「花とアリス」について

岩井俊二監督の映画「花とアリス殺人事件」を見に行った感想は、お客が全席を埋め尽しているというところまでもなく、とはいっても、それなりにお客がいて、といった感じで、なんというか、それなりに「理解」して見に来ている人は来ているのかな、といった印象を受けた。
つまり、この作品には「前作」がある。2004年に公開された実写映画「花とアリス」は、岩井監督が売れっ子ということなのだろうか知らないが、どこのレンタル屋に行っても置いてある。
しかし、その内容は、なんとも言えない微妙に「分かりにくい」作品になっている(というか、きっと、この人の作品はすべて、こんな感じなのであろう)。
まず、前作から10年の歳月をおいて作られた今回の「殺人事件」は、一言で言ってしまえば、前回の「フラグ」の回収になっている。
十年前の作品は、花が「嘘」をつくところから始まる。つまり、一見すると、この「嘘」をめぐる弁証法の物語なのかと思いがちになる。しかし、物語の終盤に行くと、この作品のテーマは実はそこにはないんじゃないのか、といったことが「示唆」される。花は自らがついた「嘘」によって、恋人になった彼氏に嘘をつき続けるために、アリスにもその嘘を「演じる」ことを求める。そのことによって、花の彼氏とアリスには、少なからぬ「関係」が生まれるようになる。
このことを知るようになった花は、自分の彼氏のアリスへの思いに気付く。しかし、花は、

  • アリスはいい奴だから幸せにしてやってほしい

と言う。なぜか? これがフラグである。この関係が、10年を経て、今回の「殺人事件」によって、花とアリスが出会う場面に戻って描かれた、ということになる。
この十年前の作品は非常に不思議な構成になっている。つまり、花が「嘘をつく」中で、次第に回りにその嘘がばれていく話の展開の背景として、アリスがモデル契約をして、いろいろな仕事の面接に行くが「うまくいかない」様子が、オーバーラップされて、描かれる。つまり、花の「嘘」と、この大人社会の面接の場面が対比されて描かれていることに注意がいる。
この大人社会の面接の場面において、大人たちの表層的な「関心」は、まったく、アリスが

  • どういう存在か?

に迫っていかない。徹底して、この二つはすれ違い続ける。大人たちは、まったくアリス「その人」を見ていない。目の前にいても、彼女は「記号」として消費されるだけで、アリスの本質に入ってこない。対照的に、花とは「ダメな女」である。彼女は嘘をつく。まあ、最近で言えば、小保方さんみたいなものである。そして、彼女自身が自分は何かを欠落した、欠点のある存在である、ということを分かっている。そういう意味では、彼女はアリスが面接を受ける相手の大人たちと同じような、チャラいし、本気で目の前に向きあおうとしない全ての人たちと同じ感性を共有している、と言ってもいい。しかし、ある一点において、この二つは極端に違っている。
つまり、花にとっては、アリスがかけがえのない「いい奴」だという関係について、である。
花という「だめ」な存在と、その彼女が彼女にとって「アリスはいい奴」と言わずにいられない関係のある「現れ」が、大人社会に一瞬だけ開示されるのが、最後の面接の場面で、アリスが面接官の前で、バレエを踊るところであろう。この、セーラー服のまま、アリスがバレエを踊り続ける場面は「異様」である。この場面は、極端に、この映画の中で浮いている。結果として、このときのインプレッションによって、アリスはモデル雑誌の表紙を飾ることになるのかもしれないが、そのことが、この踊りが「評価」された、といったこととはなんの関係もない。実際、面接官は真面目にバレエを見ていたわけがない。むしろ、重要なことは、アリスが学校の制服で、ある「空間」の中で、バレエを踊っていることの、あまりにも

  • 浮いている

異質感なのである。そのことは、この踊りが「評価」されるかどうか、といったことと関係ない。だれも関心をもっていない。だれも、興味もない。そんな中で、彼女が「その場」で踊り続けている、その姿の異常さ。その踊りの、だれにとってもの

  • 関係のなさ

が逆に、花とアリスの二人が共有する「何か」の起源を示唆していたわけであろう。
10年前の作品において、すでに花はある時期、「ひきこもり」をしていたことが示唆されている。そして、彼女がその「ひきこもり」をやめた、たち直ったことに、アリスが関係していたことが示唆されている。
それがなんだったのかが描かれたのが、今回の作品である。
これを見ると、ある「関係」が最初に描かれていることに気付く。アリスは、「転校生」なのだ。彼女は、以前は、もう少し都会に住んでいたことが示唆されている。しかし、作品を見る限り、この場合の引っ越してきた「田舎」は、関東圏といったような、十分に「都会」の印象を受ける。つまり、十分に電車網が地域にはり巡らされていて、少しの小銭が懐にあれば、好きなだけ、電車で行きたいところに行ける「都会」の子どもの生活圏を、感じさせる。
転校してきたアリスは、この地域の子どもにとっての「外部」である。他方、花は隣に住んでいた、幼馴染との「関係」において、一線を超えた行為において、傷ついたことにより、家から一歩も出られなくなっていた。
花の「暴力」は、いわば「共同体」の暴力である。親しいし、子どもの頃から「知っている」という関係から生まれた「一線を超えてしまった」行為だと言える。花にとって、この「身近」な関係は、子どもの頃から知っているし、ずっと好きすぎるし、といった

  • 内面の自明性

が、あまりにも自明であるがゆえに、超えてしまった、共同体的暴力であるが、そうであるがゆえに、その暴力の「結果」によって、相手に何が結果したのかを、

  • 自分から

知ろうとすることができない。怖くてできない。もしも、知ってしまうことで、それが最悪の結果だったなら、それを行った自分の最愛の人への(ストーカーであるが)、最悪の後悔を、どう考えても引き受けて生きられるわけがない、と思うがゆえに、ある日を境に、自分が家から一歩も出ることができなくなっていることに気付く。
この関係を「破壊」したのが、アリスである。アリスは、花の幼馴染が事件の直前まで住んでいた、花の家の隣の家に引っ越して来る。それと同時に、アリスは花の家に、花のひきこもっている部屋に、その家に残っていた、彼女の幼馴染のテスト用紙を手にとって、勝手に入ってくる。このアリスと花の、最初の出会いが「花の<内部>」世界を、モノローグの引きこもりの世界を

  • 破壊

する。アリスという「外部」が、彼女の閉じて肥大化した「内面」の世界を、相対化した、外部にひっぱりだす。そんなことは「たいしたことじゃない」と、彼女に気付かせるわけである...。