クリス・カイル『アメリカン・スナイパー』

映画「アメリカン・スナイパー」は、クリント・イーストウッド監督による、なんとも言えないテーストの作品であったが、私はむしろこの、クリス・カイルという人そのものに興味がわいてきた。
たしかに映画は、なんともいえない、「厭戦」的な雰囲気をかもしだしていて、どこかしら、ベトナム戦争末期の泥沼の状況をどこかしら示唆しているような印象もあった。例えばそれは、クリス・カイルの四回目の遠征において、彼の「復讐」のあせりから、相手のスナイパーを殺害したために、敵に居場所を察知され、味方の「危機」をまねきよせてしまう。「英雄」の軽率な行動が、自軍に危機的な状況を招きよせてしまう。
しかし、この場面は非常に印象深い描写が続く。アメリカ軍のスナイパーたちが次々と、相手のイスラムレジスタンスを射殺しても、その脇から、次々と姿を現して、アメリカ軍に立ち向かってくる。脇で、次々と倒れていく味方がいるのに、まるで、死を恐れないかのように、勇敢に立ち向かっていくイスラムの人たちの、いつまでたってもどんどんわいてくる、彼らの無尽蔵の「人数(中東は日本と違って、人口増加社会ですからね)」の姿が、どこかしら、ベトナム戦争を思わせる、

  • 勇敢に立ち向かっていく異民族

の人たちの、どこか「勇者」と言いたくなるような姿を描くことで、単純にどちらかを「敵」「味方」と呼べるほど単純ではない、といった世界観を描こうとしている。
言うまでもなく、この映画には「原作」がある。つまり、クリス・カイル自身による掲題の自叙伝である。
映画のパンフレットを見ると、町山さんが、この映画について批評をしているが、その内容は、むしろアメリカでの、この映画をめぐる賛否両論の報告といった内容になっている。

また、主人公クリス・カイルの人格も批判された。彼は生前、インタビューでさまざまなホラを吹いていた。曰く、ハリケーンカトリーナで被災したニュウーオリンズで、略奪する暴徒たち30人を狙撃した。曰く、テキサスのガソリン・スタンドで強盗ふたりを射殺した。曰く、酒場で「イラクで女子供を殺したくせに」と絡んできた元プロレスラーのジェシー・ベンチュラを叩きのめした......。3つともホラだと確認され、元ネイビー・シールズでもあるベンチュラは名誉毀損でカイルを訴え、彼の死後、勝訴した。
町山智浩「『アメリカン・スナイパー』論争とPTSD」)

私はこの辺りから、あれっと思うようになってきた。つまり、がぜん、このクリス・カイルという本人に興味がわいてきた。そして、掲題の本を今読んでいるわけであるが、この本は、あの映画とはまったく違う。

撃つことが私の任務だった。だから今でも後悔していない。女は死んだも同然だった。ただ私は、海兵隊員が巻き添えをくわわないようにしただけだ。
女は海兵隊員たちだけを殺そうとしていたのではない。近くにいた他の人間が手榴弾で吹き飛ばされようが、銃撃戦に巻き込まれて死のうが気にしていなかった。それが通りにいた子供たちや家のなかにいた町の人々、そしてたぶん自分の子供であったとしても......。
女は悪魔に心を侵され、まともな判断力を失い、そうした人々のことを考えられなくなっていた。とにかくアメリカ人を殺したかったのだ。
私が放った二発の銃弾はアメリカ人の命をいくつか救った。そのひとつひとつが、歪んだ心を持ったあの女の命よりもたしかに価値のあるものだった。自分のした仕事になんらやましいところはない。おれについては神の御前で誓うこともできる。私は、あの女の心に巣食っていた悪魔を心底憎んでいる。今でも憎んでいる。
野蛮で、卑劣な悪魔------それが、私たちがイラクで戦っていた相手だった。だからこそ私を含めた多くの人間が敵のことを "野蛮人ども" と呼んでいた。実際、私たちがあの国で遭遇した相手を表現する言葉はそれしかなかった。

映画は原作を逸脱して、厭戦的でイラクの子供に自分やアメリカの子供を、どうしても投影してしまう、良心的な「アメリカ人」の姿を描こうとしている。そういう意味では、映画は、実に、クリント・イーストウッド的な「思想」を投影されたものになっている。彼の考える「戦争=地獄」といった描写は、以前の硫黄島での日本軍との戦闘を描いた映画でもそうであったように、むしろ、PTSDの方が彼にとっての「主題」になっていて、どこか抽象的な印象が消えない。
それに対して、この自叙伝は、「イデオロギー」的なのだ。
上記の引用は、この文庫の最初の章でエピローグ的に紹介されている場所だが、まさに

のレトリックであることが分からないか。自分が「理解できない」ことが「ある」と言うことと、

  • 女性

を射殺しているという「事実」を前にして、彼女たちは「狂って」いるんだから、射殺するのは当たり前だ、と。それが「蛮族」に対する「公平」な扱いなんだと。
しかし、私が注目したのはそこではない。「私を含めた多くの人間」が彼らを「野蛮人」だと言っていた、と言う。つまり、何が言いたいかというと、彼は

  • みんなが言っている

と言いたいわけである。異教徒の成人女性を「魔女」扱いして、射殺したのは、自分だけじゃない。みんな、そうだったんだ、と。自分だけが狂っていたんじゃないんだ、と。
彼は、この自分にとっての「持論」を、たんに自分の「主張」とだけ言うことができなかった。もしそうすれば、「みんな」は自分が狂っているんじゃないか、と思わずにいられなかった。だから、「みんながそうだったんだ」と言わずにいられない。
しかし、である。この場合、「みんな」とは誰だろう?
日本の戦前から戦中にかけて、非国民という言葉と共に、日本の大衆は「密告」社会の優秀な「スナイパー」になった。住民は、住民同士を「監視」して、自分の「友達」の中に、非国民因子がいないかを監視することを生き甲斐とする連中によって、構成された。そして、実際に、非国民分子を密告して、学校の教師に

  • チクれ

ばチクるほど、学校の成績は良くなり、東大に合格した。「いじめ」社会とは、まさに、この非国民密告社会の、子供ヴァージョンだと言っていいだろう。
同じようなことは、3・11以降の原発問題において、再現されているように、私は認識している。原発の問題は、政府の要人がすでに何人か言っているように、原発の存続が日本の「核兵器オプション」のために

  • 必要

だから、存続しなければならない、と言っている。つまり、国家は明確に、原発の存続は、「日本の軍事戦略」上の関係からの選択だということを認めている。つまり、これは地域住民の被爆の深刻度と

  • 関係なし

に決定している、ということを意味する。つまり、一部の安全厨たちが言っているような「被害が少なかった」から、福島は復興する、といったこととは「関係ない」のだ。日本政府は、はっきりと、たとえ原発による被害が国民にとって、甚大なものであったとしても、その確率が無視できないレベルだとしても、「日本の軍事戦略」上、原発を推進する、と言っているわけである。
ということは、どういうことか。これら安全厨が言っていることは、本質的ではない、ということである。
福島の人が福島に住み続けようがどうしようが、本質的ではない。そんなことに関係なく、国家はこの国にある、何割かの原発は稼動し続けようとするし、あとはその

  • 国家の意志

に自らが従順に従うか従わないか、の二択しかない。そして、これは国家の意志なのだから、これに逆らう勢力は「非国民」であることを意味し、つまりは、優等生たちが「出世」の手段として利用してきた

  • 密告

の対象だということを意味しているにすぎない。
私が原発ダークツーリズムに反対の理由は、非常に単純だと言っていい。というのは、原発立地県に子供時代を過ごした人の多くは、学校の修学旅行や社会科見学で、原発の見学に行っているんじゃないか、と思っているからである。つまり、その「体験」があるからである。
そのとき、みなさんは何を見ましたでしょうか。よく考えてみましょう。東電は、そういった見学に来た人たちに、自分たちの不都合な部分を見せようとするでしょうか。私たちは、そういった子供の頃、何を見ていたでしょうか。
これは、例えば、イラク戦争の戦場を「ダークツーリズム」として、アメリカ政府が、アメリカ国民に見せようとする場合でもそうでしょう。もしかしたら、それは、この掲題の本のようなものであるかもしれません、もしかしたら、もう少し、エレガントに洗練させてあるかもしれません。ディズニー映画のように、危ない思想を脱色させたような無味無臭なものかもしれません。
しかし、いずれにしろ、これらの「密告」優等生主義を媒介するものが、上記にある

  • みんな

という、なんだか分からない、「共感」連合体にあることが分かるのではないでしょうか。彼らの特徴は、常に、自分の「持論」を、「みんな」と同じ価値観だ、と主張せずにいられないところにあるのではないでしょうか。つまり、「いじめ」メソッドの特徴だと言えるでしょう。「いじめ」は常に、徒党を組みます。そして、一人の無力で孤高の存在を、複数でボコボコにします。
ここでの「共感」は、この

  • みんな

を通して「国家」に媒介されます。学校の授業で「いい成績」をとることは、国家の「命令に従う」ということです。つまり、学校の成績が国家への従順度を決定します。学校の成績が良ければ良いほど、国家への従順さの「完璧」さを意味します。つまり、成績が悪いこと、イコール、「非国民」度の高さを意味します。共感は、同じ「人間」としての共感ではない。国家優等生として、国家によって命令される「学校の成績向上の義務」に努力することの苦労への

  • 共感

であって、同じ優等生としての、

  • 国家への共感(を媒介とした共同体)

のことであることが分かるであろう...。

アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)

アメリカン・スナイパー (ハヤカワ・ノンフィクション文庫)