佐藤次高『マムルーク』

近代国民国家、ネーション=ステートを考えるとき、その大きな正統性の源泉として、近代科学があるのではないか、と思われる。つまり、近代科学の発展によって、人間は人間社会を破壊できるのではないか、といった考察が現実になり始めている、といったリアリティを多くの人たちがもつようになってきた、と。
その一つの例が、原子力爆弾であろうが、そうでなくても、ある一定の地域が何百年も人が住めない場所になる、といったようなことを、人間が、そのように変えることが「可能」なのではないのか、といったことが具体的に、想像可能な、手段を伴った考察が可能になってきた、と思えば思うほど、社会はそういった「可能性」に対して、なんらかの対応を考えなければならないのではないか、と思い始める。
それは、結局そうなってしまってからでは「遅い」から、ということになるであろう。つまり、復元可能性が著しく低い、といった分析が最初にあるわけである。
このことを最も、カリカチュアに描いているのが、アニメ「サイコパス」のシビュラ・システムであろう。ここにおいては、では、どういった人間が「危険」なのか、というのを、

  • 狂った脳味噌

に求めている。つまり、狂ってしまって、もう復元不可能なレベルまで、振り切れてしまった人間は、もはや、なにを行ってもおかしくないのだから、

  • その場での抹殺

が「適当」なんだ、というフレームになっている。この地球さえも破壊するような「意図」が生まれている時点で、そいつは狂っているのだから、ひとまず、そういった危険分子をまず、社会から排除すれば「安全」だ、という考えになっている。
しかしここで問題なのが、

  • むしろ、この「犯罪者予備軍の排除」によって、人類は滅びないのか? つまり、こんなことをやっても、やっても、次々と「人類を殺せる手段」を思いつく人々は次々とあらわれて、イタチごっこなんじゃないか?
  • むしろ、この「犯罪者予備軍」こそ、社会を牽引するような「エリート」であって、こういった「エネルギッシュ」な高学歴連中を殺し尽したら、呑気な「低学歴者」しかいない社会にならないか?
  • そもそも、「殺意」をもった人間が一人もいなかったとしても、3・11の原発事故のように、「事故」によって、人類は滅びるのではないか?

つまり、なにが言いたいかというと、「科学の発展」をしてしまった以上、どんなことをしても、人間が滅びることは避けられないのではないのか、といった疑問だと言えるだろう。科学の発展は、私たちが考えることは「自由」とされているからだ、ということになる。どんなことも考えていいから、

  • 新しい

ことを発見する。発見してしまうのだから、それを「応用」して、どんなことだって起きうる。人類が滅びることだって、地球上に生命が住めないようにだってなりうる。
そうだと考えるなら、むしろ、なんらかの「管理社会」とは、管理することによって、人類が生き延びることが目的なのではなくて、そうやって「脅す」ことで、人々を萎縮させる、人々の「自由」を制限すること、行動を「タブー」にさせることが目的なのではないか、とさえ考えてしまう。
こういった思考の延長には、本当に「人類は自由に生きていいのか」という問題がある。人間は自分が考えたままに生きていいのか。もしも人間が自由に生きることによって、人類が滅亡し、地球が生物の住めない環境になるとするなら、それでも人間の自由を擁護できるのか。
このような問題提起が興味深いのは、掲題の本が注目しているように、歴史的に存在してきた

  • 奴隷

と呼ばれる「概念」が、実際には何を意味してきたのか、といったことについて、あらためて、考えさせられるから、と言えるのかと思うわけである。
奴隷とは、なんらかの意味において、ある人間の「自由」が制限されている状態のことを言う。しかし、ここで、次のようなことを考えてみよう。ある農業を行うことによって、農作物を作り、生き延びてきた村があったとする。その村の農業は、多くの人手が必要な作業があるのだが、もしもそれだけの多くの人手を、その期間に確保できなかった場合、

  • 全員が飢えて死ぬ

ということが分かっている、としよう。しかし、だれも、その過酷な作業を自分の意志でやりたがらなかった、とする。その場合、その村が「生き延びる」条件は、強制的であったとしても、それだけの労働力を確保できた場合に限定される。
私は、基本的に、これが「奴隷」だと思っている。奴隷について考える場合に、大事なポイントは、

  • もしも、だれも奴隷にしないで済むなら、それにこしたことはない

ということである。もう一つは、

  • ある人たちが奴隷であることは、彼らがある「制限」の中にいることを意味しているにすぎず、つまり、奴隷自身が「その中にある」ことへの少なからぬ「自発性」がない限り、奴隷化させることの「メリット」を獲得できない

ということである。すべての奴隷が「奴隷になるくらいなら死んだほうがましだ」と言って、みんな自殺をしたら、奴隷の労働力をあてにした、生き残り戦略は失敗する。よって、すべての奴隷制度は、なんらかの

  • バーター取引

を内包している。少なくとも、一定の割合において「生き延びさせる」ことを実現しなければ、そもそも「奴隷制度」自体が継続しないわけだ。
ではなぜ、現代社会は奴隷制度が廃止されたのか。その一つの理由として、農業の大規模化などによって、そもそも、農業自体が多くの労働者を必要としない形態に、コンピュータが変えてきた、ということになるであろう。つまり、人々は奴隷を

  • 必要としなくなった

わけである。奴隷がいなくても生きていける、というわけだ。
私がなぜここで、突然、奴隷について書いているかというと、例えば、なぜイスラーム

  • 異教徒

との、この地球上での共存が可能だ、と彼らは考えるのか、といったことを考えていたとき、そんなに単純な話ではないんじゃないのか、と思えてくるから、である。

つまり、イスラーム法は宗教的なタブーではない。そして、イスラーム法の適用範囲はムスリムに限られる。イスラーム社会の秩序を乱さない限り、ムスリムでない人間が何をしても、イスラーム法上は関知しないのです。だからそういう意味ではタブーも何もなく、どうでもいいわけです。
もちろん、社会生活を営むうえでの共存のルールはあります。たとえばイスラーム社会で商売をするなら、その場合にはイスラーム法の規定があります。といっても商売ですから、誰がやってもお金を払わないで商品を持っていったらそれは盗みになります、それは同じことです。
ただし、イスラーム社会では、ムスリムでない人間も自分の家から外に出て酒を飲んではいけません。それはもうプライベートな範囲を超える公的な場での行動とみなされますから、公的な場でイスラーム社会の秩序を乱したらとがめられます。
そのほかには、公的な場え公然とイスラームを侮辱すること、預言者を侮辱することは許されません。別に自分の家の中で家族同士で何を言ってもそれはかまわないのですけれども、ムスリムが聞いているような場でイスラームの悪口を言うことは許されない、
イスラーム社会でイスラームの価値観に公然と反対することはやってはいけないし、人々の前でお酒を飲んだり、あるいは十字架を見せびらかしたり、教会の鐘を鳴らすというのは許されません。それは信仰の自由とはまったく別の社会規範、法規範です。

このことは、「村社会」の中と、そこにやってくる

  • 外国人

の関係に似ている。どんな村でも、基本的に外国人、異邦人は歓迎される。ただし、彼らがその村を「尊重」する限り、だと言っていい。つまり、敵対する「ため」にやってくる連中、「戦争」をするためにやってくる連中は、言うまでもなく、

  • 歓迎してもらえるわけがない

という、しごく当然のことを言っている、とも解釈できる。
私が疑っているのは、イスラーム法において、そもそも、「異教徒」は、最初から前提にされているし、そもそも、イスラーム法は、地球上のすべての人々がムスリムになる、ということを想定していないのではないか、といった感想である。

奴隷によるイスラム信仰は、自由人の場合と変わりがないとされていた。むろんイスラムの信仰を受けいれたからといって自動的に奴隷身分から解放されたわけではなく、奴隷のイスラム教徒が多数存在したことはいうまでもない、また自由人と奴隷の信仰は同じであるとはいっても、奴隷には金曜日の集団礼拝、メッカ巡礼、あるいは聖戦(ジハード)への参加についてきびしい義務が課せられることはなかった。つまり奴隷は、ムスリムとしての義務をまっとうすべき責任ある人格とは認められていなかったのである。刑罰の適用についても同様のことがいえる。窃盗と背教の場合をのぞいて、奴隷の刑罰は自由人の半分であるとされていた。それゆえ、たとえ殺人の罪を犯しても、意図的でないことが証明されれえば、奴隷が死刑を宣告されることはなかったのである。

しかしそのいっぽうでは、奴隷の虐待は禁じられ、奴隷身分からの解放が積極的に奨励された。コーラン(第四章九二節)は、もし信者が過失によって他の信者を殺した場合には、信仰ある奴隷をひとり解放すべきことを定めている。また奴隷の解放は最後の審判の日に天国へ入るための重要な善行のひとつに数えられたから、奴隷所有者のなかには、死の床についてからいちどに奴隷の解放をおこなう者も少なくなかったのである。

イスラームにおけるムスリムの「信仰」は、どこか、古代ギリシアにおける「ポリス」における「市民」に似ている。イスラーム法は、奴隷への「虐待」を認めない。それだけではない。奴隷は、ムスリムの「自由人」、つまり、被奴隷たちとは異なり、

  • 厳しい戒律

を守らなくて「いい」とされている。それは、異教徒たちがイスラームを知らないがゆえに「罪がない」のと似ている。ムスリムの自由人たちがイスラーム法を「守る」のは、古代ギリシアのポリスの市民が、戦争に、戦士として参加するのと同じように、その厳しい「法」を守ろうとすること自体が、彼らの

  • プライド

を与えている、という関係になっており、つまりは、奴隷や異教徒が、このイスラーム法を守らないこととの対比において、一種の「自由がない」ゆえの「自尊心の調達」が成功している。
ここには、奇妙なネジレがある。奴隷は自由である。自由であり、なにをやってもいいがゆえに、イスラーム法を守る自由人たちに比べ、なにものにも縛られていない。犯した罪も軽い(奴隷は所有者の自由人にとっての、労働力などのさまざまな「権利」に関係するものだから、

  • 罪を知らない

がゆえの、軽率な行動に対して、いちいち重い罰則を課していては、「元がとれない」といった事情もあったのであろう)。
奴隷は最初から、自由人たちにとっての「経済的事情」が強いる人間関係である。つまり、この奴隷が彼らに、一定の労働力を提供してくれないと、自分たちの食料の確保がままならず、長く生きていけない、といった「労働条件」が、このような関係を「本意ではないけど」やらざるをえなくさせる。
このように考えたとき、そもそも、イスラーム法において、「異教徒」は、常に一定数必要といった含意があるんじゃないのか、とも解釈できる。ムスリムであることは、それだけで「幸福」なことである。少なくとも、信仰をもっている人たちはそう考える。だとするなら、その「ありがたさ」は、全員がその条件を満したら、感じられない。つまり、そもそもそんなことはありえない、と考えている節がある。もっと言えば、異教徒には異教徒の「役割」がある、ということにまでならないだろうか。
信仰のある人たちは、その信仰に縛られた日常を送る。しかし、そのことが彼らに、さまざまな「リスク」を含意している可能性がある。つまり、そのことによって、人間社会は滅びることになるかもしれない、しかし、「異教徒」は、その縛りに「自由」である。つまり、人間全体を考えたとき、そういった異教徒によって、地球は滅びから免れる可能性がでてくる。一種の「集合知」のような関係になっている、と言えるだろうか...。