アニメ「サイコパス」とイスラーム法

アニメ「サイコパス」を映画館で見ていたとき、私の脳裏にあったのは、このアニメが徹底して描こうとする「サイコパス」、つまり、近代的な

  • 心理学主義

と、「イスラーム法」の考え方の違いについてであった。このアニメで描かれる「サイコパス」とは、ある種の

  • 心理状態

のことを言っている。この心理状態が、ある一定程度のリミッターをふりきったとき、現代において「病気」と呼ばれる状態へ遷移したことを意味する。
この病気状態においては、その人の行動をもはや、意志をもった、人格者として扱うことはできない。病者の特徴は、犯罪を犯しても、その「責任」を問えない状態であることにある。つまり、法廷において、一方のロールを担うアクターとして振る舞うことが不可能と判断されることによって、その責務から解放されると同時に、そのゲームのプレーヤーでありたいと思っても、その役割は決して、与えられない、ルールのプレーヤーであることから排除された存在としてあることを強いられる立場だと言えるだろう。
言うまでもないが、このアニメ「サイコパス」の世界において、「サイコパス」認定をされた人間は、たんに病者として扱われるだけには、とどまらない。この「サイコパス」という「病気」が問題なのは、

  • かなりの蓋然性

において、彼らが社会の凶悪犯罪を犯すことが「知られている」ため、公権力は、この「病者」を

  • その場

で、この「病気」が発病した「時点」で、抹殺する「権限」が与えられている、ということなのである。
しかし、である。
こういったディストピア社会は、一種の「心理学」が、なんらかの意味における、「科学」の特権を与えられる社会においては、必須の方向のようにさえ思えてくる。人には「心(こころ)」がある。心理学が、その人の心を「決定」するというなら、その人の社会的な

  • 危険度

は計量可能ということを言っているのと変わらない。社会の重要な目標は、この社会自体の「オートポイエーシス」であると考えるなら、この社会の秩序に、蓋然的に危機をもたらす「心理」が

  • 存在する

と言うのだから、その「心理」を排除すれば、この社会のオートポイエーシスは保たれる、ということになるであろう。
ところが、この映画を見ていた私の印象は、なぜ、この日本に来た「テロリスト」は、イスラーム教徒でなかったのか、ということが不思議だったわけである。つまり、「サイコパス」という心理学主義と、イスラーム法は、相性が悪いわけである。
イスラーム法において、罪とは、「自分と神」との関係において、成立するものである。つまり、自分の「罰」とは、自分が死んだ

に自分が受ける裁きのことである。そして、さらに重要なことは、「罪」とは、

  • 意図

のことだ、というわけである。大事なポイントは、近代刑法において言われるような、「形式犯罪」は、罪にならないわけである。なぜなら、それは「自分がやろう」としてやったことではないから。このように考えたとき、一体、「サイコパス」は、イスラーム法における

を構成するのだろうか? イスラーム法は、結局のところ、他人の心に関心を寄せない。それは、他人に心がないからではなく、その人の心を「分かっている」のは、唯一神であって、人間ではない、と考えているからだ。それは、「なにが罪なのか」といった命題に深く関係している。
罪とは何か? 近代刑法の意味における「罪」について考えている人には、これほど奇妙な問いはないだろう。なぜなら、そうでなければ、犯罪はとりしまれないから。実際に、警察が犯罪者を逮捕して、有罪にしている「事実性」において、なにが罪でなにが罪でないかを問うことには、意味がない。実際に、「そう行っている」という事実が、本当はなにが罪でなにが罪でない、といった命題を不毛なものにしているわけである。
他方、イスラーム法において、罪とは、あくまでも、イスラーム信者と唯一神の二者の間「だけ」の問題にすぎない。本質的には、この二者の間の関係以外から、この「罪」というリアルがあらわれることはない。罪は、イスラーム信者が、死んだ後、唯一神から下される裁きのことであって、それ以外にありえない。よって、イスラーム信者は、生きている間、何が罪で何が罪でないかを、自分で考えて、生きるしかない。この選択において

  • だれかのせいにできない

わけである。大事なポイントは、キリスト教のように、だれか「偉い」人に、自分の代わりになって、なにが罪でなにが罪でないかを決めてほしいと思っても、本質的な意味において、これを、肩代りして、やってくれる、または、やることの権威を与えられている立場が、どこにもいないのが、イスラーム法なのである。
たしかに、イスラームには「学者」はいる。しかし、学者は「あくまで」も、一人の真理探求者であることを意味しているにすぎず、学者「だから」正しい、ということになるわけでもない。多くの学者で言っていることは違うし、お互いで「けんけんがくがく」、かまびすしく、話し合うのが学者であるというだけで、いわゆる、キリスト教の「神父」のような、神によって、なんらかの「聖性=権威」を与えられた、権威の階級が「一切ない」のが、イスラーム法だと考えるといいのではないか。
なぜ映画版「サイコパス」の舞台に、イスラーム教が全面に出なかったのか。それは、イスラームの考えでは、いわゆる、心理学で言うところの「狂気」のような概念になじまないから、なのであろう。イスラーム信者はだれもが、唯一神との対話の中を生きており、すべての信者の行動は、「信仰」に従った行為であり、善行である。問題は「それ」を、狂気だとか、サイコパスだとか

  • 上から目線

で言うことを可能にするような、一切の「超越」を認めないのが、イスラームの信仰だということである。
こういった上から目線は、いわば「キリスト教」的作法だと言えるだろう。キリスト教において、そもそも、世俗には「神の権威の一部をさずかっている」権威者がいる。それが、教会であり、教会の神父である。では、国家はなにかと言えば、教会の一部の機能を代替するものとして、ある種の「聖性」を、国家も分有する。同じように、この国家の一つの機関として、大学であり、大学教授も、その「聖性」の一部を分有することになる。
よって、キリスト教において「正統」と「異端」が重要であり、絶えず、この二つの概念をめぐって、戦いが続けてきたように、大学教授たちも、一種の正統異端論争を繰り返すことになるが、そのことは、彼らの「権威=聖性」が、分有されること(=偉そうな態度であること)と、不可分の関係にあるわけである。
イスラーム法は非常に「シンプル」な構造になっている、イスラームにおける「創造神」とは、この世界を作った存在である。この存在以外を崇拝するな、この存在だけを崇拝しろ、と言っているわけである。もちろん、こう言ったとき、その「世界を作った」といった表現を、あまり擬人的にこだわる必要はない、問題はそんなところにはない、この世界を作ってもいない「偶像」を崇拝するな、と言っているのであって、そう考えるなら、この教えは非常にシンプルな主張であることが分かる。むしろ、日本のような多神教アニミズムは、この唯一神信仰の「一部」として解釈できる、とも言えるわけで(多神教と言っている時点で、イスラーム唯一神とはまったく違った意味で「神」という言葉を使っていることが分かるので)、非常に普遍的な倫理的な信仰である、と解釈できるわけである。
アニメ「サイコパス」は、多くの人はあまり意識していないが、この「心理学主義」を強く全面に出しているその性格は、典型的な

的な世界観であり、キリスト教的な「国家」観が全面にあらわれた様相を示している。しかし、よく考えてみてほしい。つまり、キリスト教徒だって

は、今のイスラーム教徒のように「罪」や「罰」について考えていたのではないか。いや、今だって、どこかしら、そういった側面があるんじゃないのか。つまり、イスラーム法は少しも古くない。もっと本質的な、私たち自身の「起源」にさえ関係しているような、重要で、決して捨ててはならない何かを示しているのではないか。
こういったアプローチを、ニーチェの系譜学と言ってもいいが、ミッシェル・フーコーが言っていたことが、まさに、このことなわけであろう...。