内藤正典『イスラム戦争』

私が今回の一連のISをめぐる事件をみていたとき、最初に「あれ?」と思ったことは、ISの声明が日本政府に向けて、まさに「個別の利害」に関する案件の解決を求める「話しかけ」ではなく、

  • 日本国民に向けた

一種の「呼びかけ」の形をとっていた点に、少し「意外」な感じをもった、というのが最初であった。しかし、私が思った違和感は、むしろ、このこと以上に、日本側の対応の方にあった、というのが正直なところだったと言うべきだろう。
つまり、私はもっと「素朴」に考えていた。日本人全体に向けて語りかけてきているのだから、いわゆる、日本のエスタブリッシュメントはこれに対して、なんらかの「応答」をするんじゃないのか、と思っていたわけである。つまり、いつも「偉そう」に、現代思想だとか、ポスト・モダンだとか、

  • 日本国内向け

に、説教をたれて、小金を稼いでいる「連中」は、当然のことながら、なんらかの応答をするものだと思っていた。だって、そんだけ、いつも「偉そう」にして、日本国内の国民を「啓蒙」しているんだから、当然、彼らにだって、言うべきことを言うんじゃないのか、と。
しかし、実態は、まったく「無反応」と言ってもいい結果だった、と言えるのではないか。
私はそのときに、いわゆる、日本で「思想」とか言っている連中って、違うんじゃないのか、という印象が強くなった。それって、なんらかの「建前」とか、ウェルメイドな「商売道具」として「マーケティング」として言っているだけで、本気で「思想」とか言っているんじゃないんじゃないか、または、なんらかの「党派」的な一つの「流派」のような、一種の立場を言っているだけなんじゃないのか、といった印象に変わった。
そして、この「直観」は、事件の推移が進むごとに、より強くなってきた、と言えるのかもしれない。
しかし、それと同時に私が思ったことは、むしろ、彼らのそういった行動は、かなり「確信犯」的なものだったのではないのか、といった疑惑と言っていいだろう。

フランスは厳格な世俗主義を国家原則にしている国ですが、二〇〇四年から、公立学校に通う生徒がスカーフやヴェールを被ることを禁止しました。さらに、二〇一〇年になるとポピュリストのリーダー、サルコジ大統領の下で、公共の場所で顔をすっぽり覆う被り物を着けることを禁止する法律が制定されます。この法律、「ブルカ禁止法」として知られていますが、そもそもブルカというのはアフガニスタンの女性の被り物を指す名称です。フランスにはブルカを被っている女性は、いないと言ってもよいくらい少数です。
この法律については、次のオランド大統領も支持しています。フランスでは、右派も左派も、イスラムが公的な空間に現れることを極度に嫌います。イスラムに限らず、すべての宗教的なシンボルが公的領域に「可視化」されることを禁じるというフランス憲法の原則があるからです。これをライシテといいます。日本語では、適当な訳がないのですが、便宜的に世俗主義としておきます。世俗主義というのは、信仰は個人のプライベートな領域の中だけにとどめるべきだというイデオロギーです。したがって、行政、司法、立法、公教育などにおいては、非宗教性の原則を守らねばなりません。

スカーフ問題は女性に対して抑圧的=後進的な宗教だという一例として頻繁に取り上げられるテーマです。「イスラムは女性の人権を認めない宗教だ」と決めつけている人にとっては、スカーフこそ格好の人権抑圧の象徴ということになります。女性だけに、なぜ被り物をさせるのか? 女性は顔も出して歩けないのか? というのです。
クルアーン』には、スカーフを着けよ、とか、ヴェールを被れ、といった明文の規定はありません。イスラムの行為規定にあるのは、男女とも身体のうちで性的なところを隠せということだけです。女性の髪やうなじについては、隠すべきものとされています。ただし、罰則規定はありません。
現実から言えば、羞恥心を感じるなら隠すことになります。そのような行為はイスラムに限った話ではありません。
日本でいえば、ミニスカートをはいて脚を見せる人もいれば、ロングスカートで脚を隠す人もいる、といった違いに過ぎません。女性の身体をどう表現するかは、女性固有の権利であって、フランス共和国が命令することではないはずです。

つまり、彼らだって、フランスを代表とするヨーロッパ各国で、ムスリムに対する、さまざまな抑圧的な状況は以前から知っていたわけで、そうでありながら、ルソーの一般意志だとかなんだと言っていた、と。こういった状況分析が現実に、存在しながら、まるで、ルソーの一般意志が「未来のユートピア」であるかのように語ることが、今この、ルソーの社会契約を実現させたと考えられた、フランス革命であり、その結果としての今のフランスという国の、この現状を知っていながら、

  • 今この時でさえ

こういった問題が存在していながら、この「延長」に、まるで「ユートピア」があるかのように語られたことに、大きな疑問があるわけである。
しかし、他方において、この問題が「テロリズム」として語られてきた文脈を考えたとき、彼ら日本のフランス現代思想哲学者たちが、徹底して彼らを無視しているその姿勢が、

  • テロリストは話し相手ではない

つまり、

  • テロリストは「狂者」である

といった、いわゆる、フランス現代思想の中心的なイデオロギーである「精神分析」医学の延長で考えられている「から」、と考えることの方が、非常にクリアなのではないか、と思ったわけである。
たとえば、アニメ「サイコパス」では、凶悪犯罪は、完全に「心理学」の範疇の問題とされていて、実際にこのアニメでは、そういった対象は「社会の排除の対象」を意味するしかない。つまり、「対話」の相手と考えられていない。このことは、上記の例で言うなら、ムスリムの人たちが人前でスカーフを被ることは

  • 自分たちが理解できない「狂気」

として、非合理な凶行として、精神医学の中に囲い込もうとする。つまり、スカーフを被ることが「自由」ではないのか、という発想がない。自分たちが「理解」できない、なぜ被るのかが、わからない。そういった「不気味」なものとして、

  • 狂気

として、社会から排除しようとする。中東のムスリム社会が、長期的には穏健派による、なんらかの平和な秩序形成に向けて進むことは、楽観的な希望であり、理想ではあるが、現状において、ISが逆十字軍として、アメリカやフランスなどの「キリスト教十字軍」への対抗として、ああいった、相手に「恐怖」を与えることを目的とした、残虐な処刑を「公開」するような、蛮行に及んでいる現状において、どこか

のような、キリスト教の側から見れば、ISは「狂気」の集団なんだと、狂っているんだから、あんな意味不明のことをやっているんだから、問答無用で、この世界から、なによりも優先して、抹殺して、消し去ればいいんだ、と。見えなくなれば、といった、まさに、アニメ「サイコパス」の世界になっちゃっているわけでしょう(アメリカを代表する「キリスト教十字軍」が、このアニメにおける、シビュラ・システムで、無人機を使って、どんどん空爆で人殺しをしていて、と)。
このことは、対話が成立しない、というより、キリスト教徒の側は、イスラム教徒を最初から理解するつもりもないんだけど、そうやってぶっちゃけちゃうと、身も蓋もないから、彼らはテロリスト集団だから、と言った「もっともらしい」理由をもってきて、対話拒否の「理由」づけにしているわけだけど、本当にそうなのか、というわけでしょう。そもそも、異教徒と話す気なんかないんじゃないのか、といった雰囲気が、上記のフランスのスカーフ禁止の法律の成立からもうかがえるわけでしょうし、今度はISの方からすれば、彼らからすれば、グアンタナモの刑務所での残虐な拷問とか、ネタはいくらでもあるわけで、そもそも同害報復の考えのある宗教の人たちなわけで、この

的なモチーフによる「エスカレート」が続いている、という現状が諸悪の根源と考えない限り、つまり、お互いがどこかで、この状況を俯瞰的に考えるような「穏健」な方向に向かわない限り、平和的解決はなかなか実現していかないんじゃないのか、と。
(中途半端な「合理主義」で、どっちかは、言っていることが「おかしい」とか、狂人認定して、分かったことを陰で言っていても、そんなものは、自分の「主観」でしかないわけでしょう。相手の「批判」にさらされていない、安全な場所から言っている、「合理主義」にすぎない。つまり、自分の内面の中での「ムテキ(無敵)」にすぎないわけで、なんらかの「対話」の可能性を目指していかない限り、平和はありえない、ということなのでしょうね、)

懸命に努力して就職しようとして、会社に電話するとしましょう。どちらにお住まいですかと聞かれて、パリの北の郊外の街、たとえばクリシー・スー・ボアという地名を答えたとしましょう。会社は、丁重に、採用がないことを告げるはずです。この町は、移民だけではなく、低所得層向けの公共住宅が集中しているところですが、二〇〇五年に若者たちが暴動を起こしたことで知られています。それに、ムハンマド、アリ、アイシェ......、名乗った瞬間、イスラム的な名前であるとそれだけで職を得られないこともあります。
フランスの場合、ある種、たいへん質が悪いのは、こういう差別に直面するムスリム移民の若者に対して、フランス社会が何の対応も取らなかったことです。取らなかったというより、構造的に取れないと言ってもよいかもしれません。なぜなら、自由、平等、博愛の国では、移民でも誰でも、個人として国家に統合されるとされているからです。アルジェリア人として、アラブ民族として、あるいはムスリムとして集団的にフランス社会に統合するという考えはまったくありません。これが、ベンガル人のコミュニティ、カシミール出身者のコミュニティというように、民族の集団ごとに統合を図ろうとしたイギリスとの大きな違いです。
むしろ「アラブ人」に対する処遇の仕方、「ムスリム」に対する処遇の仕方を決めていればまだよかったのかもしれませんが、フランス共和国は頑として「個人」として国家の一員になるとういう考え方を崩しません。
そのため、たとえ一人のアルジェリア出身者が日常生活の中でなんらかの差別を受けても、フランス共和国における構造的差別の問題とは認識されない仕組みになっているのです。居住地を聞いただけで採用を断った企業の人事担当者が、個人として差別主義者だったというふうに処理されます。アルジェリア人として差別する制度も、アラブ人として差別する制度もないからです。
しかし、言うまでもありませんが、差別を受ける側は、自分が、ムハンマドやアリだったから差別されたとは思いません。自分がアルジェリア人だから、自分がアラブ人だから、自分がムスリムだから差別を受けたと思うにきまっています。

このフランス社会が、こういった「構造」的な差別温存の仕組みをもっていることを考えたとき、彼らが何らかの、その社会における「居場所」の不在に気付いたときに、中東から「同胞」と呼びかけられ、まるでそこに、自らの居場所があるかのように受けとる若者が少ないながらも、慢性的に現れ続けるとき、ここで言う

が、一体、いつになったら、その「テロリスト」なる存在がいなくなるのか。どうやったら、いなくなるのか。こうやって、現に、若者が「補充」される構造がある所に。補充され続ける若者を、一人一人、抹殺し続けて、本当にいいのか。それこそ、アニメ「サイコパス」の世界であって、若者をいくら殺したって、きりがない。本当に戦争を終わらしたいと思っているのか、本当は、

を「やりたい」というのが本音なんじゃないのか、といった、この憎しみの連鎖に対する「疑い」がはれないわけであろう。
こういった現状において、安倍さんは山口県長州藩とゆかりのある政治家で、長州藩といえば、下関戦争から、基本的に米英従属路線で、日本革命を成功させた親米保守なわけで、その安倍さんがイスラエル大好き、なわけでしょう。イスラエルは今だに、中東の多くの国々が独立国として承認していない状況なわけで、この状況での前のめりのイスラエル軍事同盟は、相当に彼のリップサービスには気をつけなければならない。しかも、安倍さんはハリウッドの西部劇が好きなわけで、どこかまでもキリスト教的なのと親和性が高いわけで、なかなか危なっかしい状態が、彼が総理大臣でいる間、ずっと続くということなのでしょう...。