中田考「価値観を共有しない敵との対話は可能か」

今回のISの問題において、ずっと、ひっかかっているのは、例えば、ISは自らが行った残虐行為をビデオに録画して、

をしたが、ISではない「有志連合」側は、それをしていないだけの「違い」なのではないか、といった疑いが晴れないからであろう。
ここで「見えない」と言ったことの理由は、それが「国家による行為」だから、といった側面があることは理解されるのではないか。国家とは、ベンサムによる「パノプティコン」が示唆していたように、

  • 国民を監視する

組織である。この監視によって、税金の徴収や、犯罪の取締を行う。ところが、この「反対」はどうなっているかと言えば、「ブラックボックス」である。国家は見せたくないものを、国民に隠す。いや、本質的に国民に隠すことに意味があるわけではない。国家は

に隠すわけであり、それが国民であろがなかろうが関係ないわけである。
国家は世界の本質を隠して、まるで自分が「善良」であるかのように見せようとする。なぜなら、それが国家の「聖性」であり「正当性」を担保するからだ。国家は「いい人」なのである。だから、革命されない。この

  • 建前

が全てを決定する。

そもそもイスラーム国の出現自体が、二〇〇三年のアメリカのイラク侵攻後のアメリカとその傀儡のシーア派の政権によってスンナ派住民が虐待されたことへの反動によるものである。中でも二〇〇四年のファッルージャ侵攻では人口三〇万人の町が破壊し尽くされ、住民の多くが家を失い難民化し、残った一〇〇〇人あまりの民間人が殺害された。
ファッルージャはそれ移行もしばしば米国とイラク政府軍の侵攻を受け多くの住民が犠牲になっているが、ファッルージャだけではなく、イラク全土でスンナ派住民は米軍により、「テロリスト」と誤認されたり、巻き添えにされたりで傷つけたられ殺され、あるいは裁判もなく投獄されるなどさまざまな不当な虐待に苦しめられてきた。

さて。このように見たとき、アメリカは「いい人」なのだろうか。アメリカがイラクに「介入」することによって、そこには「シーア派」の政権が誕生した。すると、アメリカと、このシーア派イラク正規軍は、イラクにいる、少数派のスンナ派を、このように徹底して弾圧を始めた。
では、なぜISは、国際社会から袋だたきにあっているのか。しかし、この場合に、ISを袋だたきにしている「人」が、誰なのか、を注視する必要がある。それは、「国連」が一番分かりやすい。
戦後の国際秩序は、「国連」から始まった。つまり、それは軍事的な意味においては、「常任理事国」を意味している。この少ない国家が実際には、あらゆる正当性を決定してきた。常任理事国の一つであるアメリカが、イラクをこのように、

  • 変えた

ということは、それだけで「国連」的な正当性が生まれてしまう。ところが、ISは、いわゆる中東における、今の国家の「枠組み」自体に対して、異議を申し立てている。つまり、今の国家の枠組みが変わるべきだ、と言っている。
このことは、つまりは今の「常任理事国」たちが戦後に勝手に決めた、中東の国家の枠組みに対して

  • これでは嫌だから、自分たちで決めさせてくれ

という「声」がわきあがってきたわけである。
つまり、何が起きているのか?
そもそも、今、中東において、ISに反対しているのが「誰」なのか、が問われているわけである。
まず、一番にその先頭に立っているのが、中東において、石油などの鉱物資源がとれているために、非常に「豊か」な国の運営を行っている「独裁者」であり、王族と呼ばれている「権力者」であることが分かるであろう。彼らは、今の自分たちの既得権益を失うことを恐れている。実際彼らは、それだけの権力をもつだけの「正当性」があると思っている。それは、言わば

  • 国連

が、

が「彼ら」に「与えた」プレゼントだったわけであろう。ISはそれに反対している。こういった意味において、ISの主張は少なからず、「アラブの春」と呼ばれていた民主化の運動と関係している。
つまり、このように考えてみたらいいのではないか。もしも、中東のイスラームスンナ派の人たち「全員」によって、どういった政治形態が、この地域に生まれたらいいか、と

を行ったとするわけである。

また二〇一五年一月二九日付『ニューズウィーク』紙が報ずるところによると、オックスフォード大学の人類学者スコット・アトランは米国防総省と提出した議会に報告書を提出し、「(イスラム教徒の間で)カリフ国の理想は不滅であり、その復活が多くの人の心を捉えるのは間違いない」と述べて、この段階で欧米諸国がカリフ国の打倒を目指しても全世界のイスラム教徒の反感を買うだけであり、本当に必要なのは「カリフ国の理想と現実を、近代社会と共存可能なものに変えていく努力だ」と、論じている(http://www.newsweek/stories/world/2015/01/isis-3_1.php)。

ISが言っていることは、かなり古代イスラーム法について「勉強」して、主張している。彼らの言う「カリフ制」が、言わば、広域的なイスラームスンナ派による「帝国」のようなものを主張していることに対して、それを「民族自決」の問題として考えたときに、実際にその担い手が、ISになるかどうかはともかくとして、そういった「理念」による

を、この地域の人たちが「目指す」ことを、「あなた」は認められるのか認められないのか、といった「原則」論が今、世界中の人に問われているわけである。私たちはこの問いから「逃げて」いいのだろうか?

イスラーム法は来世での最後の審判における賞罰によってその効力が担保された神授の天啓法であるためカテゴリカリーにイスラーム教徒だけを拘束する属人法であり、異教徒には適用されない。
イスラーム法が、戦闘において女子供、老人、病人、修道士のような非戦闘員を殺害してならないのも、ジズヤ(人頭税)を納めることに同意した異教徒とは戦争が禁じられ永代居住庇護契約を結ばねばならないのも、慣行が成文化したわけではなく、また敵との力関係、利害打算の産物でもなく、神からそう命じられたからであり、ムスリムは「一方的」に順守するのである。
西欧に生まれた国際法が、国際法の正当性 / 合法性(legitimacy)を承認した法的主体全員を拘束するのに対し、イスラーム国際法イスラーム教徒のみを拘束し、異教徒はイスラーム国際法の正当性 / 合法性(legitimacy)の承認を求められることはなく、イスラームの家(ニアリー=イスラーム国家)の内部に住む庇護民はカリフと結んだ庇護契約(アクド・ズィンマ)、イスラームの家の外部の敵性国家の場合はカリフとの間に締結した休戦協定(スルフ、フドゥナ、アフド)を自分がなした約束であるが故に守ることだけを求められるのである。
イスラームは、イスラームと他の宗教、イデオロギーが共約不能で決して一つにはなれないことを当然の前提とする。他の宗教、イデオロギーを信奉する他者は、価値観を共有しない敵である。しかし、イスラームは、他の宗教、イデオロギーを信奉する他者が価値観を共有しない敵であると見做すが、価値観を共有しない敵とは対話も交渉も共存もできないとは決して考えない。
そうではなく、異教徒であり、「自分の言葉(約束)を守る」なら、対話が成立し交渉による共存が可能であると考える。そして、言葉(約束)を守らないと考えるべき証拠が示されない限り、異教徒であれ人は言葉を守るものである、との人間理解がこの法思想を支えている。それは人間を「理性的(言葉を話す=ナーティク)動物」として定義したイスラーム文明におけるギリシャ文明の受容からも説明できる。

例えば、こう考えてみよう。アメリカ軍は、この中東で、無人機を使って爆撃を行う。では、そうやって「死んだ」無実の民間人の家族に、賠償金を払ったであろうか? さらに、質問を続けよう。アメリカがイラクで使った劣化ウラン弾を、「内部被爆」として浴びて、体調を崩した、多くのアメリカ軍人に対して、賠償金を払ったであろうか?
これが「国家」の軍隊である。なんの罪も犯していない、無実の人の人生を狂わせて、どうしてなんの賠償も行わないで生き続けていい、などという法がありえようか。国家の軍隊とはなんなのか。国家の軍隊は

  • いい人

なのか。私たちは、いつまでこういった「欺瞞」を生きるのか。つまり、以下のような「未来」を構想する可能性が残されている。
アメリカが、できるだけこの中東での「アメリカ軍の行為による非軍人である民間人に対する賠償」を始めて、彼ら「イスラーム教徒スンナ派」たちによる、「カリフ制」を基本理念とした、一種の「帝国」的な国家建設構想を、

  • アメリカとの友好関係を前提として

認めていく国際政治の可能性について、である(この場合、すでに、その担い手がISでなければならない、といった理由がまったくないことに注意がいる。つまり、この未来社会がISでない担い手によって導かれようがなんだろうが「いい」ということである)。よく考えてみよう。こういった構想は非現実的であろうか。私は少なくとも、この日本において、日本の政治学者、政治哲学者、日本の政治家などに、この問いをつきつけるところから始めたらいいんじゃないのか、と思うわけである...。