勢力の衰退と共に、世界は、1%対99%の対立になっていながら、新自由主義者たちは、あいかわらず、1%対99%政策、つまり、消費税増税という逆進性をより大きくする政策に、血眼になっている。しかし、世界中の人たちを「自分たちの味方」にしたいなら、彼らにより多くの「福祉」を提供すればいいではないか。そのお金をケチるから、ああいった、暴力的な手段をなんとも思わないような連中の勢力の拡大を許すわけじゃないか。そういった連中に引き付けられるような人たちを、自分たちの側に魅力を感じさせるためには、自分たちが提供するものが魅力的に映るようなものにすればいい。具体的には、もっと福祉を提供すればいい。というか、彼ら暴力を手段とする勢力に「勝つ」ために、むしろ、世界は

  • 再度

社会主義的な高福祉政策が、より世界を席巻する時代へと突入していくのではないか、とも考えるわけである。つまり、リバタリアニズムであり、新自由主義的な、私的所有権主義は、

  • 暴力

のテクノロジカルな過激化によって、微温的で安穏とした平和の中を生きていたイノセントでウブな富裕層を「恐怖」のどん底に落とすことで、彼らを「ナーバスブレイクダウン」させ、神経をすりへらし、少しずつ狂わせることで、より

を長期的に拡大させることで、社会主義的な「福祉」拡大社会へと、少しずつ前進していく、というわけである。つまり、「平和」は高くつく、ということである。

内田 キリスト教には異端審問というものがありますけれど、イスラームにはそういったものはないのですか? 魔女狩りみたいな。
中田 ありません。異端審問ってのは人の内面に踏み込むものですよね。
内田 はい。
中田 イスラームの場合は、人の内心はわからないと考えるんです。だから干渉しない。イスラーウには教義決定機関がそもそもありませんから、キリスト教的意味での正統と異端という概念はありえません。もちろん、さまざまな分派があり、それぞれ自分たちこそが正しく、他派は間違っていると考えていますが、キリスト教とはかなり違います。
内田 内心はわからない。
中田 わかりません。
内田 健全ですね。
中田 異端審問というのは何かをあばき出そうとすることですね。本人は魔女じゃないと言っているのに、無理やり責めて魔女だと言わせる。そういうのはイスラームにはないです。自分が「違う」と言ったらおしまいです。
内田 自己申告なんだ。
中田 イスラームにもスーフィーのハッラージュやシーア派のシャヒード・サーニーの処刑のような異端審問的な事例があるにはありますが、例は非常に少なく、宗教的というより政治的な理由によるものです。また自分の宗教が知られると身に危険が及ぶような場合には信仰を隠すことをタキーヤと言い、シーア派では命じられており、スンナ派でも許されています。内心の問題を神に委ねて詮索しようとしない、こういった柔軟性を千年以上にわたって多宗教が共存する中東アジアに根を張るイスラームの特徴の一つでしょう。
それに対してよくも悪くも、キリスト教西欧文化は人間の内面に精神というものがあると考える。確固としてあると考える。それをすごく重視する文化です。一方、イスラームではあまりそういうことは考えません。と言うより、そもそも内面に最初から悪魔とか悪人とかいろんなものが入っていると考える。それが当たり前だと考える。

変な話だが、私は、はるか未来において、もしも人間が生き残っているとするなら、彼らは、どこかしらイスラム教的な原型をそなえた生態を営んでいるのではないか、と思っているところがある。それは、「デューン砂の惑星」の影響だと思ってもらってもいいが、早い話が、イスラームの世界は、このように、人間関係が「ドライ」になっているので、じめじめした、農耕民族的な陰湿で、いじめ的な

  • 内面

とか

  • 正統

とか、そういった私的所有権的なものから、距離を置いた、世界観を提示できているので、人間関係が楽なんじゃないかと思っているからである。
イスラーム法においては、そもそも「罪」とは、だれかに語るものではない。というのは、罪とは、あくまでも唯一神との関係において、その意味が生まれるものであるから、自分が向き合うものと考えられているから。罪は「自分にとって」の罪なのであって、それは、死んで、あの世にもっていくものであって、あの世での裁きを受けるものであるから、どこまでも自分だけの問題だから、ということになる。まさに「信仰」に関係して、罪もある。信仰があるから、罪があるわけであって、神を信じるから、自分が犯した罪を深刻に考える。同じイスラム教徒として、自分が深くその罪を受け止めているから、相手もきっとそうだと考える。
むしろ、彼らにとって、私たち日本人のような無神論者は、野蛮ということになるであろう。それは、表面的には、残虐行為をやらないし、暴力を避けている、ということなのかもしれないが、信仰がないのだから、罪があると思っていない。あくまで、回りの雰囲気で、コロコロと人格が変わるから、国が好戦的になると一気に、残虐にもかわる。

  • みんながそうだから

と、自分の「気分」だから、いくらでも気変りする。今回の安倍総理の暴走を見ていても、いつ日本人が滅びても不思議じゃないな、と思うわけである orz。