エントロピーの社会学

人によって、それぞれ、この社会について考える上でのアプローチというのはあると思うが、私が特に重要視しているのが

である。エントロピーについてイメージする上で、一番いい例は、自分の部屋があるだろう。もしあなたが、何日も自分の部屋の掃除をしなかったとする。その場合、当然、部屋の中は「ちらかる」。これが、エントロピー増大の法則である。この動きは「不可逆」である。つまり、なんらかの意図によって、「あえて」この動きにあらがって、部屋をかたづけようとしない限り、この部屋はどんどんらかっていく。
ここで大事なポイントは、この部屋をかたづける、といった動きは、

  • 非常に大きなエネルギーを必要とする

ということである。これが、秩序維持費用となる。では、ここで「問題」は何か、ということになる。つまり、この秩序維持費用を払うことは

  • 割に合うのか?

なのだ。私がここで考えているのは、例えば、アニメ「サイコパス」における、シビュラ・システムのようなものである。国家は、ベンサムの言うパノプティコンがそうであるように、国民を「監視」している。この場合、大事なことは実際に監視をしていなくてもいい、ということである。国民が、国家によってずっと見られているんじゃないか、と、なんとなく気になっていてくれればいい。それによって、国民が悪いことをできないと思ってくれればいい、というわけである。
しかし、アニメ「サイコパス」における、シビュラ・システムにおいては、究極の「安心」社会の実現を目指す。いいとこのボンボンが、どこの馬の骨とも分からない下層階級のチンピラに、間違っても殺されてたまるかと考えた人間は、完全なる

  • 監視社会

の実現を目指すようになる。この社会の「悪」は、暴力である。つまり、残虐さである。うちのかわいい子供が、だれかに殺されるなんて、どんなことがあっても、起きてはならない。つまり、うちの子供を殺そうとする一切の人間は、

  • その前

に、無条件でこの社会から排除しなければならない。これを実現する「ツール」として、シビュラ・システムは開発される。ここにおいて、人間が人間を殺すという行為は、

  • 殺人を犯す前に「数値化」されている

という「仮説」が立てられる。大事なことは、実際に殺人が行われるかではない。というのは、そんなことが起きてからでは遅いからだ。よって、シビュラ・システムの「判断」は、

  • 一切の殺人を犯す可能性のある存在の排除

でなければならない、といった「結果」になる。
一体、誰が殺人を犯すのか。
それはこのシビュラ・システムにおいては、「どうでもいい」ということになる。なぜか? なぜなら、大事なことは「それを行う」かどうかを判断するのは、もはや人間ではないからである。一切の殺人は、もう「存在」しない。なぜなら、人間が殺人を犯す

にシビュラ・システムが、その人を殺すからである。よって、殺人という概念はなくなる。つまり「平和」になる。ところが、毎日、何人もの市民が、シビュラ・システムによって殺人予備軍として、「殺処分」され続ける、ディストピアが成立する。
この場合、次のように考えることができる。もしも、いいとこの家の子供「自体」が、シビュラ・システムによって、「犯罪者予備軍」と判断された場合である。シビュラ・システムは、純粋に「数値」化されたシステムであり、そのアルゴリズムは「ブラックボックス」である。なんだかわからないが、ある人が「犯罪者予備軍」と判断されるが、その根拠が示される必要はない。
この場合、このシビュラ・システムをお金持ちたちが「理想社会」と考える場合、これによって結果的に悪人になるのは、貧乏人であると考えがちである。なぜなら、貧乏であることが、犯罪の「動機」の大半であると、お金持ちたちは考えがちだからだ。
しかし、社会主義的な思想の人にとってみれば、お金持ちでありながら、稼いだお金の大半を寄付もしないで、貯金しているような連中は、それだけで「犯罪者」みたいなものである。なぜなら、お金がなくて困っている人がいるのに、そういった人たちを見殺しにしているのだから。
つまり、そんなに単純ではないわけである。シビュラ・システムのアルゴリズムが、一体、結果として誰を犯罪者予備軍と判断するのかを、アプリオリに決定することはできない。そういう意味においては、まさに、ランダムに住民は、祈りの儀式の供物として、何割かの住民が、「狩られる」社会がシビュラ・システムだと言えるだろう。
どうして、こういうことになるのだろう?
しかし、こんなことは少し考えれば、だれでも分かるのではないか?
つまり、国家にとって、「ある」一人の個人は「どうでもいい」わけである。国家にとっての関心は、その「統計」的な結果である。全体として、それぞれの割合で、どういうことが統計的に言えるのかであって、特定の、ある個人一人などどうでもいいのだ。他方、個人の方にしてみれば、この関係は、対国家として、完全に決定する。国家の振舞いによって、個人は振り回される。
国家にとっての関心は、全体として、ある傾向性をもつことによって、結果として、

  • まあ、概ね、困らない傾向

にあってくれればいい、ということになる。多少の例外は発生しようと、それぐらいに対して対処する程度の「コスト」は、最初から見積れる。このように考えてきたとき、国家が最も「理想的」な統治の方法は、

だということが分かるであろう。つまり、住民が自分たちで勝手に「秩序」を維持してくれる形態が一番、好ましい、ということである。このことは、例えば、イスラーム法を考えてみてもいいであろう。それによって、イスラーム教徒の「求心力」が成立するなら、まず、この線での「自治」を認める方向で考えた方がいい。なぜなら、それによって、彼ら自身が勝手に

  • ルールを守る

生き方をしてくれるからである。つまり、最もエントロピーを少なく、統治を成功させるのは、住民が勝手に従いたいルールを、彼ら自身のルールにさせて、勝手に守らせるに限るわけである。
国家が強制的に、住民を「コントロール」しようと考えたとき、そのコントロールは、どれほどの「エントロピー」に反するための「エネルギー」を必要とするだろうか。
ところが、住民が「自主的」に、あるルールに従ってくれるなら、その「ため」の国家によるエントロピー縮小のための「エネルギー」は一切いらない、ということになる。なぜなら、それに従うエネルギーを各個人が「自分」で、供出している、というのだから。
これが、古代中国の老子の時代から続く、「統治」の基礎である...。