中田考『カリフ制再興』

中田先生のイスラーム法の話を、多くの日本人がうまく聞くことができないことについて、ひとまずは、イスラーム法とは「イスラーム教徒」たちにとっての問題である、といったところから理解する必要があるように思われる。

中田考 民主主義とか自由とかそれにイスラムが敵対していると思っているというのがありましたけど、実はそうではないというのがですね。イスラムって基本的に他人に干渉しないんですね。特に、アメリカとか、非イスラム社会ですね、非イスラム社会が民主的であることとかですね、自由があること、人権があることについて、大歓迎しているわけです。基本的には、イスラムの考え方だと、人間は法を必要としているわけです。しかしそれは、不完全なものなので、神から完全な法を与えられた、それがイスラム教徒なんだと、ところが、西洋社会というのは自分たちで、それなりに一生懸命、特にキリスト教の場合、そういうのを作ってきたので、だから、たとえば、カラフィ・ジハーディは、イスラム社会で迫害されていて、彼らのかなりの多くは、西欧に亡命しています。歓迎しているわけですね。ただし、我々のところにきて、せっかく、イスラム法というのがあるところに来て、あなたがたのものを押しつけられるのは困るんですけど、あなたがたがそういうものをもっているのはいい。
VIDEO NEWS » イスラーム国の論理とそれを欧米が容認できない理由

それは、つまり、今の日本人が「無宗教」だと、自分を考えていることとの関係において、自らの中に「欠如」している何かを、中田先生が話している、ということが、うまく「言語」化できていない、といった関係になっているのではないか、と。
例えば、なぜ明治以降の日本の国家形態は、このような近代西洋において普及していた「国会」の形態で行われているのか、といったことは、よく考えてみると、うまく説明できない。別に、そういった欧米の地域のほとんどの国民である、キリスト教徒やユダヤ教徒が、日本のマジョリティだったわけでもないわけで、彼らが「採用」している政治制度をなぜ

  • 採用

したのか、をどのように説明したらいいのか、が分からないのだ。
(この問題を本気で考えようとすると、かなり深刻な事態への認識に導かれる。つまり、明治革命政権によって行われた、西欧近代国家構想は、実際のところは知らず知らずのうちに、「キリスト教ユダヤ教」への日本人の強制的な宗派変えの側面をもっていた、とも考えられるからである。西欧近代国家の「採用」と、「キリスト教ユダヤ教」における、例えば、キリスト教における「教会」との関係は、切っても切れない、深い「関係」がある。つまり、

  • 意味

として、この二つは簡単に分けられない。つまり、明治以降の日本の近代国家体制の「正統性」は、「キリスト教ユダヤ教」の理論なしにはありえない形になっていたのではないか、とも考えられる。そして、そのことは現在の安倍政権が、ほとんどアメリカの「意向」に犬のようについていくことしか考えていない、アメリカに気に入られることでしか、自らのプライドを意識できない、

と呼ばれるような、ほとんど「矛盾」でしかないように思われる様相を示していることを説明する。)
おそらく、こういったことは、戦後の欧米社会において、アカデミズムにおいて行われた「政治学」と呼ばれる一連の議論の中で、さまざまに議論されていたことであることは確かである。レオ・シュトラウスハンナ・アーレントを一つの出発点と考えてもいい、戦後の政治哲学についての論争は、概ね、

  • 「欧米」政治哲学

であり、基本的には、キリスト教ユダヤ教をベースに出発した、西欧「哲学」の範疇で考察されていたものであって、その出発点が疑われることはなかった。例えば、この本でも、ジョン・ロールズの「無知のヴェール」論が紹介されているが、ロールズのこの社会契約論は、いわば、

  • メタ共同体論

の形態になっているわけで、さまざまな出自をもち、さまざまな慣習をもった、多くの民族や宗教に生きている人々に対して、

  • その「差異」を、いったん括弧に入れて

なにが言えるのか、といった論理形態になっていることが特徴だったわけで、ある共同体があったときの「その」共同体「内部」の問題を考察しているのではなく、「さまざま」な共同体が、共存していることを前提として、その共存状態をまず認めた上で、各共同体の差異を、いったん「棚上げ」にして、何が言えるのか、といった論理構成になっていることが特徴であった。
しかし、そうであるがゆえに、なぜ中田先生のような「イスラーム教徒」にとってのイスラーム法についての考察が、現代の欧米政治学における考察と

  • あまり関係なく

共存してきたのか、を説明するとともに、逆になぜ、近年において、このお互いの考察の、「あまりにもの相性の悪さ」が、急激に目につくことになってきたのかを目立たせるわけである。
例えば、リチャード・ローティによるリベラル政治構想というのがあった。ここにおいて、政治を成立させる「ユートピア」構想は、他者への「共感」をベースにして行われる「べき」だ、という形式をとっている。つまり、あまりに残虐な行為は支持されない。それは、

  • どんな共同体でも通底する

普遍的な認識なんだ、といった内容をもっていた。しかし、このことだけを考えるなら、まさにこれは「功利主義」のことを言っているにすぎない。功利主義が主張する最大多数の最大幸福と呼ばれる場合の、「幸福」の意味について、「残虐でない」ことが、普遍的な合意を得られる、と考えるのは、実に「功利主義」的な「リベラル」思想であって、だから彼らは格差社会も貧富の差も、

  • 本質的な問題ではない

と言っていられたわけであろう。
こういった功利主義(これは、現在の数理的な手法による計量経済学の基礎と言ってもいい)や、リチャード・ローティの言う「残虐さの否定」といったような主張が、どこか「上から目線」な、

  • 価値観の押しつけ

に聞こえるのは、まさに、そこに「キリスト教ユダヤ教」的な価値観から導かれる彼らの「善悪」の判断が、多分に反映されている、といった印象が、どうしても避けられないから、ということになるであろう。

イラクとシリアの政権はどちらも単に世俗主義であるだけでなくエスニックにも非スンナ派が政権の中枢を担っているという点で、スンナ派にとって反イスラーム性がより一層明瞭であるが、特にイラクは民衆のレベルでも一二イマームシーア派がマジョリティーであり、スンナ派シーア派が流血の抗争を繰り返しており、教義レベルの対立の火に油を注ぐことになったのである。
というのは、一二イマームシーア派は通常はスンナ派をタクフィール(不信仰者扱い)するが、タキーヤ(信仰隠し)によってスンナ派も法的にムスリムとして遇する。しかしシーア派が権力を握るために、マーリキー政権と、イスラーム国の前身で一二イマーム派をタクフィールするサラフィー・ジハード主義イラクイスラーム国とは、相互にタクフィールしあい、コミュニティ・レベルでの凄惨な殺し合いが生じた。それゆえ、相互不信が決定的になり、抜き差しならない対立に至ったのである。

イスラーム国はシリア、イラクの政府および反イスラーム民兵集団との戦闘を継続しながら、住民に最低限の行政サービスを提供し、国家の体裁を整えるために、シリアにおいてのみならずイラクにおいても旧フッサイン政権を担ったバース党に人的資源を求めざるをえなくなったが、強権独裁政権揃いのアラブ諸国の中でもシリアとイラクのバアス党は特に残虐な全体主義的秘密警察政治で知られていた。そのため、戦時体制、治安維持のためとの口実で、イスラーム国の行政に、イスラームとは真逆の全体主義警察国家の手法が、知らず知らずのうちに持ち込まれることになってしまった。

今回の一連の日本政府と、ISとの人質をめぐる不幸な結果について考える場合、どうしてもISが採用する非常に残虐な人質に対する扱いを考えないわけにはいかない。しかし、そのことを考える場合にも、まず彼らの「意図」を理解する必要がある。明らかに、元イラクバース党の関係者を内部の重要役職に抱える彼らが、その延長で、非常に残虐な扱いも辞さないといった行動を行ったわけであるが、この行動が彼らにとって、日本が無邪気にISが今戦っている周辺各国への「金銭的援助」が、もしも非人道的なものにまで、膨大な金額に及ぶなら、それだけの危機感を抱かざるをえないといった「状況認識」があることが理解できる。
こと軍事力ということなら、ISは圧倒的に小さなものしかない。つまり、あまりに弱すぎる。そんな彼らが考えることは、少しでも少なく周辺国の軍事のボリュームを抑えておける「手段」ということになるであろう。
言うまでもないが、イラクという国はフセインがいた頃のような、スンナ派の少数派によって統治されていた国ではもはやない。多数派のシーア派が権力を掌握した後の世界であり、彼らが、かなり前のめりに、ISへの空爆を行うことは、どこか、イスラーム教の中での、

  • 宗派対立

の過激化を意味しているところがあり、単純にISがこの世からいなくなればいい、なんていう話に矮小化できない。
大事なポイントは、彼ら「イスラーム教徒」が多くを占める中東において、彼らが

  • どういった政治形態を選ぶのか?

といった「民族自決」の基本姿勢を、基本的には欧米各国も認めるべきなんじゃないのか、という、しごく当然の筋論の話なんじゃないのか、ということなのである。
このように考えたとき、明らかに、オバマによるISの抹殺計画は、あまりに急で、問答無用で、異様な印象を受ける。つまり、このイスラーム内部での「運動」が、なにかしら、欧米諸国の

  • 痛い所

を突かれている、といった印象を彼らが受けているために、一瞬でも早く彼らをこの世から抹殺したい、といった「正義の後ろめたさ」があるんじゃないのか、という疑いがあるわけである。

中田考 ただですね、ブッシュ的なそれを今超えていると思います。今までのブッシュのときだとそれが強かったと思いますけど、今回は違うと思います。オバマは頭のいい人なので、おそらくこれは、そういう問題ではなくてですね、自分たちの理念自体が脅かされている。そうだと思います。ようするに、今回はブッシュの戦争よりもはるかに直接の脅威はほとんどなくてですね、しかも、反応がすごく早いですよね、国連になんもありませんですしね、これはやっぱりですね、このままだと、オバマだとグローバリズムだとか、ウェスト・ファリア体制でもいいんですけど、これ自体が脅かされる、それに対する、欧米のというより、欧米のエスタブリッシュメントですね、やっぱり恐怖といいますか、この論理が、我々の方に、イスラム教徒以外の方に、我々の国民にも来てしまうと困る、というのが私はあるんだと思います。
VIDEO NEWS » イスラーム国の論理とそれを欧米が容認できない理由

このことは、欧米や日本のエスタブリッシュメントが、イスラームフォビアといったような、かなり学者らしからぬ、無下の拒否感や、生理的な嫌悪を示していることにも、よくあらわれているように思われる。
私たち日本に住む日本国民は、産まれてから大人になるまでに、国家が提供する教育制度の中で、教育され、社会人となる。その場合に、国民と国家の、この教育制度を介した関係とは、どういったものになっているのか。
教育は、国家による、国民への一種の「贈与」の形によって行われる。それは、この教育制度に「適応」した人たちを、その後の社会人となった後において、「厚遇」して扱うといった形によって、つまり

  • よく国家の言うことに従った「従順者」

を国家が、後の人材登用時に、参考にする、という形になっている。
しかし、この「形式」は、まさにイスラーム法における、唯一神への「従順」と似ている。つまり、一種の「偶像崇拝」と捉えられかねない性質をもっている。
しかし、よく考えてみると、この指摘は、かなり本質的なものなのではないか、と思えてくる。
早い話が、

  • 東大

である。国家が与えた人材登用制度に、非常に「適応」した存在、つまり、センター試験、東大の試験で、「いい点数をとった」人たちは、東大に入学して、エリートコースに入る。そうした場合、彼らエリートたちが、その国家制度における「贈与」に対して、なんらかの「負債感情」をもつことが、まさに宗教に似ている、ということになるであろう。
そういう意味で、彼らエリートたちが、こういったイスラーム民族自決運動を「自分がもっている何かの価値を否定されている」と生理的なレベルで受けとっているんじゃないのか、とさえ感じるわけである。
では、この本が主張するようなカリフ制、つまり、「法の支配」の意味を考えてみよう。

イスラームが人々の内心の信仰を問わないことを最も明瞭に示しているのが、預言者ムハンマドの弟子ウサーマ・ブン・ザイドが伝える以下の逸話である。
アッラー使徒がわれわれを遊撃隊として派遣され[中略]私は一人の男を捕え、その男が『アッラー以外に神はない。』と唱えたにもかわらず槍で刺し殺した。それを思い出し私は預言者にそれを報告した。すると使徒は『アッラー以外に神はないと彼は唱えたのか、それにもかかわらずあなたは彼を殺したのか。』と言われました。
私はこれに対し『使徒よ、彼は殺されるのを恐れてその信仰告白を口にしたのです。』と言うと、使徒は『お前は心の底からその告白がなされたのかどうか知るために彼の胸を切り裂いたのか。』と言い、何度もその言葉を繰り返されました。」(ハディースムスリム
ちなみに、キリスト教ヨーロッパにおいては、教会は「霊的」権威を有し、教会は信者の心を支配し、信者の内心の異端信仰をあぶりだす異端審問の歴史を有する。つまり教会が信者の内心を放置せず干渉することは教会の霊的権威と不可分なのである。一方、教会の霊的権威は洗礼、叙階、聖体拝領、赦しなどのサクラメント秘跡)を「公式・独占的」に行ないうることに由来するために、キリスト教ヨーロッパにおいては、内心の信仰の自由は礼拝や儀礼の自由とセットになっている。

キリスト教社会の特徴はこの「内面」の支配にあると言えるのではないだろうか。人はなにかを考える。その場合に、その考えていることが危険だったら、その人は危険だ、と考え、それをコントロールしようとするのが、一種の心理学主義と言えるだろう。つまり、心理学という学問に求められるのは、その人の考えていること、心理状態の危険度によって、その人を

  • 精神病院の中に閉じ込める

ことにある。キリスト教的な社会のコントロールの方法は、人の「内面」を「計算」して、その人の「考えていること」を見つけだし、異端審問をするところにある、と考えられる。
この場合、大事なポイントは「人々をこの社会を破壊する行動に出ない」ようにコントロールする、社会システムにある、と言える。ある人が暴走して、この社会を破壊することを防ぐにはどうすればいいか。そのためには、その人の

  • 内面

を国家は観察している必要がある。まさに、環境管理的なシステムである。国家は、その人を「ずっと見ている」。プライベートな場所で行っていることも見ている。その場合に、人々が「どういった状態」にあれば、国家は国民を管理できるであろうか。
その一つの例が、動物園にあると言えるだろう。動物園は、その中にいる「動物」の管理に成功している。これらの動物は、まず、檻から抜け出て、脱走することが起きない。

  • なぜか?

それは、これらの動物が「物騒なことを考えない」からである。この社会を破壊するようなことを、これらの動物は考えない。じゃあ、なにを考えているのか。食欲や性欲といった刹那的な「欲望」についてである。
ここから、キリスト教社会の一つの、人間支配の形態が現れる。麻薬などを使って、人々を「理性的」に考えさせない。むしろ、狂っているということは、人間が得意とする言語能力が衰えて、むしろ、危いことが考えられなくなることで、動物に近くなり

  • 管理しやすくなる

わけである。この社会を破壊する方法のような、危険なことを、そもそも「考えられなくする」ことによって、この社会の「秩序」の維持を達成する。人間の「動物化」とは、人間の非言語化であり、言語を話さない「動物」と同型に、人間を

  • 戻す

運動だと考えることもできるかもしれない。
しかし、こういったキリスト教的な人間の「野蛮」化を目指す方向は、例えば、イスラーム法と相性が悪い。なぜなら、イスラーム法は、唯一神イスラーム教徒にさずけた「言葉」が、なによりも重要だからだ。イスラームにおける、あらゆることは、この「言葉」をめぐって行われる。彼らにとって生きることと、これらの「言葉」は切っても切れない関係にあるからである。

中国の世界観は華夷秩序と表現されるが、この世界観において、文明それ自体とみなされる儒教の道徳教育(王化)が重要であり、この教えを受け入れた国は「中華」、「王土」、「神洲」の一部となり、教化の及ばない土地はこの華夷秩序においては未開世界とみなされ「化外之地」と呼ばれる。この政治思想において、為政者「皇帝」は確かに天意を受けた「天子」と呼ばれるが、皇帝が華夷秩序の中枢にあるのではなく、儒教の教えそのものがこの政治秩序の中枢であり、皇帝もこの教えを超越した存在ではなく、逆に儒教の教えの徳を体現することが求められており、皇帝といえども、儒教の教えに背き徳を失えば、天意を失ったとみなだれ、放伐の対象となる(易姓革命説)。

この指摘は興味深い。なぜなら、日本の飛鳥時代に中国の律令制度の導入を構想したエリートたちが考えていたことも、この「華夷秩序」だと考えられるからだ。日本はここで、天皇を「天子」の座にして、中国と並び立つ「華夷秩序」を、日本国内に構想した。もちろん、この構想は、その後の日本の「封建制」社会への必然的移行によって、頓挫したわけであるが、この政治的野望は、明治維新政府によって復権された、とも考えられる。
こういった「法の支配」に最も対立するのが、実は「民主主義」だと考えることもできる。カール・シュミットナチス政権を定義したとき、彼が強調したのは、

  • ヒトラー総統が行うことの一切を「合法」化

するような、人治政治という「独裁」形態であった。むしろ、ヒトラーは法の下に「いかなる意味でも」制限されていないことこそが、近代主権国家の「定義」なんだ、と彼は考えた。
しかし、よく考えてみると、例えば、ルソーの一般意志も、同じことなのだ。これは「民主主義」であることが、重要なポイントではない。ルソーの一般意志は、人々が考えたことは

  • なにをやってもいい

という「自由」に関係している。独裁者はやりたいことのなにをやってもいい。彼らを制限するものはなにもない。それは、「民主主義的手続き」を経て決定しているかどうかといったことは、本質的な問題ではない。そこに

  • やってはいけない

ことが、「ある」という倫理的な命題を一切、ぬぐい去ることを許している、といったところに本質があるのであって、だから、1%対99%といったような格差社会を実に

  • 簡単

に実現してしまう、といったようなところに、近代主権国家の「恐しい」側面がある。
この本において示されるカリフ制における、社会構想において、特筆すべき特徴は、いわゆるこのカリフ制というものが、「帝国」的な官僚制度をもつことになっても、この「国家」は、教育や医療保険制度を行わない、ということである。両方とも、

  • 社会

の中で、民間が勝手に行うことになる、となっている。しかし、そのように考えてくると、この社会構想は、いわゆるノージックが言っているようなリバタリアニズムにも、かなり近いんじゃないのか、といった印象を受ける(むしろ、ノージック自体が、こういった遊牧民的な社会構想をかなり意識していたのではないか)。
つまり、リバタリアニズムは確かに、人々は「ほとんど」、国家に税金を払わない。しかし、彼らはだからといって、この社会を、弱肉強食のアナーキーなままにしておいても、秩序の維持が可能と考えられるわけがない。むしろ、お金持ちは積極的に慈善活動をする。稼いだお金の大半を寄付する。そしてそれは、

  • 信仰

といったような、個々人の「内的」な動機によって起きる。つまり、この社会は「人々が当たり前のように、みんなの教育のために寄付をするし、お年寄りの医療のために寄付をする」ような社会をイメージしている。
しかし、である。
このことは、もしも私たちが、いわゆる世界宗教と呼ばれているような理念を生きているなら、当たり前のようにも思えてくるわけである。困っている人がいるなら、助ける。このシンプルな理念を、実際に「実行」に移したと考えたとき、民間部門から「無料の教育機関」や、「無料の医療機関」が自然発生的にあらわれ、運営されることは、それほど不自然であろうか(いや、むしろ、マルクスが考えていたような、未完の共産主義の姿を示しているようにも思われる...)。